男と猫は小説家を笑う
文芸部作品の転載です。
小説家は原稿を書き続けた。
ただひたすらに、そうただひたすらにだった。
その小説家は何かに取り憑かれたかのようだった。
いや、実際には取り憑かれていたのかもしれない。
小説家はけして、締め切りに追われていたわけでもなくただひたすらに書くだけだった。
何の目的があったのかは今となってはもう分からないことだろう。
きっと小説家は何かから逃げていたのかもしれない。
もしかしたら自分を狙うものから。
もしかしたら小説家自身が生み出した物語から。
もしかしたら逃げられるはずもない現実から。
小説家は小説を書いていた。
小説を書くのが仕事なのだから当たり前だが彼は非常に焦っていた。その理由は簡単で原稿の締め切りがあと三日に迫っているのになかなかいい作品が書けずに困っていたのだ。これが売れなければもう小説を出版できなくなるという瀬戸際だからだ。
彼は五年前に小説家としてデビューした。最初はほかにはない斬新な作風だとか成長期待の新人だとかもてはやされたがそれを三年も維持し続ければ、そこまで多くはなかった読者も徐々に減り、むしろそこから二年も維持できていたことに驚いた。
だからこの作品にすべてが懸かっているといっても大げさではない。なのにあと一週間になっても納得に行くものを書けずにボツを積み重ねていくばかりであった。
救いの手を差し伸べられたのかそれとも伸ばす手を振り払われたのか、もういっそ諦めて次の生き方を模索でもしようとしたその時だった。
数少ない友達からも一人暮らしを心配してくれた親からも滅多に電話が来ることがなかった電話が突然鳴り出したのだ。編集さんなら簡潔にメールか携帯にかけてくるはずだし、友達もメールで短いやり取りがほとんどであった。
きっと押し売りか勧誘だろうと思いながらもその電話の中に何かアイディアがあるかもしれないと縋り受話器を取った。
「はい。もしもし木曽川です」
「……」
出てみたがしばらくしても相手は無言だった。
「いたずら電話なら切りますよ? 俺忙しいんで」
――やはりいたずら電話だったか、こんな文無しでは何の意味もないだろうしな、きっと編集部の嫌味な奴が嫌がらせに電話番号を流しでもしたのだろう。
そう思い切ろうとした時受話器から声がした。
「申し訳ない。いたずらをした訳ではないのです。不快感を与えてしまったのでしたらすみません」
受話器からは男の声が聞こえた。とても落ち着きがあって、声だけで知性が高そうに聞こえた。だからきっとこういうのがカリスマ性なのだろうと彼は感心してしまった。
そのせいか、つい下手に出てしまったのだろう。
「いえ、こちらこそすみませんでした。それで何のご用件ですか?」
「あなたのお悩みを聞きましょう。……というよりあなたのお悩みを解決しましょう。あなたは小説を沢山の人に見てもらいたかった。そしてその小説を通して沢山の人と関わりあうのが夢だった。しかし書けずに困っていらっしゃるのですね? しかもそれを書けないとあなたは職を失い大変困る。そうですね?」
男が言ったことはぴたりと当たっていた。一瞬彼は男が心を読めるのかと疑ったがそれが何故だか自然に思えてしまった。
それも男がそう怪しい言葉は長年の友のような信頼と年配の先生に相談するような心強さが不思議とあった。
彼は肩の重荷を下ろすかのようにするりと悩みを打ち明けた。
「はい、そうなのです。書いても書いてもいい物が書けず、何かいいアイディアはないのでしょうか」
すると受話器の向こう側で男が微かに笑ったような気配がした。だがすぐにそれも気のせいだったように感じた。
「分かりました。あなたはまず休むことですね」
「はぁ?」
さすがにその提案には少し首をひねった。もう時間もなく急がなければいけないのに休んでいては余計追い詰められてしまう。
「最近あなたは根を詰めすぎているだから一度リフレッシュすればいい、そうすればきっと何かが浮かぶでしょう」
「はあぁ、確かに最近あまり休んでいない気もします。確かにそうかもしれない、今日は一日ゆっくりすることにします」
彼はそういうとなんだか少し力が抜け、軽くなったような気がした。
「それではご検討をお祈りいたしています」
そういうと男は電話を切った。
彼は男に言われた通り休息をとることにした。
同日夜
彼は好きな作家の本などを読んだり昼寝をして過ごした。起きてみるともう辺りは暗くなっていた。
いつもは自炊をするがたまにはと思い近くのコンビニに行くことにした。――こんなにゆっくりしたのは久しぶりかもしれない。確かに言った通り考えすぎて出るものも出なくなってたんだろな。
彼は男のアドバイスに感謝しながら道を歩いていると直にコンビニが見えて来た。彼はコンビニで適当な弁当とコーヒーを買うと帰路に着いた。
その帰り道、ふと帰路の途中にある公園に目をやるとそこに何かキラリと光るものがあった。
彼は一瞬驚いたが、ソレが彼の近くまで歩み寄ってくるとすぐに黒い猫だと分かった。彼は猫には詳しくはないが見た目からしてどこにでもいるような普通に猫で首輪が付いていないことからノラだと判断した。
彼は詳しくはないが猫は好きなほうだった。だからか自然に猫に近づき話しかけてしまった。
「やぁ、黒猫くん。元気かい? 何かいいアイディアをくれると嬉しいけどな」
彼はそう言ってから辺りを見回した。もし周りに人が居たら少し変に思われるだろう。
だが、幸いにそこには彼と猫しか居なかった。
そして猫にそんなことを言っても仕方ないと思い立ち去ろうとした時、猫は皺荒れた老人のような声でこう応えた。
「そうだな。おまえは小説を沢山の人に読んでもらいたいという夢がるんだったよな?」
「!! 猫がしゃべった! 俺は夢でも見ているのか?! いや、まずなんで猫が俺の夢を知ってるんだ!」
彼は驚愕しつつも様々な疑問が生まれた。そんな疑問に猫は丁寧に答えてくれた。
「それは自分が猫であるからだろうな。猫はおまえたちの言葉を話すことも出来るし、猫や人間を伝って情報を集める事だってできるからな。それになにより自分はチェシャ猫だからな」
なんとも信じがたいが猫という動物の真実を知ってしまった。しかし最後の言葉は理解ができなかった。
「じゃあ、どうすればいいか教えてくれ!」
彼はチェシャ猫に対して必死に懇願するとチェシャ猫はニンマリと笑いながら口を開いた。
「なら与えようじゃないか。だが、タダとはいかないな。そうだな、おまえは夢のためなら明日を捨てられるか?」
「ああ、捨てられるさ。小説が書けるなら捨てる」
彼は明日を捨てるという事の本当の意味を理解していなかったのかもしれない。
「ならこれをやろう」
チェシャ猫はそう言うとどこからか万年筆を咥えてきた。それはどこにでもあるような高くも安くもないような代物だった。
「それを枕の下にでも敷いて寝ろ。夢への道は夢の中で探せ」
そういうとチェシャ猫は公園の中へと消えていき見えなくなってしまった。
「おい。ふざけるなよ、そんなバカ話みたいなことで見つかるわけないだろ」
彼はそう公園の暗闇に叫んだが、最初から猫など居なかったような静寂だけがあった。
「結局、幻か何かか? でも万年筆はある。まぁ最近色々あって疲れてたんだろう。帰って寝よう」
家に帰り、買って来た弁当を食べコーヒーを飲みながら少しだけ原稿に向かったが全く状況は変わっていなかった。相変わらず何も思いつかない。むしろ今日を無駄に浪費してしまった気がしてさらに焦るばかりである。
試しに万年筆も試しては見たが書き慣れないアナログでの執筆もあって余計書けなかった。
彼はもう諦め半分名気持ちで万年筆を枕の下に敷き眠った。
彼は夢を見た。
とある男性が途方に迷っているとそこに黒い靄のようなものが現れ、男性はその黒い靄の言う通りにしていればお前の願いは叶うと、そして何か代償を貰うと男性は黒い靄の言う通りにした。
そしていつの間にか男性の願いは叶っていたのだった。
しかしやっと代償が何かを知った。
代償とは男性の魂だった。
そして男性は必死に抗ったが消えるしか選択肢は残されていなかった。
男性の消えた後に黒い靄が現れ笑うのだった。
「だから……だろ。に……ら……ない……」
そこで彼は目を覚ました。
彼は起きるとすぐにキーボードを叩き始めた。
夢に見た話を書かない手はないと思ったのだった。
しかしそれはどこかで見たこのあるような見たことのないようなものだった。
そして彼は書いているうちに悟るのだった。本当にもう明日はないのだと。
そして小説家の書いた本は大ヒットした。
元々小説家は売れている方ではなかったが、数少ないファンの間では『数年をかけて熟成させれば絶対に売れる』と評価をしているのかどうか判断のしづらい評価をいつも貰っていたが今回の作品に関して言えば『本当にあの小説家の本なのか』というやはり判断のしづらい評価だったが、本を読み終わってみると一様に『なるほど、彼の魂の結晶だ。いや、魂そのものだ』と何かを察したかのようなことを言うのだった。
そしてこの本はその年の売り上げナンバーワンを記録した。
しかし翌年にはもうその本は皆の記憶から徐々に薄れていった。
そしてファンの間でも同じように薄れていったのだった。
そのうち小説家の名前と一緒に消え去って行ったのだった。そうまるで最初からそんな小説家も本もすべてなかったかのように
とある小さな古本屋に置かれた小説家の本を手に取る男が一人いた。
男はその表紙と作者名を見て小さく微笑んだ。
「だから言っただろ。逃げられないって」
そう言うと男は本を棚に戻し出口へと向かって行った。
すると店に入れ違いで客が入ってきた。そしてすれ違うとその男はまるで霧であるかのようにいつの間にか消えていた。
しかしすれ違った客も店の店員もその男のことを霧のように忘れていった。
まえがきにも書きましたが文芸部作品の転載です。
この作品は実際自分が締め切りに追われ
それをネタにして書いたものです。
ちなみに主人公の名前はとある小説のとある殺し屋から取りました。
木曾川さんは大好きです。
おもしろかったでしょうか?