転生勇者とコミュ障魔王
どうも皆さん初めまして。勇者です。
…………。おや? どうしてそんな、頬をゆがめた微妙な表情をなさるのでしょう。もしかして意味が伝わりづらかったでしょうか。知り合いから「こう言っとけば大体オッケー」と伺っていたのですが……。
では改めて自己紹介をさせていただきましょう。私は勇者です。といっても、住んでいるのはこれをお読みの皆さんと同じ世界、すなわち、地球という惑星の日本という島国です。現在の身分は平民出身の高校2年生、通っているのは何の変哲もないごく普通の公立高校。学級委員長を任されたりはしていますが、ここに関しては細かい説明は必要ないと判断します。
皆さん興味がおありなのは、私のもう一つの身分のほうでしょう。正体、と表現しても差し支えないかもしれませんが。
勇者、なんて職業が日本に存在しないのは百も承知です。そして私は決して、思春期特有の幻想にとりつかれたイタイ若者でもございません。私が勇者なのは紛れもない事実であり、魔王を倒して世界の平和を守った記憶も、はっきりとございます。
すなわち、私の人生はこれで二度目。前世が幻想世界における勇者で、その記憶を引き継いだまま今世を生きることになった。それだけの話なのです。
誤解のないよう最初に言っておきますが、望んで二度目の生を得たわけではありません。勇者だった頃は世界の平和を守ったあと、私を好いてくれていた仲間の一人と結婚し、二人の子をもうけ、とても幸せに天寿をまっとういたしました。ほんの少しだけ自分の葬式の様子を見ましたが、それはそれは一国の王でも死んだのかと思ってしまうほど豪華なお葬式で、参拝客など果ての山のさらに向こうまで長蛇の列を成していたほどです。おかげで満足して永遠の眠りにつこうとしたそのとき、死を司るという死神様から、こんなことを言われました。
「ごめん勇者チャン、ちょうど魔王チャンをあの世に送るのとタイミング被っちゃってさ、記憶のリセット効かないかもしんないの」
死神様によれば、私が倒した魔王はいわゆるあの世行きを拒否し、死後も死神様たちの住む世界で暴れまわっていたそうです。私が死んだのがちょうど死神様たち総出で魔王を撃退することに成功した直後で、さらにその過程で、死んだ人間の記憶をリセットする装置も破壊されてしまい、復旧のめどが立たないわ魔王みたいな特例を増やすわけにはいかないわで、死神様たちもてんやわんや。とりあえず私をさっさとあの世に送ってしまえ、と、こういうわけです。
その場で第二の魔王になろうか半ば本気で迷った私ですが、いくら死神様たちの身勝手とはいえ、迷惑をかけたのが魔王であるなら尻拭いをするのは勇者の務め。記憶を引き継いで新たな人生を歩むというのも他にない機会ですし、せっかくだからと快諾いたしました。
これが、私が勇者として、この世に転生したことの顛末です。
都合がいいのか悪いのか、もともと規格外スペックで勇者をこなしていた私は、この世界でも文武両道、二枚目、爽やかで聞き取りやすい声、そしてモデル体型の高身長と、ハイスペックな人間として生まれました。もちろんそれを鼻にかけるつもりはございませんし、事実ご学友の皆さんには『貴公子』なるあだ名をつけられ親しまれております。すなわちこの世の者とは思えない容姿を持ちながら何者にも分け隔てなく接する聖人のような存在と認識されているわけですね。
さて、長々と身の上話を語ってしまいましたが、こんな私にも一つ、大きな悩みがございます。初詣のおみくじで大凶を引いたその日に靴紐が切れたかのような、えもいわれぬ不安が奥底から湧き出てくる。そんな悩みです。正直、今日も学校に行くのが少し憂鬱に感じるくらい、常日頃私の周囲をぐるぐると、蛾のように飛び回っています。
ああ、噂をすれば、ほら。あちらから私を見つけ、とてとてと走り寄ってきます。悩みの種が。
「おっはよー、貴公子! 今日もいい天気だな!」
「うん、おはよう。雲ひとつない快晴だね」
私の心は曇天ですけどね。
からっと晴れた空を元気よく指差し、その人は飛び跳ねるように私の前を歩きます。そのたびに二つに結った漆のような髪が揺れ、制服のスカートの裾から健康的な色の太ももが見え、貧相な胸部は鉄板のごとく動きません。背負った鞄には、恐らく必要以上の物が詰め込まれているのでしょう、ごさごさと変な音を立てながら激しくバウンドし、しまいにはその重さに釣られてバランスを崩しそうになってしまっています。それとなく背中を支えてやると、にこっと笑ってこちらを振り向き、
「ありがと!」
どういたしまして、と答えるかわりに、私は微笑みかけます。はあ、このやり取り、一体何度繰り返したことでしょう。それも同じ時間に同じ場所でほぼ毎日。
そして次には、急におとなしくなって私の横に並び、こう言うのです。
「あの、なー……。い、一緒に行ってもいいか?」
「もちろん」
それに答える私の台詞も、用意されたかのように一緒。なのに無邪気に頬を赤くして喜ぶところまで、ここ数日ずっと続く毎朝の習慣と化しています。
ええ、ええ、仰らずとも分かっております。察しのいい皆さんならもう分かったことでしょう。ですからその握り拳をどうかお納めくださいませ。私とて贅沢な悩みであることは承知しておりますので。
この女性の名前は菅田流歌さん。私のクラスメイトで、席が隣同士にある間柄です。いわゆるツーサイドアップという髪型の頭頂部が2本のツノのように見える特徴的な髪がひときわ目を引き、さらに黒目が極端に小さいがゆえの三白眼と好戦的にも見える表情に息を呑み、最後に突拍子もない言動で一人狂乱する姿を見て一歩退く。一言で説明するなら、持ち得ているあらゆる個性が全て邪悪な方向へと傾いている結果、万人がコミュニケーションを諦める変人。それが彼女です。
ご覧ください。この、私と菅田さんの前に広がる見事なまでのモーゼ。学友の方々、通行人、通りすがりの野良猫、誰もが揃って道を開けるこの異常な光景。
それもこれも、テンションが上がった菅田さんが髪を振り乱しながらボックスステップを踏むという、怪しすぎる行動をとっているからに他ならないのですが。どうも当人は気づいていないようなので、私はこほんと咳払い。
「菅田さん菅田さん。どうせ踏むならスキップにしよう。でないと、いつまで経っても学校にたどり着かないよ?」
「あ、ああ、うん! そ、そうだな! 前に進まないとだもんな!」
我ながら奇妙な提案ですが、菅田さんはそれで満足だったようです。るんるんと本当にスキップを始め、私をあっという間に置いていってしまいます。呆れながらも追いつこうと私が歩き出し始めた、そのとき。
菅田さんがぴたりと止まりました。
首が急旋回して斜め後ろを見ます。その目は、三白眼だったはずの黒目がすんぐりと大きくなり、まるでドクロの眼窩のように思えるほど不気味な形をして、一点を見つめています。
視線の先を追ってみれば、道端の塀の近くに、車に轢かれた死にかけのカラスがいました。痙攣にしか思えない羽の動きを、菅田さんはじっと、ただじっと、他にすることを忘れたとしか思えないほどじっと、見つめて。
私は背筋を走る悪寒に従い、彼女の視界を自分の手で塞ぎました。
「菅田さん。菅田さーん? どうしたの?」
何でもないことのように振る舞い、ふりふりと手を振ってみせます。次第に黒目は常識的な大きさに戻っていき、ぱちくりと数度まばたきをした菅田さんは、元通りの三白眼で私を見上げてきました。
「……貴公子? あ、ご、ごめん。ぼーっとしてた」
「いいけど、大丈夫? 体調が悪いなら、無理しないで、学校を休んだほうが……」
「ん……ううん、大丈夫だよ。それに学校休んじゃったらもったいないだろ。せっかくその、ほら、なんだ……あれなのにさ」
ごにょごにょとすぼんでいく声は聞こえなかったことにして、私は周囲を見渡します。
誰も気づいていませんでした。
比喩表現ではないのです。さっき、彼女の目は間違いなく、真っ黒に膨れ上がっていました。下手な子どもが描いたラクガキにしか思えないほど滑稽に、そして歪に、確かに変貌してしまっていたのです。
しかし、道行く人は誰も、彼女の変貌に気づいた様子はありません。遠巻きに見ているのは彼女の言動がついさっきまで変だったから関わらないでおこう、と思っているからに過ぎません。何なら「なんでそんなのと一緒にいるんだ貴公子」なんて声までかけられる始末ですが、それこそ異様だった菅田さんに気づきもしていない証左でしょう。
菅田流歌の奇妙に気づいているのは、私だけ。
理由はとても簡単です。
彼女は、私が前世で倒した魔王の生まれ変わりなのですから。
学校にたどり着くと、なにやら校内が浮き足立っている様子。どこが、と詳しく説明できませんが、なんといいますか、甘いにおいがどこからともなく漂ってくるような。昇降口で靴を履き替えている間には熱のこもった視線をえらく遠いところからひしひしと感じますし、というか校門くぐったあたりから何人か分の視線がくっついてきてますし、ついでに言うと菅田さんの足元にも及ばない怨嗟の視線も感じられるのですが、はてさて私、何か悪いことしましたっけ。
菅田さんもなにやら挙動不審です。いや挙動がおかしいのはいつも通りですが、しきりに鞄を開いて手を突っ込んでは引き抜いて閉じて、というのを繰り返しています。りんごのように真っ赤になった顔からはただの奇行という感じはせず、何かを迷っているような気配がしますが……。
そんな様子のまま後ろをついてこられても困りますね。教室が一緒ですから仕方ないにしても、今にも泣き出しそうな顔してるせいで私のほうが不審者じゃないですか。
いやまあ10人中9人が菅田さんを凝視しているわけですが。「なんであんなのが貴公子の後ろをついて歩いてるのよ」なんて声も聞こえてきます。ふとその人のほうを見てみると、手に綺麗にラッピングされた箱を持っていました。その隣の人もそのまた隣の人も、同様の箱を揃って手に持っていることに気づき、遅まきながら私は今日という日が何の日だったのかを思い出しました。
そうです。バンレタインデーではありませんか。校内が浮ついた雰囲気になっているのも、視線を妙に感じるのにも納得です。
そして菅田さんは何とかして私にチョコレートを渡そうとしているのでしょう。出すことすらままならずもはやチャックを開け閉めしているだけになってしまっているほど緊張している、と。
元魔王に好意をもたれているだけでもアレなのに、あまつさえチョコをもらうなんてどれだけ複雑な気分なことでしょうか。姿かたちは違うといえど、命どころか世界の命運まで賭けて戦った相手からのバレンタインチョコなんて、本能的に毒物の気配しかいたしません。さすがの私でももらいたくありませんよそりゃ。
いっそ真っ向から拒否してしまおうか、しかしそれではいくらなんでも私の面目が潰れてしまう、と悶々としながら教室に入り、自分の席に向かう道すがら差し出されたチョコを半ば機械的に受け取り、着席してもなお目の前で鞄を開け閉めしている菅田さんをさてどうやって追い払おうか考え始めた矢先。横からにゅっと級友の顔が突き出てきました。
「よう貴公子。朝っぱらからモテモテじゃん?」
それに驚いた菅田さんは蜘蛛の子のようにどこかに逃げ去っていきました。これ幸いとばかりに、最初から気づいていないフリをしていた級友との談笑に逃げ込みます。
菅田さんはいわゆるコミュ障です。というより、まともに会話の成り立つ相手は恐らく私しか存在しません。先ほども皆さんにお伝えした通り何かと奇行の目立つ人ですので、今談笑している級友のような一般的な方には、基本的に避けられています。いないものと扱われている、と表現したほうが正しいかもしれません。せいぜい、私のそばにいるときだけ、まるで小汚いコバンザメを見るような目で見られるくらいです。そんな皆さんに菅田さんのほうも積極的に関わろうとはせず、今のように、臆病にも見えるほど逃げ惑って生活しています。
逃げて自分の席に着席し、あくまでも自然を装って机に突っ伏した菅田さんを横目に見ながら、私は今日一日をどうやって乗り切ろうかと、思案に暮れるのでした。
まさか一日逃げ続けられるわけもありません。学校内という狭い空間では逃げ場所が限られてきますし、そもそも同じクラスである以上、行動範囲もある程度被ってきてしまいます。菅田さんのことですから奇想天外な発想と行動でとんでもない手段を思いつき、実行に移してしまうかもしれません。いくら中身魔王とはいえこの世界では女の子、まさか殴って退散させるわけにはいきませんから、彼女の術中にはまったが最後、複雑な心境を抱えながらチョコレートを受け取る以外に選択肢はなくなるといって過言ではないでしょう。ということは、必要なのは窮地に陥った際の打開策ではなく、あらゆるアクシデントを防ぐ防止策であるといえます。この場合、一番有効なのは今のように他の級友と話をすることです。男女の性別に関わらず、菅田さんは私の近くに誰かがいるときには絶対に近寄ってきません。幸いにして今日はバレンタインデー、私が何もせずとも、主に女性のほうから用事をこなすために近寄ってきてくれることが予想されます。自分の評判に自惚れるつもりはございませんが、今日ばかりは、少し利用させていただくのも悪くないかもしれません。
朝のホームルームのために教師が入ってきたのをきっかけに級友との会話を打ち切った私は、ひそかに心に決めたのでした。なんとかしてチョコを受け取るまい、と。
が、突如として、脊髄を直接殴られたような痺れにも感じるほど強烈な悪寒が背筋を駆け抜けました。とっさに目をやると、菅田さんは自分の席からいなくなってしまっています。これはいきなり何かしでかす気に違いありません。私は教師にトイレを希望し、教室から飛び出しました。
怪しまれないように廊下を移動しつつ菅田さんを探しますが、すぐには見つかりません。視線には敏感なつもりですがそれも特には感じられず。廊下の先にも窓から見える中庭にも他の教室の中にも、彼女は見当たりません。悪寒は絶えず私の背筋を凍らせており、同時にまとわりつくような負のオーラがねっとりと漂っているので、決して気のせいではないはずなのですが。
眼窩が黒く染まっていた今朝の菅田さんを思い出しながら、とりあえずトイレの中に入った私に、それは唐突に襲いかかりました。
「っ!」
背後から首筋を狙って殺気。振り返るのと同時に身をかわした私の目の前を間一髪、何か黒い弾のような物体が高速で通り過ぎていきます。偶然にも開いていたトイレの窓から飛び去っていったのは、私の目が間違っていなければ、飴玉サイズのチョコレートだったような……。
ぞっとしながらトイレの入り口を見やると、いました。菅田さんが。手にパチンコを持って。仁王立ち。
何をしたかは、考えるまでもないでしょう。私は自分の頬が自然とひきつくのを感じます。
「す、菅田さん……」
獲物を仕留め損ねた猟師の顔をした菅田さんは、私にも聞こえるほどの舌打ちをしたあと、無言でパチンコに次弾の装填を開始しました。これはよくありません。トられます。私は即座に菅田さんに飛びかかり、彼女の腕をがっしりと掴みます。
「ふぇあう」
なにやら奇声を発した菅田さんを気遣う余裕はさすがになく、私は満面の笑みを顔面に貼り付けて、
「何を思って俺の命を狙うのかな。そのチョコレートで」
「い、命なんか、狙ってないぞ! わ、私はただ、直接渡そうと思ったら無理だったから遠くからだったら大丈夫かなと思って、不意打ちなら貴公子でも避けられないだろうと思って、それで……」
チョコレート渡すのに不意打ちもへったくれもありゃしないでしょうに。まったく。それに背後から首を狙ったって、それただ当たって痛いだけでは。
ツッコミどころ満載の行動に呆れてため息をつく私。ひとまず危ないのでパチンコはしまわせて、飛んでいったチョコを回収すると豪語し男子トイレに立ち入ろうとする菅田さんを半ば抱えるようにして、その場から撤収します。真っ赤になりながらぽてぽて暴れる菅田さんでしたが、私たちの教室の前まで来ると観念したのかしゅんとおとなしくなり、自分から中に入っていきました。いつのまにか、さっき感じていた悪寒は消えていました。
ああ、頭が痛い。こんなのが今日一日続くのか。
怪しまれない程度の時間を空けてから入室した私は、もう一度、今後を憂いてため息をついたのでした。
菅田さんの攻撃は熾烈を極めたといって差し支えないでしょう。直接渡しに来る度胸も勇気もないと悟ったがゆえにどうにかして間接的に私の元へ届くようにと策を練るのですが、ことごとくが物理的ダメージを伴う危険な方法で、下手すると私はおろか偶然近くにいた関係ない人までも巻き込みかねない、まさに魔王の所業でした。
パチンコで遠距離狙撃はもちろんのこと、どこから持ち出したのかエアガンを使って向かいの校舎の屋上からスナイプしてきたり、二階から目薬ならぬ三階からチョコ玉を実行しようとしたり。これくらいならまだ可愛いほうで、なにやら足元に転がってきたと思ったら突如爆散して砕けたチョコの破片をぶつけてきた手榴弾チョコや、センサーで反応して無差別に爆発するチョコクレイモアなんかはもはや殺意しか感じられない仕上がり。しかもこれ、どちらも関係ない女子に誤爆しかけ、咄嗟にかばったせいで押し倒すわ壁に押し付けるわで、私の精神にまでダメージを与えてくる素敵仕様でした。多少女子相手におイタを働いても許される自分の日ごろの行いに感謝しつつ、さすがにメラメラと沸きあがってきたのは菅田さんへの苛立ちです。
そうです。思えば私は、なぜ菅田さんを。いいえ、魔王を、今に至るまで放置してしまっていたのでしょうか。出会ったそのときに対処しておけば安穏に暮らせたものを、まあいいかと放置してしまった結果がまさしく今、この苦労。ひとえに良心の呵責、あるいはどうにかなるという楽観視こそ、かの邪知暴虐の魔王を調子づかせてしまったように思えて仕方ありません。皆さんの生活に例えるならば、軒先に出来たスズメバチの巣のようなものです。実害が出ると分かっていながら見つけたそのときに処理するのを面倒くさがったから、やっぱり実害が出てしまっているのです。
魔王がこの世界で復活しない保障など、どこにありましょう?
そんなの珍しくもない話ではありませんか。私は勇者です。生まれ変わりとはいえ心は同じ、人々の生活や平和を守るためならば、身を挺してでも悪を討つ所存です。
そんな人間が、諸悪の根源を傍において飼いならすなどと?
時刻はちょうどお昼過ぎでした。昼食を終えた皆さんがあちらこちらで談笑の輪を広げる中、一人静かに食事をとりながら考えていた私は、食後のデザートにどうのと差し出されるチョコレートを機械的に受け取りながら、菅田さんを探すため校内をうろつき始めました。あの悪寒は今はありません。従ってしらみつぶしに探すしか手立てはありませんが、魔王の城を目指してヒマラヤより高い山を登っていたのに比べれば、大した苦労ではないように思えました。
廊下を練り歩き、階段を駆け、屋上に目を光らせる。気づかないうちにどんより曇りだした空のもと、景気よく花を咲かせる女子たちを横目に、どんな些細なヒントも見逃すまいと目を皿にして菅田さんを探します。
校舎の一階まで下りてきたちょうどそのときでした。稲妻が直撃したかと思うほどの悪寒が背筋を凍らせ、私は思わず立ち止まりました。同時に漂ってきたのは絡みつくような負のオーラなどではなく、深淵に誘う悪魔のささやきのような、邪悪そのものが渦巻く闇の気配。呼吸の仕方を忘れたかと思うほど、心臓に鳥肌が立ったのがはっきりと分かるほど、身をすくませる底知れぬ恐怖。慣れ親しんだ……というのもおかしな話ではありますが、間違えるはずもない、魔王の気配そのもの。
臨戦態勢をとった私は、ゆっくりと気配を辿ります。可視化するなら真っ黒なイバラが床や壁に張り巡らされているようなおぞましさは、渡り廊下を抜けてずっと先、どうやら体育館のほうから伸びているようです。
この世界に生まれて、こんなにも剣が欲しいと思ったことはありません。
城のように鎮座する体育館に着いた私は、入り口の扉が閉まっていることを確認します。昼休みは閉まっていて当然なのですが、気配は扉の向こうから感じ取れるのに入り口が開かないとは、少し妙です。ぐるっと外壁を回り込み、どこか中を覗けるところはないかと探していると、なにやら中から人の話し声が聞こえてくることに気がつきました。くぐもっていて内容は全く分かりませんが、怒鳴り声を上げているようです。壁にぴったり耳をつけてみてもやっぱり聞こえません。
と、何かが壁にぶち当たり、衝撃が私のほうまで伝わってきて、思わずたたらを踏みました。ボールか何かが勢いよく壁にぶつけられたものかとは思いますが……。本来であれば誰もいないはずの体育館内でひとりでにボールが跳ねているとでも言うのでしょうか。
高さ3メートルくらいのところに手ごろな窓を見つけた私は周囲に誰もいないことをしっかり確認してから、助走をつけて壁を登り、中を覗き込みました。
目を疑いました。体育館の真ん中には派手な髪色をした女子が四人くらいで円を作っており、囲われている真っ黒な何かに執拗に蹴りを繰り返しているではありませんか。やはりはっきりと聞き取れませんが怒鳴り声らしきものと女子の口の動きのタイミングが一致していて、ついでに言えば大口を開けて笑っている人までいます。少し離れたところにも二人ほど女子がおり、こちらは備え付けのバスケットボールを持ち出してきて、暇そうにもてあそんでいるようです。よく見れば、体育館内のあちこちにてんてんとバスケットボールが転がっています。
そして。何よりも。女子たちが蹴っている真っ黒な何かは、どうにか人型に見える程度の形を保ちながらも、体のあちこちが不気味に肥大化し湾曲し、もやのような影をまとってうずくまっていました。その周囲だけ、触れれば飲み込まれてしまいそうな闇が覆っています。
このままでは、まずい。彼女たちが死んでしまう。
あれは魔王だ。片鱗などではない。魔王なのだ。
夢中で窓を割った私は、入るなり何かを叫びました。気づいた彼女たちが目を見開いて驚くのにも構わず、急いで円の中に割って入り、うごめく闇そのものとなりかけている何か──菅田さんの肩をゆすります。
「な、なにさ急に。貴公子」
震える声で言ったのは、おそらく彼女らのリーダー格であろう、一番派手な格好をした女子でした。どこかで見たことがあると思ったら、今朝菅田さんを連れて登校しているときに「なんでそんなのと一緒にいるんだ貴公子」と言ってきた、あの人でした。私はぎろりと彼女を睨みつけます。
人を睨む私などを見たのは初めてだったのでしょう。彼女たちはたじろぎながらも、強い口調で言いました。
「だってさ、チョーシ乗ってんじゃん、こいつ。ちょっと貴公子に気に入られてるからってべたべたくっついて、メーワクまでかけまくってさ。アタシらずーっとイライラしてんの。こんな気色悪いチビすけが貴公子の近くにいたら、貴公子にまでチビが伝染っちゃうじゃんってさ。ねえ?」
「そ、そーそー。そーだよ貴公子。そんなの放っといてアタシらと一緒にいようよ。アタシらほら、そりゃ真面目じゃないかもしんないけどさ、誰かを楽しませることとノリに関してはチョー一流よ?」
「ホント、任せとけってマジ。せっかくのバレンタインだしさー、アマアマな雰囲気とは全然違うけど楽しいことしよって」
などと。聞くに堪えない戯言を。
「黙ってもらえるかな」
虫唾が走る。反吐が出る。私は確かに勇者で善人だ。だが、いや、だからこそ。裁くべき悪に躊躇は必要ない。
こほん。失敬、つい本音が。知らぬとはいえ魔王の復活を助長させるなどと愚かな行為をしていた彼女たちを、放置するわけにはいきません。熱くなりかけた頭を急速に冷やし、怯えたように震える彼女たちに、私は笑顔で言いました。
「弱いものイジメに理由はいらないよ。そして残念ながら、俺は理由のない悪意ってやつが大嫌いなんだ。分かったらさっさと出て行ってくれる? 心配しなくても今回のことは黙っててあげるから」
指一本でも菅田さんに手を出そうとしたらコロス。
そんな視線の意味を察したのかどうかは知りませんが、彼女たちは私の手が届く範囲に決して近寄らないように気をつけながらゆっくりと移動し、入り口の鍵を開けるや否やものすごいスピードで逃げてしまいました。遠くのほうから魔王でも見たかのような恐ろしさすら感じる悲鳴が聞こえてきます。怖いですねぇ。
さて、あっちは別にいいとして。問題はこっちの、覚醒しかけた魔王のほうで。
一時に比べればいくらか落ち着いたものの、左腕はマンモスのごとく肥大化し、頭は燃え盛る黒い炎に包まれたドクロ、空洞の口にはサメの歯がちらりと見え、腰から下は馬のようなひづめを持ったたくましい足に変貌している、キメラも真っ青な怪物を、私はよくもまあ菅田さんだなどと思えるものです。この格好に見えているのが私だけというのがまこと不思議で仕方ありません。
ただ、私はひそかに胸を撫で下ろす思いでした。なぜならこの黒い炎に包まれたドクロというのは、前世で魔王だった頃の真の姿と瓜二つなのです。他のキメラっぷりは恐らく力が十分に発揮できていないがゆえの弊害かと推測しますが、なんにしろ、本当に魔王が復活してもおかしくない一歩手前だったということでしょう。
私はなるべく優しい声を作って、話しかけました。
「菅田さん。もう大丈夫だよ。菅田さん」
ぴくり、と体が震えて、異形の菅田さんはこちらを振り向きます。ドクロがこっちを向いても怖いだけ、と思いましたが、その顔はみるみるうちに特殊メイクを落とすように剥がれ落ち、元の人間、菅田流歌の泣きはらした顔が現れました。目は充血して腫れ、頬にはくっきりと殴られた痕。痛々しい。
「…………き、こう、し……?」
かすれきった声に頷きます。馬になっていた下半身は黒ストッキングに包まれた細い足を取り戻し、肥大化していた肉もぐんぐんしぼみ、歯も人間のものに戻っていきます。数秒も経たずに菅田流歌の形を取り戻した彼女は、何度か両手を虚空で泳がせたあと、倒れるように私の胸に抱きついてきました。
「こ、わ……こわか、った……」
そうでしょうとも。私には想像することしかできませんが、力のない者が力ある者に囲まれることが、どれほど恐ろしいことなのか。誰の助けも期待できない場所で、どれだけ声を張り上げても届かない絶望感が、いかほどに心を蝕むのか。私はそんな人々の悲痛な声に心を痛め、勇者として世界を救うことを決意したのです。力ある者の支配を除けられるのは、同じように力ある者だけなのですから。
私は菅田さんの頭を優しく撫でます。
「心配しなくても大丈夫、もうあんな目に遭うことはないよ。怖がる必要はもうないから、安心して……」
「違うんだ!」
「え?」
腕の中にいた菅田さんが叫び、ぎゅうっと、私のシャツを掴んできます。
「私、私、痛くて、嫌で、腹が立って……なんか、ぞわぞわしたものが、胸の奥から這い出てくるみたいな感じがして……私が私じゃなくなるみたいですごく怖くて……!」
そう訴える菅田さんの三白眼からどんどん白目の部分がなくなっていき、眼孔から溢れた闇が涙のように頬を伝い、しかし震える手は私の服を離そうとせずに少女の確かな怯えを伝えてきます。
こんなことは初めてでした。
魔王の形が表出することは決して珍しいことではありません。それは彼女の感情が極端に高ぶったり、一般的な人が凄惨に感じる何かを目撃したりしたときに、私だけに分かる変化として現れていました。そう、私だけにです。菅田さん本人も例外ではなく、今朝のように本人にはおかしくなっていた自覚などまるでないのが通常でした。
しかし今、彼女はこうして、自分の身に起きた変化を明らかに感じ取り、怯えています。私が私じゃなくなるみたいで。この言葉が意味するところなど想像するに難くないでしょう。つまりそれだけ、さっきの状況は私の懸念する最悪の事態に近かったということで。
私はここに来た当初の目的を思い出します。無防備に私に抱きついているこの少女の首を折ることなど、きっと造作もないことです。恐らくはそれが、勇者として私が取るべき行動に違いありません。今の菅田さんは導火線が極限まで短く切られた爆弾のようなもの、ほんの些細な刺激から世界を滅ぼしかねない危険因子なのですから。私が感じ取れないところでさっきのようないじめに遭えば、その復活は防ぎようがありません。
「貴公子ぃ……私……私ぃ……」
いつのまにか顔が元に戻っていた菅田さんが、大粒の涙を流しながら私を抱きしめます。手や腕だけではなく全身が震え、私が手を離すだけで死んでしまうのではないかと思うほど儚げな体が、本能的な庇護欲をそそります。
外見は少女。中身は魔王。私は勇者。たったそれだけのことなのに。
ああ、どうして。死神様はこんなにも残酷な運命を、二度目の人生に与えたのでしょうか。やはりあのとき第二の魔王になっていればよかったのでしょうか。好奇心は人を殺すと言いますが、こうも。
結局、私はすぐ答えを出すことができませんでした。菅田さんが泣き止むまで木偶の棒のように、へたり込むだけでした。
あのあとすぐ保健室に菅田さんを連れていき、念のため体の検査をするという保険教師に彼女を任せ、憂鬱な心を引きずったまま残りの過程を過ごした私は、霧の晴れない山道を進むような気分で終業のホームルームを迎えていました。あからさまに元気がなくなった私を級友の皆さんは心配してくれたのですが、告白してフラれでもしたのかと茶々を入れられたり、チャンスとばかりにチョコと共に私を篭絡しようとしたり、どちらかといえばますます私の気分が落ち込んでいくばかり。おかげでぐったりと机に突っ伏したまま、教師の言葉もどこか上の空で聞き流している始末です。
菅田さんは結局戻ってきていません。級友どころか教師すらも最初からいなかったように扱う彼女のことが、なんとも身勝手なことに、哀れに思えて仕方がありません。本当に一度は殺そうとした心なのでしょうか。別のものに取り替えられたと言われてもあっさり信じてしまいそうです。
帰り支度の喧騒の中にあっても、私はぼーっと座ったまま、どこともつかない虚空を見つめ続けていました。何人かに肩を叩かれたり話しかけられたりした気はしますが、応答する元気はありませんでした。一人、また一人と、私の様子を気にしながら級友たちが教室を去っていき、とうとう本当に一人ぼっちになったとき、ようやく私は重い腰を上げて帰ることにしました。それも特に理由があってのことではありません。ここに居続けるわけにはいかないから帰ろうと思った、それだけのことです。
いつもよりゆっくりした足取りで昇降口に向かい、人がまばらな中靴を履き替え校門を出たところで、私はつと足を止めました。
菅田さんがいました。出てすぐのところで塀にもたれかかって、誰かを待っているようです。頬にはガーゼが当てられています。私は心の中をぐしゃぐしゃとかき回されるような感覚を味わいながら、菅田さんに声をかけました。
「菅田さん」
一瞬びくりと肩を震わせた菅田さんは、声をかけたのが私だったことに気がつくと、ぱあっと明るい笑顔を浮かべ駆け寄ってきました。
「貴公子! 待ってたぞ! 一緒に帰ろう!」
「うん、それはいいんだけど……。大丈夫なの? 体のほうは」
「ちょっとアザは残ってるけど大丈夫だって、先生が言ってた。貴公子のおかげだぞ!」
「そっか……」
それは良かった。という言葉はなぜか声にならず、喉に引っかかって潰れてしまいました。無言で歩き始めた私を不思議そうに覗き込みながら、朝と変わらぬご機嫌な様子で、菅田さんが横に並びます。
いつもよりさらに距離が近い。手が自然に触れ合いそうな距離。るんるんとスキップする菅田さんを、私はじっと見つめました。
「ん? どうかしたのか、貴公子?」
「いや……」
どうして待っていたんだろう。そんな簡単な質問すら言葉になりません。口をつむぐ私をまたぐっと覗き込み、なにやら口をニヤりと歪ませ、菅田さんは笑います。決して邪悪な気配はしません。いえ、むしろ可愛らしいとまで思えます。そんな心境の変化に、私自身もきっと動揺を隠せていないのでしょう。
「なんか珍しい顔してるなぁ。ふふん、ちょっと面白いぞ」
憎たらしい少女の頭を軽くチョップし、私は歩き続けます。
「あのさ、貴公子。今日のこと、ちゃんとお礼言いたいし、わ、渡したいもの、もあるからさ。ちょっとだけ寄り道していかないか? な? いいだろ?」
そうです。以前ならこの誘いも、やんわりと断ることができたはずなのです。
「じ、時間は取らせないと思うから。たぶん。……きっと。いや、ちょっとだけかかっちゃうかもしれないけど、許容範囲内だと思うから。だからえっと、なるべく人気の少ないところに……ぐ、具体的には公園とかに、ちょびーっとだけ……」
もじもじとろくろを回す菅田さんを、可愛いなどと思うことはなかったはずなのです。
それなのにどうでしょうか。ええ、認めますとも。私は今、高揚を感じています。女性にここまで言われておいて誘いを断るなど考えられないくらいに。しかして素直にはいと頷けないのは、緊張のせいなのか何なのか。
首を回したり曇った空を見上げてみたり、無駄に時間を稼ぐだけ稼いだ私は、菅田さんのほうを見れないままぼそりと呟きました。
「……分かった」
とても貴公子などというあだ名らしくないぶっきらぼうな言い方でしたが、菅田さんは目をぱちくりと瞬かせたあと、急に爆発したように顔を赤くして早足になりました。見失ってしまいそうな速度を慌てて追いかけます。
走りながら私は考えます。取り返しのつかないことをしているのではないかと。今からでも遅くないから引き返せば、誘いをしっかり断れば、今まで通りの毎日を送っていくことができるはずだと。好意を寄せてくる菅田さんをうまくかわし、貴公子としてこの世界を生きていく平凡な毎日が送れるのだと。
しかし、もう引き返せないだろうことも、どこかで理解していました。私の勇者が叫ぶのです。復活するかもしれない魔王を放置して生きていくことなど決してできない。たとえ己の平穏を捨てることになったとしても、そう、自分でも分かっているじゃないか。魔王の尻拭いをするのは勇者の役目なのだ。私が勇者である限り、魔王との縁を切ることはできないのだ、と。
それならばいっそ。逃れられないというのなら立ち向かおうではありませんか。そのほうが難しくなくていいし、勇者らしいともいえるでしょう。
建物と建物の間に土地が余ったからとりあえず作りました、とでも言いたげな何もない公園にたどり着き、菅田さんはようやく立ち止まりました。お互いにすっかり息が上がった私たちは、一本だけ生えていた木の陰に移動して、呼吸が落ち着くのを待ちます。私たちの他には誰もいません。通行人からも、恐らく凝視しなければ見えないでしょう。私と菅田さん、二人分の吐息だけがしばらく続きました。
菅田さんは相変わらず真っ赤な顔をしたままで、私のほうをはっきり見ようとはしません。ただ私の近くにはいたいのか、音もなくにじり寄ってきているのが分かります。拒む理由はありませんから、私も気づかないフリで、彼女が満足する距離まで近づかせました。
こういうときは私から話を切り出すべきなのでしょうか。ここに誘ったのは菅田さんのほうですから、余計なことは言わずに待っているべきなのでしょうか。ええと、前世ではプロポーズのときどうしましたっけ。あのときとは環境が違いすぎるから参考にはならないか。待った覚えはないので私から告げたのでしょうが、いかんせん今回に関しては全く余裕がありません。心臓の早鳴りは急な運動のせいだけではないのです。
無意味に足踏みを繰り返していた私は、きゅっと服の袖をつままれたことによって我に返りました。唇をきっと真一文字に引き結び、私を睨みつける三白眼にもどこか潤いをたたえた菅田さんは、一度大きく深呼吸をしてから、上ずった声で言いました。
「き、貴公子には。会ったときからずっと感謝してるんだ。私はほら、こんな性格だから友達なんていないし、できるはずもないって思って生きてきた。そんなのいらないって思い込もうともしてた。誰のことも気にしないで私だけの世界に浸っていれば幸せだ、私はそういう人間に生まれたんだって、一生懸命思おうとしてたんだ」
それでも傷つかないわけがない。奇妙な虫を見るような目で遠巻きに観察されて何も気にしないでいられるほど、孤独に強いわけじゃなかった。
「多分、我慢の限界だったんだと思う。私はネットで、動物の死骸とか戦争の犠牲者とか、気持ち悪いものを見て気分を落ち着かせていたんだ。私なんかよりよっぽど醜くて気持ち悪いものはたくさんある、って。だから私は、生きた人間でいられるだけ多少はマシなんだって」
けれどそんなとき、私は出会ったんだ。初めて私をまっすぐ見てくれる人に。奇妙さを笑ってくれる人に。
「変なことを言っても、何をやっても、私から離れていかない。むしろ近くに来てくれる。それが心から嬉しくて、でもどこか申し訳ないなって思うときもあった。無理して付き合ってくれているだけかもしれないと思うと、怖くて不安になることもあって。正直、それは今日までずっと思っていたんだ。感謝の気持ちを伝えよう、そしてもし、私に無理に付き合わせているんだとしたら、私のほうから離れよう。だって貴公子は人気者だから、私なんかのために無理をさせるわけにはいかないもん」
今日あんなことがなければ、それか一方的に気持ちだけ渡すことができてたら、多分それでよかったんだ。貴公子の傍にふさわしくないなんて、誰かに言われなくても分かりきっていたことだから。
「あいつらにいじめられて、殴られて、蹴られて……自分が自分じゃなくなっちゃう嫌な感じがして、怖くなったとき。私、思わず叫んでた。貴公子、助けてって。そしたら貴公子、本当に来てくれたんだ。私のこと、助けてくれたんだ。ぎゅっと優しく抱きしめてくれたんだ。……嬉しかった。幸せだって思えた。それで、そのとき思い出したんだ。貴公子に会う前、ネットで気持ち悪いものを見ていたときにも、あんなふうな嫌な感じがしたんだってこと。私がもし人間じゃなくなったらこいつらと一緒になってしまう。そんなの嫌だって助けを呼んでたら、貴公子に出会った。そう、二度目なんだよ。貴公子に助けてもらったのは」
思い出したらもう止まらなかった。傍にいたいって気持ちがあふれ出して、恥ずかしいのと同時にすっごく嬉しくて。早く伝えたいけど我慢したいような、我慢してたらおかしくなっちゃうんじゃないかって思うような、幸せな気持ち。
「だからさ。いっぱいいっぱい、これまでのことと今日のこと、感謝してる。ありがとう」
それと、本命。全部、全部、ここに詰まってるから。
「大好きだ。私と、お付き合いして、ください!」
…………。突き出された四角い箱を、私は無言で受け取りました。
遅まきながら理解します。全て繋がっているのだと。二人の生は背中合わせで、その行く先は天の気まぐれか、はたまた私たちの意思なのか。
どうでもいいことのように思えます。きっと私は同じことを繰り返すのでしょう。たとえ記憶を失っても。
「菅田流歌さん」
その場にひざまずき、手を取ります。嬉しいよりは恥ずかしいが勝っているらしく、菅田さんはりんごのような赤い顔を空いた手で隠し、身をよじっています。私は構わず言葉を続けました。
「誓いましょう。今後一生を、あなたと共に過ごすことを」
魔王よ。あなたはなぜ魔王なのか。
勇者よ。私はなぜ勇者なのか。
それが運命というのであれば、神よ。今しばらくの平穏をお与えください。
私はまだ、彼女を殺したくはありません。




