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慟哭のメタモルフォーゼ  作者: 田中 スアマ
第二章
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第二章(2)

 三分前に研究室へ入ると、既に鹿島らを除いた全ての学生が着席していた。開けた扉に反応した全員にぎこちない笑みを浮かべて会釈し、そそくさと後ろの席へ座る。椅子に座って顔を上げた時には、全員が鹿島らに何の興味も示さなくなっていた。


 学友とはいえ陰気臭い奴らだと、鹿島は内心で蔑む。教授も来ていないのだから談笑でもしていればいいのに、思案を好む余りにどいつもこいつも陰気臭く黙り込んでいる。文学部生の癖かあるいは院生やただの受講生など知らない顔も多くいるので、変に気を遣っているのかもしれない。


 立て付けの悪い、引き戸の音が鳴り響いた。開いた扉の先には水谷教授がいた。間一髪のギリギリセーフだったが、教授は鹿島らの顔をちらと見ると少しだけ眉をしかめた。


 四限はゼミ生と大学院生を交えた、合同発表会だ。旧時代の文豪に対するアプローチがテーマで、青貝は地元に石碑を持つ文豪を綿密に調べあげ、鹿島は適当に名前が浮かんだ近代文学者の経歴をインターネット事典でコピーアンドペーストして纏めた。


 周囲を見渡した鹿島は〝彼女〟に気付くと、暇そうに壁際の本棚に並んだタイトルを眺めていた青貝の肩をツンツンと突いた。


「青貝、ほらあの子……」


 鹿島が指し示した先にいたのは、最近よく見かける女子学生だった。ゼミ生でもないのに何度かこのゼミを聴講している。ウェーブをかけた平野とは違う水のように流れる長髪と切れ長の目は、何者も受け付けない拒絶するような印象を受ける。


 あの凛々しさは文系というより理系や体育会系の面だと、鹿島は勝手に思っていた。とっつき難そうではあるが綺麗な子ではあるので、鹿島は一度だけ青貝を焚き付けて彼女を飲みに誘った事があった。


 中学生のようにドキドキしながら勇気を振り絞った青貝に、彼女は一言「無理」と突っぱねた。それ以来青貝は心に小さな傷を負い、鹿島は酒の席での鉄板ジョークとして話のレパートリーに加えた。青貝に意中の女性が出来るまでは、このネタで絞れるだけ笑いの出汁(ダシ)を搾り取ってやろうと思っている。


 ゼミの間中も彼女は何も喋らず、誰かが発表している間もただじっと水谷教授を見つめていた。教授を見る目も尊敬や学習意欲、ましてや恋心でもない珍奇な昆虫の観察のように視線を揺らしている。


「また来てるよ。今日はゼミ生の発表日なのにだぜ?」


 うりうりと腕を押し付ける鹿島に、青貝は面倒臭そうに鼻を鳴らす。


「きっとウチだけじゃなく他のゼミも見てるんだろ? 恐らく二回生の子で、来年のゼミをどれにするか悩んでいるだけだろうよ」


 そう言う青貝の顔には、若干の照れが見え隠れしていた。鹿島はそれを見逃さず畳みかける。


「にしてはお前に対する視線に、熱いものを感じるぞ? 遂にお前にもモテ期が来たか?」


「うるせえバカシマ! だったらお前だって……」


 青貝の言葉に、彼女は教授に向けていた顔を二人に向けた。女子学生はじっと目を細めてこちらを見る。


 思わず「やべっ」と呟き、鹿島は視線を降ろした。だが目が合うと女学生は眉を潜め、プイと振り払うようにそっぽを向いた。本屋でいつまでも新刊コーナーに置かれる本を見てうんざりとしたような、飽き飽きとした目だった。


 その視線になんだか猛烈に恥ずかしくなって、鹿島は横に座る友を見た。


 目を合わせた青貝はプッと息を漏らした。


「お前も振られたな、バカシマ。実はお前も狙ってたんじゃないか?」


「うるせえ、アホガイ。いいんだよ、俺はショートヘアが好みなんだよ」


 吐き捨てるように言ったが、言葉とは裏腹に鹿島は何の怒りも湧いていない。旧人類だった頃より続く彼とのやりとりが形骸化したに過ぎない。


 怒りなんてもう、何年感じていない。火花を見かけただけで水をかけてしまうアンデスの存在は、完全なる平和と同時に人の個性も削除しているのかもしれない。


 真向いの男子の発表を聞いていると、扉がガタつく音がした。教授も生徒も皆揃っているの中で、わざわざここに入って来る者はいない筈だ。時間の空いた先生や副手が資料でも取りに来たのだろうか。


 扉の方に振り向いた瞬間、二人の時間は停止した。鼻でも口でもないどこからか空気が漏れ出していき、その音が耳に轟いている。肉体の限界とアンデスが悲鳴をあげる底根まで、空気が失われていく。


 そこには鹿島も青貝も忘れた、正確には意識の底へと沈められたアンデスの検閲禁止処置を受けた者の姿があった。


「おや東雲(しののめ)くん、今日は休みじゃなかったのか?」


 そこにいたのは、食堂前で自縊死していた女性だった。繭からはみ出ていた服装も鏡餅の蜜柑のように飛び出ていた頭も、全てがさっきの死体のもので間違いない。


 唯一先ほどから変わっていたのは、彼女の顔には明らかに〝生気〟が宿っていた。紫がかっていた顔には朱が差し、二の腕から生える産毛が蛍光灯の光を反射して風にそよいでいるのが見える。


 彼女が一歩前に歩いた瞬間、花のような優しい香りが流れた気がした。傍にいるだけで強制的に安らがせるような、安寧の暴力の香りがした。


 鹿島は思い出した。この女性は水谷ゼミに時折やって来る、文学部の院生だった。あまり目立たない大人しい女性で、水谷教授の講義の際や客員教授の講演時には小間使いをし、平野みたいな陽気過ぎる学生に対してオドオドとしていた記憶がある。


 鹿島は青貝を見た。青貝もまた驚き、同時に怯えているようだった。彼もまた鹿島の視線に気付いて何かを訴えようとするが、一目で頭が現実に追いついていないのが分かる。


 教授と同じく他のゼミ生らもこの歪な状況に平然としていた。まさか彼女が死体だとは思わないだろう。ゾンビにしては瑞々(みずみず)しく幽霊にしてはクッキリとした彼女の姿には、変異や蘇りをイメージするには物足りなさを感じさせる。


 例えるならそれは〝進化〟だった。あの白い毛糸の繭に包まれていた少女は殻を破り、新たな自分へと羽化したのだ。


「東雲君? どうかしたかね」


 東雲は教授の言葉に振り向くと、小さく笑みを浮かべた。見ているだけで笑い返したくなるような、赤ん坊のような屈託の無い笑みだ。


 鹿島も青貝も彼女の動作の一つ一つがあまりにも自然過ぎて、自分の記憶を疑い始めていた。不自然な状況がどんどんと自然に変わり、アンデスによって過去の記憶が歪なモノとして正されていくような気がする。


 あれは見間違いだったのかもしれない。こんな見ているだけで癒されるような少女が、絶望に巻かれて死ぬ筈がない、と。


 そんな中で鹿島だけが、それに気付いた。誰もが呆けた笑みを浮かべる中でただ一人、あの気の強そう女子学生だけが、彼女を見て身体を強張らせていた。


「東雲くん? 一体どう──」


 隙間風のような音が響くと同時に、教授の声はそこで途切れた。

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