07:アヤ、昼休みと白衣と
五月某日
「失礼しまーす」
「いらっしゃい。橘さん」
昼休み、保健室を訪れたあたしを迎えたのは、白衣に眼鏡が似合う和風系イケメンだった。
「竜胆先生、こんにちは」
養護教諭の竜胆先生。
艶やかな黒髪はキューティクルがハンパなく、穏やかな表情を浮かべる優男。だけど、彼を見て真っ先に出てくる言葉は一つ。
「相っ変わらずゆるいですね」
「え、そうですか?」
マンガとかでは養護教諭はエロいイメージだけど、この人に限ってそれはありえない。
ゆったりとしたチノパンにその辺にあるサンダル。白衣はシワ一つないので清潔感があるが、鎖骨の見えるVネックの首元はよれている。
そこは大人の色気を醸し出すところじゃん。台無しだよ! 物腰は柔らかいし言葉遣いだって丁寧なのに、このギャップは何? 素材は良いのにもったいない。
「もっとちゃんとした服着ましょうよ。社会人なんですから」
「巻藤さんみたいな?」
「いや、あれはただのチャラホスト」
今日なんて、ピンで前髪留めてたしね。普通に留めるだけじゃなくて、アレンジとかしてたから。女子か!
あーでも女子はかっこいいとか言ってたっけ。最近の子はよくわからん。
脱力したあたしに気付いてるのかいないのか、竜胆先生はのほほんと口を開いた。
「そういう橘さんは、相変わらずの格好ですねぇ」
上から下まで、流れるように行き来する黒曜石みたいに綺麗な瞳。色男の視線に応えるように、あたしはスカートを持ち上げてポーズをとった。
「可愛いっしょ?」
「残念ながら、子どもは趣味ではないので」
温和な笑顔ですぱっと返された。
「いや、本気にされても困るんですけど」
つい、こちらのほうがたじろんでしまう。侮れない先生だ。
ここ数日で指定席となったテーブルに弁当箱を置き、頬杖をつく。
教室のある棟とは別の棟にある保健室は、放送の音楽が聞こえない。それでも昼休み特有のざわつきが聞こえてくるが、騒がしく感じるほどではない。
あぁ、やっぱりここは落ち着く。
「あたし、ずっこここで授業受けたいかも」
だらしなくテーブルに寝そべったあたしに、竜胆先生は何を言うでもない。いつものように、お茶の準備をしているだけだ。
白い背中は何も語らない。かちゃかちゃと音が聞こえるだけ。することもないので、ぼんやりとその背中を見つめる。
こちらを振り向いた先生は、だらしないあたしの姿を視界に収めても穏やかな表情を崩さない。大人の余裕ってヤツですか。なら、こちらも子どもなりのプライドを持とう。体を起こして姿勢を正し、先生が来るのを待つ。
あたしの動きに、優男は笑みを深くした。むむ、手のひらの上で踊らされている気分。表には出さないよう、拗ねたい気持ちを押さえていると目の前に湯のみが置かれた。
温かな湯気が立ち上る緑色の液体。それはここに通う理由の一つ。熱いソレをそぉっと持ち、二三度息を吹きかけてから口を付けた。
「どうですか?」
「いつも通り、ものすごく美味しいです」
「それは良かった」
ふわり、花がほころぶような顔で竜胆先生は笑う。
男に花がほころぶなんておかしいかもしれないけど、この人には不思議と似合った。実に綺麗な人だと思う。
見た目通りの落ち着きもあるけど、老けて見えない。むしろ若く見える。三十路手前だなんて、誰が信じるだろう。
二口目をあたしが口にすれば、先生もようやく自分の分のお茶に手を付けた。薄い唇が湯のみの淵に触れる。少し伏せられた目は、睫毛が頬に影を落とす。
どこまでも美しい所作で、湯のみが傾けられ……。
眼鏡が曇った。
ノンフレームタイプの眼鏡は、和風美人な先生によく似合っていると思う。
だが、湯気で曇ったレンズは滑稽でしかない。さっきまでのキラキラしい様子はどこかへ消え、そこにはマヌケな教師の姿しかなかった。
「先生って、やっぱりもったいないですよね」
慌てて眼鏡を拭く優男を尻目に、あたしは残りの緑茶を啜る。
「そういえば、柏木さんは一緒ではないんですね。どうしたんですか?」
眼鏡を掛け直した先生は、そう言って改めて湯のみに口を付けた。今度は眼鏡は曇らない。
毎日来ている片割れがいないことに疑問を抱いたのだろう。あたしたち、ほとんど二人で行動してるし。そういや、理由を伝えてなかったっけ。
「ナナ? ナナなら…」
ズッと最後の一口を飲み干して一言。
「チャラホストに呼び出しくらってまーす」