Ψ-8 桑本雄介の場合
──二〇二二年二月七日(事件発生より二年後)
「ここの野菜炒めがまた旨いんすよ。あ、おばちゃん、野菜炒め定食ふたつ。あと唐揚げもつけてね。こちら僕が以前、鬼の扱きを受けたセンパイ」
「あいよぉ!」と威勢のいい笑い声をあげておかみは厨房の方へ入っていく。大坪が桑本に連れてこられたのは昔ながらの古めかしい定食屋だった。
「鬼の扱きはないだろ。元気にやってるみたいだな」
「おかげさまで。珍しいっすね、大坪さんがこんな中野くんだりまで来られるなんて」
「所用でな」
佐山の事件から二年──当時まだ新米で大坪の下についていた桑本は現在中野区の野方警察署勤務となっていた。たまたま署内で顔を合わせた大坪が久しぶり飯でも食いに行くかと誘ったところ「だったら自分のいきつけの店に行きましょう、旨い店があるんですよ」──と、そんな流れになったわけである。夜半まで降り続けた雪は「いかにも都会らしく」といった程度に積もり、午後には道路脇に避けられた塊が黒みを増すばかりとなってたいた。
昨日は事件当時に佐山が通っていた心療内科の院長である斎藤に呼び出しをくらい、今日は今日であの捜査を共にしていた桑本にばったり出くわす。やはりこういうことは続くものだなと大坪は考えていた。まるで佐山の亡霊に──いや、亡霊というならば死んでしまった滝谷の方かもしれないが──そういったものに引き寄せられている。そんな感じすらした。
二人掛けのテーブル席を選び二つ折りにしたコートを座席の後ろへ大雑把にかける。ちょうど正午となり備え付けのテレビからは賑やかな音が聞こえてきた。それを皮切りにサラリーマンたちがちらほらと顔を見せ始め、冬の昼時特有──あのむわりとした匂いと人の熱気が店内に満ちていった。
オーダーが運ばれるまで大坪は斎藤医師のことを桑本に話した。頭の中身を取り出し、再構築する。そんな復習のつもりで一晩寝かせた先日のやりとりをもう一度思い返してみることにした。
(──ひょっとしたら、私は間違った判断をしてしまっていたのかもしれません)
斎藤はそう言ってしまってから一度かぶりを振った。今言った言葉を打ち消すという意味合いなのか、それとも切り出しかたが気にくわなかったのかそのあたりは定かでない。ひょっとすると大坪と同じように斎藤も頭の中でいろんなことを組み立て直していたのかもしれない。一呼吸おき、斎藤は改めて違う方向から言葉を紡ぎ始めた。
「やはり私はあの時、医師として半分、友人として半分、佐山くんを見ている気持ちがどこかにあったんでしょうね。できるだけ彼に不利な証言はしたくなかった。そういう思いが少なからず私にはあったと思います、ええ。おそらく」
「はあ」
「私が彼の件に関して一切口を噤むことにしたのはそういうこともあったからなんです」
「や、しかし、先生、それは──」
「誤解しないでください。個人的な“憶測”で発言するようなことはしたくなかったと──そういう意味です。『あんなことをするような人ではなかった』、そう答えるのは簡単です。しかし『あんなこと』はすでに起きてしまった。最近はネットなんかですぐに尾ひれがついて一人歩きすることが多いですからね。私の無神経な発言で波風をたてるようなことだけは避けたかった、いや、それくらいは避けてあげたかった、そういうことです」
この斎藤という男が何を告白したいのかよく見えてこない。だが話す言葉がだんだん饒舌になってきているのを感じ、大坪は余計な口を挟むのをやめた。
「だからといって彼を有利にさせる発言も私はしたくはありませんでした。彼を狂人扱いするのはもっと辛いことですからね──もちろんそんなそぶりなどなかったのも事実なんです。もしあったのならクリニックの外でその前に気づいています。私にはその自信があります。ただ──」
「お待たせいたしました」と、そのタイミングで珈琲が運ばれてきたので大坪は腹の中で軽く舌打ちをした。それとなく砂糖を入れ佐山の娘、穂波の写真を眺める。そういえば由美のやつはどうしてるかなと頭をかすめるが耳の方は研ぎ澄ましたままだった。もう一度雰囲気が戻るまで、沈黙が通りすぎるのをただ待つ。
「──ただ、あの事件の直前、カルテによると一週間前の一月二十五日ですが、佐山くんが私どもの医院を訪れた時、あの時は少し違った、様子が確かにおかしかった。あなたに謝りたいというのはそこです。それをお伝えできなかったことがどうにも心苦しくてですね」
「と、申しますと」
「正直私も驚いたんです。佐山くんに会わなかったのはほんの二週間くらいでしたかね、それが──なんといいますか、人が変わったみたいだという表現がありますよね、それが比喩でなく、本当に別人のように感じたんです──」
そこで斎藤は水を飲んだ。咳払いをして喉の引っ掛かりをとる。
その隙に大坪は潤滑油としての言葉を斎藤に軽く流し込んだ。
「先生、これは『終わった事件』です。いや、私の方こそそんなことを言っちゃいけないんでしょうが──だからすべて話してくださって構いません。その方が先生のためでもあると思われます」
「ええ、そのつもりで今日は来ました。いや、なんだか私の方が診療でもされてるみたいですな」と、斎藤はまた人懐こい笑顔を浮かべた。
「ええと──」
「『比喩でなく別人のように感じた』──」
「ああ、そうでした──『何が』というわけではないんですよ。もちろん外見は同じだし、人格がどうのとかそういうわけでもないんです。うまく言えませんが──まるで何年も会わなかった友人に久しぶりに会った……一瞬、そんな感じを覚えたんですね」
「──もう少し、詳しく。佐山さんは不眠症の薬を処方してもらいに来ただけではなかった、ということでよろしいんですか」
「今思うと、話したいことがあったのではないかと。友人として話を聞いてほしかった、いや、もっと──何か打ち明けたいことがあったのでは、と」
斎藤はテーブルの表面を親指でカリカリと掻いた。ありもしない汚れを爪で剥がすような、そんな感じだった。その仕草に大坪は見覚えがあった。
「こうやって“手交ぜ”しながら佐山くんはしばらく黙りこんでました。癖なんですよね、彼の。佐山くんはとても聞き上手なんですが、自分の話となるとからっきし下手くそでしてね」
(まあ、理由を言うてみたところで誰にも理解はしてもらえん。そういうところですかね──)
「何か悩みがあっても圧し殺してしまうタイプなんでしょうな。飲みに誘われたりすると『あ、何か話したいことがあるんだな』って思うじゃないですか。そんな時も結局私が話してるのを聞いて終わっちゃうんです。いい人なんですよ。そんな時には決まってこう爪でカリカリやってるわけです」
そうだ、二年前、あの時も佐山はやはり取調室の机を爪で掻いていた。まるで汚れでもとるように。大坪は思い出す。
「子供と一緒ですよ。本当は聞いてほしい、気を引きたい──そんなサインなんですな、きっと」
「佐山さんとはその日、何を話されたのですか」
「夢の話です。寝て、見る──あの夢です」
「夢?」
「失礼ですが、刑事さん、お子さんは?」
「──恥ずかしながら、別れた女房のところにひとり。できの悪い娘が」
「ほお、娘さんですか刑事さんも」
「いえ、何もしてやれてませんので──こっちもできの悪い親父ですよ」
「でしたら話は早い。──穂波ちゃんはあの頃中学校に入学したばかりでした。まあ、これは娘を持つ親だったら多かれ少なかれ誰しもあることですが──ひとり娘の成長に伴い、佐山さんは少し、ノイローゼ気味だったのかもしれません。何度もいいますが、これはいたって普通のことです。むしろ健全ともいえる父親の心理です、ここまでは」
「ここまでは──ですか」
「ずっと悪夢に悩まされていたと本人は言っておりました。それもとてもひどい悪夢に──」
「どうもね、おまちどうさまでしたね」
桑本にその辺りまで話した時、おかみが定食を運んできた。唐揚げの香ばしい臭いがテーブル席の上に広がる。
「なんだこりゃ、すごい分量だな」
「でしょ?」
「おまえはいいかもしれんが、こっちは油もんがもうきついトシなんだからな」
「またまた」
「胡椒くれ。で、ええと──」
「『ずっと悪夢に悩まされていた』──」
「ああ、そうか、そうだ。その内容がこういうことらしい」
大坪はかいつまんで話した。
──毎晩のように佐山は、顔もわからぬ真っ黒なシルエット姿の男の夢を見ていた。男は目の前で娘の穂波をさらっていくのだが自分にはどうすることもできないのだ。警察に届けを出し、写真なども拡散し捜索するが、いつになっても行方どころかその生死すら確認できない。そんな辛辣な生活を何年も何年も妻と過ごす。だが、結局のところ娘は男に何年も監禁され辱しめをうけた挙げ句殺されてしまっていた──
「そんな悪夢に悩まされていたとさ」
大坪は野菜炒めを飯に乗せ口の中に頬張った。
「ね、マジ旨いっしょ?」
「うん、旨い」
「でも『夢の話』ですよね、それ。現実と区別つかなくなって──夢の中で娘をさらった犯人に復讐ですか? だったら『なぜ滝谷』なんです? 他の誰でもなく。まさか夢の中で特定できたわけでもないでしょうに」
「おいおい、俺を取り調べるつもりか?」
(『夢の話』でしょ、そいは──)
桑本の言葉に佐山の声が被さった。はて、あれは何の話をしている時だったかと記憶を辿る。
「そもそも娘は──穂波ちゃんでしたっけ? 娘さんは誘拐なんかされてないわけですし」
(まだ、な──)
唐揚げにかぶりつきテレビに目を向けた時、大坪はすべてを思い出すことができた。箸がとまった。番組では野球選手の秋原が覚醒剤所持で逮捕されたことを報じていた。