第2話 渡河の魔王
ここまでがプロローグに相当する予定です。
投稿にあたり、前話も更新しました。
13/06/13 誤字脱字の修正
『バンドック伝説』という名前の読み物を知っているだろうか。『霞の央国物語』以上に知名度が低い上に、これが何とも出来の悪い歴史書と研究者うちで語られているのである。
だが、神代の歴史についての記述が、当の伝説にしか載っていない為、必要な箇所を虫喰いのように研究に用いている。
伝説の凄い所は、神代とそれ以後の繋がりが皆無なところだ。人々の言い伝えで神が如何に先祖代々守られてきたかというのは窺えるのだが、それにまつわるものが何一つ見つかっていないことからそのように言われている。また、伝説なので、時の権力者が権威付けにでっち上げているのかと思えば、遥かに人々の営み等の変化を平等に扱っていることも凄いと言える。どちらかと言えば、歴史書である『かすみの』の方が神には敬意を示しつつも、河の両岸に生活の基盤を築いていた人々を見下している。
見下している原因は、やはり幻人内にもいくつかあった種族による所なのだろう。『かすみの』を正史とする種族は、言葉使いという種族で、見下した先の人族と魔族とは異なるようであるのだ。どのように異なるのか、見てくれがどのようであったのかはまだ資料が少なく不明であるが、先天性の能力が大きく関わっていると見られている。
科学技術が発達して、魔法・魔術は科学的根拠を見出せないことから、想像の産物と一般的に理解する現代において、やはり特筆に値いするのが歴史書にすら随所に見られる『言結』と『魔出』という技術である。知られる所の言霊と魔法・魔術に相当するものである。
そして、『バンドック伝説』にはこのように在る。「神は、我々人間に三幅対の能力を与えられた。言魂と想魔、昂魅である。(中略)。後に、魔王を望んだ女神の御声があって以降、言魂に秀でた種族を言葉使いとし、想魔は魔族、昂魅は人族へと引き継がれた。他の神々も争いの種をばら蒔いたようである」と。昂魅が如何なる能力かは定かではないので、後述に譲るとしよう。内容から一目瞭然ではあるが、言葉使いは言葉にも秀でていたに違いない。余談ではあるが、このような羨ましい能力があったことから体格においては新人より劣っていたと考えたいものである。能力の分配が堕ちた女神に追随するかのような神々の対応として採られるとは、伝説は神すらも下に見ているように感じられる。余談を重ねると、伝説の後半は次のような記述がある。「霞の央土は、バンドックによって飼われる場に過ぎなかったのだろう。彼の霞れる向こうには、瞳に映す山脈の頂きではなく、蜷局を巻いた本体があり、太陽も青い空も何もかもが詐りにあり、六面十二の眼が隈なく見据えていたのだろう」と。バンドック、それは五指を備える対の手をもち、頭は四面、尾に別に二面の顔をもつ酷く醜悪かつ虚ろなる巨大な蛇とも別に記されている。
『バンドック伝説』は、人間を神の姿で偽り、愛でるが如く世話を焼く時期を神代としており、他の歴史書にも記される時期を飼われていることに気が付いた一部との対峙および下剋上の物語として構成している。
しかし、明らかに、神に反目する、時勢に逆う者の書いた物語だ。些か具体的に過ぎる描写が癇にさわるが、それも実に異常者らしいと言えよう。
よって、前半もあまり本気で読み込む訳にはいかないのであるが、能力について等の歴史書にも載る内容は、大いに参考にする価値があるのである。
この先は、『かすみの』の対をなす歴史書である外史の『在りし書』の中を覗いて言葉使いについて、如何なる種族であったか見ていくことにする。外史は、同じ言葉使いに編纂されているのだが、趣きも内容も正史とは異なっている。文献を漁る研究者と現地を回る調査団の元で議論を交わし、まとめられた内容だが、言葉使いには主流派と在野の二つの一族からなっていたというものだ。女神エトラを信奉する『エトラの言葉使い』、在野で魔族の中で活動をしていた方を守護神デスタに因んで『ドーンの民』と区別している。一族同士の内情は詳しくは分かっていない。
先の『女神の堕ちた日』でも挙がったのは、エトラの言葉使いであることから、引き続き主流派を取り上げていく。
まず、『在りし書』を見るに、「居城に魔族を住まわせ、当主は上座を譲り、彼の魔族より気持ち良く数々の情報を得た。魔族は力を渇望する想いより、死した後、二度生きる。神より与えられたる想魔の力に、言魂の力、昂魅の力は抑えられ、より力を望む存在へと変えた……」とある。もはや同じ人間とは考えられないことに、魔族は新人でも想像しやすい魔族の形を神によってもたらされたらしい。三幅対として語られた能力だが、どうやら人体のバランスにも関わるエネルギーだったようでもある。ならば、想魔以外の能力に秀でた言葉使いと人族はどのようであったか、それは記載が見つからない。記載する程の変化がなかったのか、将又、長い時間を掛けて徐々に変化して最初と比べられなくなったのか。いずれにせよ、言葉使いは魔族だけでなく、人族も含めて見下した事実が正史自体に見られるのである。
次に、『かすみの』を見るに、「女神エトラ様より昂魅の力を格別に与えられたる人族は、運命に抗う術として、努力して昂羅を用いるという。我ら言葉使いは言魂の力を旧くより行使し、真なる言結を編み出した。先人二方より広げられた術地は常に調い、滑らかにして雑ならぬ……」とある。語り方からして、人族を見下していることには、苦笑しても良いだろう。内容から分かることは、昂魅の力を元にした技術である昂羅が運命に抗う術ということと、言葉使いの技術は連綿に伝わっている――正統さを窺わせること。何と、内容もまた見下しているのである。
エトラの言葉使いはそれ程に優れた種族だったのだろうか。自らの一族の劣等感を隠すように主観に基づく歴史がまとめられている可能性もある。
それでは、次いでに『バンドック伝説』にも触れておく。「虚蛇に対抗する力は、昂魅に備わっていたと考えて間違いないだろう。人間は三幅対の能力なくては存在させることが難しく、万人に等しく配することで団結して襲いかかられる可能性を排除したのだろう。幸いにして、人族は神の守護下にあっては力を別の集落に向け、己の集落の勢力拡大に励む傾きがあった。守護より外れた後は自ずと滅びの道をひた走ると踏んだことだろう。(中略)。蛇は人間を欲に惑わし、道を誤る姿をほくそ笑み、死の淵を彷徨う者の耳元でその歪んだ生涯を高笑う為に、人間を囲ったのだろう」――趣味の悪さばかり目に付くのは、それが人間にそっくりだからであろうか。人面複頭の蛇だけにそこは外せないと、尚笑っているようである。伝説からは、エトラの言葉使いの優位性は全くないのだが、それはドーンの民と分かれる前だった為だ。神代の時代には、彼らは『奴者』と呼ばれていた。文中にあった人間や人族も、神代の始まりに神より遣わされた存在が『人間』であり、『奴者』と『人族』に分かれたと伝説にはある。神の意に従うことを選択した少数派という意味があるらしい。
各種族が生まれた起源についての記述は、何れの歴史書でも曖昧になっている。それぞれ記述はあるのだが、意味不明であったり、原本に虫食いがあったようで「□」で埋められているのだ。
その中でも、正史は頑張っている。「央土において、人族は営みを継続させることを神より命じられていた。その限りで与えられた自由であり、女神の御言葉は、集落間に生じた不和に争うことへの罰に外ならぬ。他方、世代を重ねて人族が狂暴になる事例もまた確かなること明白につき、神々様方はその性質を切り離し、東の岸へ隔て、『魔族』とされた。更に、奴者より彼の存在がもたらす変化を記録する者を特別に選び抜き、『央人』とされた。西に残った奴者は『言葉使い』となった」――このように一応の説明がされている。先に、『ドーンの民』と区別した所も、『央人』とあるが、滅多なことでは用いられないので、研究等では前者を積極的に使うのが慣例となっている。
これが外史になると、「デスタ神の御心のままに、□□□□□□□(中略)。央人は辺りを調査し、相応しい事象に名称を振る。力こそ強くあるも頭の弱い傾向にある魔族……」という風である。
伝説の場合については、ここでは触れない。余談に過ぎる内容でもあり、信憑性が限りなく薄くなるからである。
話を戻すとして、正史によれば、女神への印象を良くしようと人族を悪く言う外に、魔族が人族の性質を改めるかのように綴っている。これが事実なのかを解き明かすことは出来ない。ただ、女神は狂暴の塊である魔族に加えて、魔王の存在を望んだということである。恐らくは、字面だけで考えた「魔族の王」や「魔界の王」は間違いなのだろう。つまり、「東岸をまとめる者」の存在ではなく、対極の「西岸を乱す者」と考えた方が近いのだろう。
偽史である『霞の央国』でも、大河を渡り、危機をもたらす魔族の存在は描かれている為、総称する際には、別に『渡河の魔王』と呼んでいる。わざわざ「西岸を乱す者」と称した理由は、大河を渡らずに脅威を持ち込む存在もいるからである。そういった存在には個別に名称が付けられるのは何処の世界でも同様のようで、偽史の中にも数々の名称が躍り、完全な創作物として楽しんでいた頃、新人の心を掴んだのは確実である。研究者内で名称を試行錯誤するのもやはり楽しいことからも明らかである。
では、歴史の端緒についた今この時、災厄に見舞われた人々にとって、歴史書に載る名称は如何なる打撃を与えるものだったのか、それを正史や外史から研究するのはやはり難しい。それが可能なのは、意外かも知れないが偽史であった。偽史と言えば、語り部のプライドによって正史を騙った物語である。
だが、これは『カタリベ』という語り手無くしては正史を偽ることになる代物であったのだ。偽らずに騙る手法。それは『バンドック伝説』に載る、「虚蛇の掌において、魔王や勇者に善悪を振り分けることは、然程の意味を感じない。魔王という強大な存在に愛しき者、果ては自身を傷付けられた時に、それが魔王でなく勇者であった場合とでは、何が変わるというのだろう。(中略)。いや、三千年という永久にも等しい人生を振り返り、経験のない記憶と照らした所で、信念は固まり得ない。求めるものは、情けないことに幾度目を覚ましても忘れられない胸の痛みから放たれることであり、もはや生きている理由と同義であるのだ。痛みから解き放たれることが先か、宿命を果たすことが先か」――すなわち、全てを見聞きし、事実を本にした長大な物語とすること。伝説で最も有り得ないと議論もされずに一蹴された一節を敢えて挙げてみたのだが、一つ一つの災厄の記憶が残る頃より、『カタリベ』を名乗る集団が同じ広さの視野でまとめることが出来れば、正史は騙れるという訳である。
何をどう信じるかまでは、研究者の領分を越えており、踏み込むことは出来ないのだが、女神の言葉以降に出現した『渡河の魔王』という存在に、当時の人々は大いに恐怖に震え、絶望したことは想像に難くない。
願わくは、『霞の央国物語』が秘境の歴史であることを片隅に置いて、一喜一憂して欲しいものである。
次話から文体等々をがらりと変えたら、着いてきてもらえるでしょうか? まだまだ悩み中……




