Ψ-4 佐山穂波の場合
──現在より二年前。二〇二〇年一月二十三日(犯行から十四日前)
佐山が個人で営む小料理屋「うまかもん」の営業時間は夕方五時から翌二時までだった。ランチはやっていないため起床は昼前であることが多く、その日も佐山が寝室から起き上がってきたのは午前十一時くらいであったと妻の詩織は語った。
娘の穂波を中学へ送り出し一二時間仮眠を取った詩織は、その後洗濯にかかり佐山の分の朝食に取りかかったという。なかなか起きてこない佐山にしびれを切らし、さっさと自分の分の朝食を平らげてしまった詩織がベランダで洗濯物を干している時だった。
キッチンで何かが倒れるような大きな音がしたかと思うと顔面蒼白になった佐山が寝巻きのままベランダに走ってきた。
驚いて思わず小さな叫び声が漏れた詩織だったがその後に佐山が捲し立てた言葉があまりにもちんぷんかんぷんだったため『ああ、この人は寝惚けとるんやな』と思ったらしい。
佐山は握りしめた新聞を詩織の顔の前に押し付け「なんたい、こりゃ。こりゃいったい何の冗談かっ!」と叫んだという。
先程の大きな音はキッチンに行ってみて椅子が倒れた時の音であるということがわかった。とりあえず落ち着くようにと椅子を立て直し座らせたが、佐山はこの新聞は本当に今日のものであるのかとか、からかっているのではないのか、そういうことをしきりに言っていたという。
その挙げ句、今度は黙り込んだかと思うと「今日は店を休むぞ」とぶっきらぼうに言い残して、表に飛び出して行ったらしい。
ここからは中学一年生である穂波の証言になる。
その日、佐山穂波は昼食を終えて五時限目の社会科の授業を受けている最中であり、一瞬何が起こったのか分からなかったという。昼食で腹も満たされ少しうつらうつらしている時だったため初めは自分が夢を見ているのかと思ったくらいであったらしい。
急に教室のドアが開いたかと思うと、そこには顔面蒼白になった父、佐山宏樹の姿があったという。佐山はジーンズ、そしていつも寝巻きにしているフリースにジャンパーを羽織っただけの格好だった。穂波の姿を見つけると教師が止めるのもきかず席に近付いて穂波を抱き締めたらしい。
クラスメイトたちの前で急に抱き締められ、あまりの恥ずかしさに穂波は「ちょ、ちょっと、何してんのよ!」と声を立てたにも関わらず佐山は穂波の名を呼び続け嗚咽する。教師といえばさっぱり事情が飲み込めず、その薄汚い格好をした男がまさか生徒の父兄だとも思っていないので、佐山のその行動を羽交い締めにして必死で制止したということだった。
その後、家族に不幸があったということで穂波は無理矢理のように早退させられることになったのだが、いざうちに帰ってみるとそんな様子など全くなく、ただ座敷に座らされてしげしげと佐山に顔を覗き込まれるだけだったという。
「何なのよ、いったい。父兄が学校に嘘ついてどうすんのよ」と穂波は呆れてみせたが佐山はただひたすら「すまん、すまん」とただ詫びの言葉を告げるだけであったという。
朝、妻の詩織に告げたように佐山はその日店を臨時休業した。その日の夕飯は豪華絢爛だったという。鯛のおかしらまでついた新鮮な刺身を佐山自らが捌き、調理している。テーブルの上は和洋ごちゃまぜで詩織の大好きなハンバーグなども食卓に並び、食後には大きなケーキまで出てきている。
「なぁにこれ。誕生日?」
「たまにはよかやろ。こげん風に家族水入らずで豪勢にやるとも」
さらには毎日、晩酌を欠かさない父親がその日に限っては一切酒を口にせず、時折穂波の顔を見ては目を細めうんうんと頷いていたという。
そんな父の様子は明らかにおかしかったと穂波は漏らしている。深夜、穂波がふと目覚めた時にベッドの傍らに佐山が立っていて自分の顔をじっと見つめていた時には不気味さすら感じたという。一瞬幽霊か何かと思い、あまりの恐ろしさで体を動かすことすらできず、時おり薄目で様子を窺っているのが精一杯だったらしい。豆電球の薄い光の中にぼんやり浮かび上がる父の顔は憂いに満ちており、自分を見つめる穏やかな表情の中には何かを決意したような鋭さがあったと──それは穂波が門限を破って怒られる時の顔に少し似ていたと表現している──そんなことを娘の穂波は述べていた。