Ψ-6 佐山宏樹の場合
──現在より二年前。二〇二〇年一月二十四日(犯行十三日前)
佐山が娘の穂波を無理矢理学校から連れ帰った翌日の一月二十四日。その朝も佐山は穂波を家から出すことを執拗に拒み玄関先で押し問答が始まったという。
「学校なんぞ一週間くらい休んでも構わんやろ。あ、そや、インフルエンザにかかったっちゅうことにして──」
これにはさすがの詩織もあきれはてた。
「あんた、なに馬鹿なこと言うとるん。そげんことできるわけないでしょうが?」と返したが佐山はまだ納得いかぬ顔で「そいやったら……学校まで車で送る」と、そう言い出してきかなかった。
「お父さん、やっぱ昨日からなんか変だよ?」
「ええか、穂波。帰りも迎えにいくからな。学校が終わっても待っとるんやぞ」
「えーっ。こんな軽トラで送り迎えされても恥ずかしいだけなんだけど」
「頼む、な、半月、いや一週間でもよかけん、お父さんの言うことばきいてくれんか」と、なかば哀願なかば無理矢理といったように助手席に乗せてエンジンをスタートさせたのであった。
結局佐山はその日も店を休業にした。定休日である水曜日と冠婚葬祭・年末年始、それを除いてこんな風に連日店を休みにするなど今までなかったことだと詩織は後に語った。
佐山の様子がいよいよおかしいと詩織がはっきり感じたのはその三日後、二十八日、火曜日の夜のことだった。佐山は晩酌をしながらテレビのニュースを眺めていた。詩織も水仕事が一段落し隣に座って足を伸ばす。
テレビでは半年前に起きた堀川エミリという声優がストーカーに襲われた事件の続報を伝えていた。
堀川エミリは最近人気が急上昇し始めているいわばアイドル的声優の一人である。ある時期から彼女はひとりの熱狂的な男性ファンによる執拗なストーキング行為に頭を悩ませるようになっていた。次第にエスカレートしてくる男の言動に身の危険を感じたエミリは警察に届けを出したのだが、男はそれを逆恨みし彼女の部屋に忍び込んで暴行、顔や体を何十ヶ所にわたってめった刺しにしたのである。
なんとか一命はとりとめたものの堀川エミリは未だ病院のベッドから起き上がることができずに恐怖に怯えていた。一方犯人には懲役十五年の判決が下りた。だがその残虐非道な行為に対して“たった十五年”という判決はエミリの両親は愕然とさせた。「娘が心と体に負った深い傷を元どおりにしてくれ。何もなかったあの時に戻してくれ──」と、涙で訴える姿が新聞や雑誌で取り上げられていた。
テレビでは倫理上の関係で編集されたVTRが放映されたがエミリの父親はその後も記者たちの前で息も切れ切れにこう続けていたと某週刊誌は書いていた。
『──こんなことは言いたくはないんだけどね、もし……もしもですよ、誰かが時を戻してくれるんならね、娘が犯人に襲われるその前にね……私がね、その犯人を殺しますよ。その結果私が死刑になろうとね、もうそんなことは知ったことじゃないですよ。娘に話を聞いた時に「なんでもっと徹底的にそいつを探し出そうとしなかったんだろう、警察なんかにまかせず、なんでもっと早くそいつの息の音を止めておかなかったんだろう!」って、もうね……今でもそれが悔しくて悔しくて──』
佐山は徳利を傾けたが猪口にはもうほんの一口分ほどしか残っていなかった。詩織がそれに気づき「もう少しつける?」と促したが佐山は「いや、もうよか」と溜め息まじりに吐き出しテレビから顔をそむけた。眼鏡を外し、眉間に皺をよせると腐った魚の臭いを嗅いだ時のような顔をする。気分を変えようとしたのか佐山はテレビを指差して言った。
「このアナウンサー、なんちゅう名前やったかの?」
「アンパンやろ」
「あんぱん?」
「庵野真弓やん──アンパン。こないだ野球選手の……なんちゅうたかな、ほれ、秋原選手と婚約した」
「ああ、そうやそうや。庵野真弓や」
「ひどか事件もあったもんやね。なんば考えてこげんことすっとやろうね」
せっかく話題を変えようとしたが、結局詩織によって襟首をつかまれ引き戻される形となった。
「他人事やなかぞ。ええか、詩織。これがもし、よそ様の子じゃなくて穂波のことやったら、おまえ、どうするんか?」
そう呟いた佐山の声はまるで幽霊のそれのようだったという。黄泉の国から問いかけてくるようなその声に詩織は少しぞっとした。
「どうする……て、そげん怖かこと」
「アンパンのなぁ──」
「?」
「この女子アナの──庵野真弓の婚約した秋原っちゅう野球選手、あいつ覚醒剤打っとるぞ」
「なんねそれ? ──そげんことニュースで言うとらんやない」
「“まだ”な。そりゃそうやろ。まだ警察にも見つかっとらんし、捕まってもおらん。ニュースになるわけない」
「…………?」
「秋原が覚醒剤所持で捕まるのはこれから二年後やけんの」
「……は?」
佐山はばつが悪そうに卓上の競馬新聞を開いた。夫婦喧嘩の際、お互いが触れてはいけない爆弾を口にしてしまった時の顔だと詩織はそう思った。佐山は猪口の底に残った酒を恨めしそうに覗き込むと一息に飲み干す。
「……あんたの言うとることは話の飛びすぎていっちょんわからん」
「まあそうやろな。俺にもいっちょんわからんけんの。ただ、俺はそのニュースば一度見たことがある。そういうことたい」
「──なぁんねこの人は。夢の話?」
「そうやな、夢やったらよかな」
佐山はそう話している間ずっと新聞の方に顔を向けたまま詩織と目を合わせようとしなかった。が、やがて胡麻塩頭をつるりと撫でると思いきったように詩織の方に体を向けた。
「詩織、ちょっと目ば閉じてみてくれんか」
「なんね、急に。気持ち悪か」
「よかけん、閉じてみ。そいで考えてみ。例えば……いや、例えばじゃなかな、本当の本当に考えてみてくれんか。どこの誰かもわからん、頭のおかしか男に穂波が突然拐われてしもうて、何か月も何年も監禁されてしもうて、ひょっとしたら殺されとったかもしれん……それが今テレビに映っとるそん娘じゃなくてうちの穂波やったら──」
「なんば言い出すかと思うたらこの人は、そげんこと──」
「……起こるわけ、なかか?」
「ちょっと、もうやめんね」
「いや、やめん。なんでかわかるか? 起こるからじゃ。本当に『それ』がこれから起こるからじゃ。まだじゃ、詩織。まだ目を閉じとれ」と佐山に言われ詩織は開きかけた目を強く閉じる。
ほんの束の間静寂が訪れた。テレビから流れるCMの軽快な曲の合間に佐山が深く息を吐き出す音だけが詩織の耳に聞こえる。佐山の発言の意味が詩織にはさっぱりわからない。次に聞こえてきたのは興奮した自らを必死に抑えようとしている佐山の声だった。
「ひょっとしたらおまえは『ああ、こん人は頭のおかしゅうなったとかもしれん』ってそう思っとるかもしれんやろな。そいでも……まだ──今やったら、まだ間に合うかもしれん」
開き直るような、懇願するような佐山の声に詩織はどうしていいかわからなかった。目を閉じたままではあるが詩織にはその時佐山がぼろぼろと涙を流しているのがはっきり感じとれたという。