Ψ-1 佐山宏樹の場合
──現在より二年前。二〇二〇年二月七日(犯行翌日)
取調室に記録係の巡査が入ってくると大坪の向かい側に座っている男は大きなくしゃみをした。
「こりゃすんません。いやあ、外では花粉がようけ飛んどるみたいですなあ今日は」
被疑者、佐山宏樹、四十三歳。埼玉県上尾市で自営業の小料理屋を営んでいる。この男が殺人容疑で捕まったのは昨夜二月六日の水曜日午後十一時だった。
「刑事さん、煙草ば一本もろうてもよかですかね。刑事ドラマとかで刑事が犯人に煙草ばすすめる場面とかよう見ますけど、吸うてもよかとでしょ?」と佐山は指を二本立てて煙草を吸う真似をするが大坪はただ黙って首を横に振った。
「いやぁ、そいにしても日本の警察っちゅうのは本当に優秀なんですなあ。まさかあんな短時間であっという間に捕まるとは思わんやったですばい」
『本当に優秀』のアクセントが強い。しゃあしゃあと語るその口調にはどこか皮肉めいた響きもあった。
「あ、こりゃすんませんな。もう九州から出て十年経つとですけどね、なかなかどうして訛りの抜けんとですよ」と佐山は弱々しい笑顔を見せる。それは玄関先で大坪が初めて佐山を見た時の笑顔と同種のものだった。
佐山が犯行現場である被害者宅マンションから上尾の自宅に帰り付いたのは同日午後七時半。シャワーを浴び、妻と中学にあがったばかりの娘、穂波と三人で晩飯を食べる。そして晩酌をしながらテレビのスポーツニュースを見ている最中、踏み込んだ大坪たちに御用となったのである。とはいえ大捕物というわけではない。大坪が玄関先で佐山の妻である詩織に主人は在宅であるかどうかを尋ねると佐山はまるで準備でもしていたように姿を見せ、ぺこりと頭を下げた。「娘を起こさないようにしたい」と言うとおとなしく大通りまで歩き、まるでタクシーにでも乗るかのように大柄の体を自らパトカーの後部座席に押し込んだのである。
佐山が現場に持っていったスポーツバッグの中からは、東京都東中野にあるマンションに住む二十歳の専門学生、被害者である滝谷英明の返り血を浴びたと思われるワイシャツが見つかった。佐山はその血のついたワイシャツを捨てるでもなく、隠そうとするでもなく、まるで見つけてくださいと言わんばかりに自宅に持ち帰っていた。昨日の供述によると佐山は犯行の後、スポーツバッグの中に予め入れておいたまっさらなパーカーと交換するように着替え部屋を後にしたことが明らかになっている。つまりこれは計画的殺人である可能性が高いということになる。
「……もうよかでしょ。私がやりましたっていうのは認めちょりますけん。あとは何が聞きたかとですかね。刑事さん」
何が聞きたい?
聞きたいことは山ほどあった。
「だから言ってるでしょう佐山さん。あなたにはなにか、滝谷さんを殺さなければならない理由があったのですか?」
「理由、理由と…… 。理由ねぇ」と佐山は料理人らしく短く刈った胡麻塩頭ををつるりと撫でた。
「佐山さん、ふざけるのはやめましょうや」
佐山は息をつくと、デスクにこびりついた汚れを爪でカリカリと剥がそうとし始めた。
「別にふざけとるわけじゃなかとです。まあ、理由を言うてみたところで誰にも理解はしてもらえん。そういうところですかね」
佐山は椅子に座り直すと両手で膝をつかみ頭をぐっと下げた。
「私があの男を殺しました。包丁で何ヵ所も刺し、切りつけ、しまいには首を絞めて殺しました。全部認めますし、犯した罪は償おう思うとります」
穏やかな声だった。一言一句をゆっくり言い終えると佐山は顔を上げ眼鏡を押し上げた。真摯な対応とは裏腹にその顔にはやりきれないといった表情も見え隠れしている。
「だけんもう、そいでよかでしょうが?」
ぽつりと呟いたその言葉に対してもそうだが、大坪は何かが気にくわなかった。まるで、根っから真面目な高校生のくせにただ周りからそそのかされ悪ぶっているような、そんな態度がこの佐山という男にはどこかに見てとれるのだ。
大坪はそんな個人的感情を書き損じたメモ用紙のようにくしゃくしゃと丸めて頭の中からいっさい捨て去る。そして何事もなかったように聴取を再開した。
「では、もう一度あなたと被害者である滝谷との関係からお聞きします」