第5話 イエカの愛子
今回も、前話までに修正はありません。
継承者イエカの即位。
それは、スミレが愛娘を守る為の念願が叶ったことを示す。
貫禄を身に付けて継承者となったアウオは、八十年という長きに渡る役目を終え、隠居するや瞬く間に老け込んでいった。今では、寝床に身を横たえる日々を送っている。
そうして、ようやく訪れた平穏をイエカとイトコは自室で過ごしていた。
「ははさま。お聞きしたいことがあります」
「いったい何かしら、イトコ?」
畳敷きの部屋にいる者は、イエカとイトコの二人のみ。机を介して膝を付き合わせるように正座にあり、女同士にしても華やかな様子は、お互いが羽織る衣装の淡い黄色や緋色に見られるそれであった。
まるで母子のように共に前髪を揃え、イトコの長い髪は腰程の長さに切られた後は、後ろで着物と同色の布地で結われていた。髪型も揃えられている。
スミレがイエカとして継承者になるに当たって新たに側女に就いた者たちは、当初、誰が主様の良い殿方か噂し合ったが、言い当てられた者はいなかった。当然である。次第に、その類の話しは無くなり、誰もが仲の良い姉妹のようであると認めるのは、数年後のことだ。
「はい。『セリム』とは、何のことでしょうか?」
巻き物に仕立てられた覚え書きの、まだ白い面を広げるイエカに、イトコは疑問を投げ掛けた。
「ははさまとお会いした時に、二度呼ばれたそれは名前でしょうか? でも、あれから何度も心地好く耳にしている『イトコ』も名前ではないのですか?」
筆の運びが一瞬落ちるも持ち直すまで時間は掛からず、筆を紙面に走らせながら、イエカは言葉を選びながら応え始めた。
「大切なことから答えてあげる。イトコ、覚えておいて。その名は今後、口にしてはいけません」
「『セ――』」「イトコ」
ぴしゃりと耳慣れた名前を呼ばれて、イトコは口を閉ざした。
「イトコの言うとおり、不思議に思うのは当然よね。けれど、そう幼名なの。私が送る、貴女足りうる名前」
「たりうる……?」
「私のように、貴女を大切に思う者が正しく在るように呼ぶものなの。だから、普段は『愛しい子』という意味の『イトコ』と呼んでいるのよ」
文字を綴り続ける手を止めず、イエカはその間に様々な顔を見せた。それは、母であり、姉のようであり、喜怒哀楽も見え隠れしていた。まだまだ幼いイトコは気が付かないことであったが、それは覚え書きを乱すことなく書き留める技術も相まって、非常識――。
「良い機会だから、いろいろ覚えてきた貴女にこの地についてお話ししてあげましょう」
にこやかに提案するイエカは、もはや手とは別の生物のようであった。
「ははさまは好きです。こわくありませんもの」
「その言い方では、こわい時は嫌いと言われているように聞こえるのですが」
「怒っている時のははさまは苦手です」
叱られた時のことを思い出して、目をぎゅっと瞑るイトコに、イエカは呆れる。
「まったく。正直であるのは、私の前だけになさいね。まだ、イエ様の意向に従う馬鹿な方がいるのですから」
「ははさまのおばあちゃまの?」
「そうです。神様のお声も聴こえないのに、どういうつもりで貴女を捕まえたのか……ごめんね、馬鹿な身内で」
「おかげで、ははさまに会えました」
「そっか、そうだね。でも、いいの?」
「はい」と返事をするイトコに、イエカは相好を崩した。
イトコの最もな疑問に応えた時から数時間後、さすがに筆を置き、机の前から離れたイエカは、風通りの良い位置に移動した。壁に背をもたれ掛かり、だらしなく「あああ~」と安らぎの声を上げる。
そして、手招きでイトコを呼んで、膝に座らせた。
「それで、イトコはどこまで知っているのかしら?」
「ここのこと、それとも、言葉使いのこと?」
「ひっくるめて!」
「えー、じゃあ、分かっていることを言うから、抜けてたらお話しして」
「それで良いわ」
スミレと出会えたことが望外の喜びだったとイトコから聞いたイエカは、気持ちを満たし、良い機会を数時間ずらすことにした。継承者としての仕事を終えた今がその時という訳である。
「ここは、一年を通して霞みが空を覆い、本来の色をゆがめた世界と聞いています」
「そう。季節を通じて、厚みに違いはあるけれど、晴れたことはこれまでに一度しかないわ」
イトコが顔を上げる。その先には、机のある辺りに光を取り込む天窓が付いた天井が在った。
「私に加護を与えてくださった女神様の思い切った行動の末の一度きり」
「ははさまは、継承者であると共に、神子という特別であるのですよね?」
「そう。だからという訳ではないけれど、女神様とは直々お話しをしているから、悪女になったなど耳を貸す要素はないのよ」
「初めから悪女でありましたか?」
「そうね。悪女ではなかったけれど、気の強い女性かしら」
イエカは女神からの御言を授かる場面を思い出していた為、不自然な繋ぎを流してしまった。
「うふふ。イトコは言葉使いではないけれど、本当に知ることに貪欲で嬉しいわ」
「恐かったのです。何も分からないまま、睨み付けられ、捕まえられたことが」
「お父様の、あれが原因ね」
「おおばあちゃまがいけないと教わりました。けど、身動きもとれない狭い檻に押し込められ、まじょに焦りました」
「でも、あたしが貴女を目に入れて、救い出せた」
「はいです。知らないでいることは、だからいやなのです」
「そっか。でも、大丈夫。ここは、世界で最も知らないことの少ない場所よ」
イエカが安心するように、イトコの頭を撫で付けながら重ねる言葉に、イトコは首を傾げる。
ここというのは、正にイエカのいるこの部屋だ。厳密には、イエカが先程まで向かい合っていた覚え書きこそが、言葉使いが女神より仰せ付かったことの成果なのであった。
「あの巻き物は、『手記』というの。世界のあらゆる事物を認める為のもので、私のもとにあらゆる事物は集まるようになっているのよ」
「すごいでしょう?」と壁が邪魔をして反らせない背に代えて、イエカは膝を立てた。一層、自らの元に近付けたイトコを抱えて、この子の為に在ることが出来る自身を誇りに思った。
「く、苦しいです、ははさま」
「もうちょっとだから、もう少しこのままで」
「仕方ないのです」
「……ははさま」
「ううん?」
「ははさまは、『魔王』をどう思いますか?」
「いっつも唐突だね、イトコは」
「ごめんなさい」
「唐突はいけないことじゃないから、直ぐ謝るのはダメよ。私と二人だけの時であれば、驚いてもちゃんと聴いてあげるのだから」
側女を介して部屋に並べられた料理を、やはり二人で取っている時のことだ。
人によっては、食べながら話すことに教育がなっていないと不快感を抱くと聞いたことがあったイエカだが、自身は特に思うことはないらしく、目の前の愛しい子に考えを伝えた。
「神子を通さずに、口にされた『魔王』は、きっと私たちに関係のなかったことだと思っているわ。無関心ではないんだけれど、対岸の火事って、感じかしら」
「東のですか?」
「両方。東岸ならば頂く為の王として、西岸では結束する為の大敵として。イトコはどう思うの?」
意趣返しという程ではなかったが、イエカは珍しくイトコに意見を求めた。箸を咥えたまま。
しかし、イトコは卓上の作法には触れず、首を横に振った。イエカは静かに箸を下し、イトコの応答を待つ。
「『魔王』が何なのか、分からないのです。東では種族をまとめて、西では種族を散らす――央土では種族をどうしてしまうのか、何も分からないのです」
「分かっていますよ」
「……?」
「イトコは賢い子。その答えは、世界を見聞して判断なさい。もう少し大きくなった時に、私の言うことがあてにならなくなった時に。良いですか?」
有無を言わせない力ある言葉を紡がれて、この話題は終わった。続く話題はたわいのないもの。否、終わるも続くも、『魔王』に関することでないだけで話題の種類は何も変わらなかった。




