11:ナナ、稲荷寿司には緑茶
五月某日(5)
放送の届かない本館の廊下を、わたしは足早に進んでいく。本当は走っていきたいんだけど、校長室やいくつかの教科準備室があるここでは、どの先生に見つかるかわからない。へたに足止めされるほうが面倒だ。
やっと辿り着いたドアの前、スピードを緩めるどころかその勢いのまま開ける。
「リンリーン!」
「いらっしゃい。柏木さん」
無遠慮な入室に対して、出迎えたのは穏やかな笑み。さすがリンリン、まっきーとは懐のサイズが違うね。
「お腹すいたー。リンリン、お茶ちょうだい」
「はい。少し待って下さいね」
朗らかな笑みを浮かべながら、リンリンは流しへと足を向けた。わたしもお弁当を抱え、定位置へと向かう。
保健室にはベットが二つとデスクが一つある。他には長いイスと折りたたみできる簡易テーブルが二つ、薬品などが入った棚が幾つか。そのなかでのわたしたちの定位置は、簡易テーブルだ。
「先生をアゴで使う生徒なんて、ナナだけだよね」
お弁当をテーブルに置くと、呆れたような声が掛けられた。
「あ、いたんだアヤ」
「ひどっ。弁当も食べずに待っててあげた幼馴染に対してそんなこと言う?」
「別に、先に食べてても良かったのに」
隣を見れば確かに、アヤのお弁当はキレイに包まれたままだ。お茶だけで胃を誤魔化していたのだろう。
わたしだったら絶対待ってない。百パー先に食べてるね。確信を持って一人頷いていると、アヤが隣でぶすくれている。だから先に食べてれば良かったのに。
アヤを無視して早速お弁当を広げれば、お盆に急須と湯のみを乗せて持ってきたリンリンが真向かいに座った。保健室にはコンロなんてないので、電気ケトルでお湯を沸かしている。火よりも早いから、リンリンの美味しいお茶がすぐ飲めてラッキー。ケトルバンザイ。でも、蒸らす時間があるからまだお預け。仕方ない、先にご飯食べるか。
蓋を開ければ、何時の間にか一緒にお弁当を覗き込んでいたリンリンが感嘆の声をあげた。
「わぁ、美味しそうな稲荷寿司ですね」
「緑茶に合うメニューにしてみました」
リンリンの声は、心の底からそう思っている響きだった。なのでわたしも、胸を張って自慢げに答える。だって、今日の稲荷寿司は自信作だから。
「良かったら、一つどうぞ」
「え、いいんですか? ありがとうございます」
「ナナが人に食べ物をあげた!?」
「失礼な。リンリンはいつも美味しいお茶を淹れてくれるからそのお返しだし」
大袈裟に驚くアヤをキッと睨む。その間に、リンリンはパクッと一口稲荷を味わっていた。
「わぁ。刻んだワサビが入っているんですね。美味しいです」
「ふふん。自信作ですから」
ちなみに、稲荷八個だけど味は四種類ある。中のご飯を色んな味付けにしたのだ。手間はかかったけど、なかなか満足のいく出来になった。さて、わたしも食べるか。
あーっと口を開けば、稲荷を全てお腹に収めたリンリンがあっ、と呟いた自分の隣に視線を移した。
「こっちもそろそろ頃合いですね。はい、どうぞ」
急須から湯のみへとお茶を注いでいく。渡すとき、湯のみ熱いんで気を付けて下さいね、と一言付け加えるさりげない優しさ。紳士だね、リンリン。
アヤも同じことを思ったんだろう。眉間に寄せていたシワがほぐれ、観念したようにおかわりを注いでもらった湯のみに手を伸ばした。
ふーっと息を吹きかけて冷ましていく。そして、アヤの桜色の唇が湯のみに触れた。一口、二口。再び机に置いた湯のみを両手で持ちながら、アヤは嘆息した。
「竜胆先生って、ほんとイケメンですよね」
何言ってんの、アヤ?
しみじみと意味のわからないことを言い出した親友を、わたしは思わず凝視してしまった。声に出してツッコまなかったのは、驚きすぎてしまったためだ。
決して、稲荷が口の中を占領していたからとか、ツッコミより食べることのほうが大事だからとかいう理由ではない。断じてない。いや、すみません。嘘つきました。アヤの意味不明な発言より口の中の稲荷のほうが大事です!
あ、そんなこと考えている間に、リンリンがアヤに問いだした。
「僕はイケメンじゃないですよ。だらしないですし」
「この世にはギャップ萌えという言葉があるんですよ、先生。性格は紳士なのにちょっと抜けてる年上の男の人。いいじゃないですか!」
何言ってんの、アヤ?(二回目)
今度は本気で稲荷より心配になってきた。というか、稲荷は飲み込んでしまったので既に胃の中だ。
どう声を掛けようか考えていると、アヤがこっちを見た。目が合う。
「それに……」
すぐに逸らされた目線。らしくなく口ごもる親友。でもそれは一瞬のことで、リンリンを真っ直ぐ見つめてこう訊いた。
「先生は逆ハー女の取り巻きやったりしないんですか?」
何言ってんの、アヤ?(三回目)
ほら、リンリンも面食らってるじゃん。面食らっ……はっ麺食べたい。いや、そうじゃなくて。
「それありえないよー。リンリンの趣味ってアレだもん」
それだけ言って、落ち着こうと緑茶を啜れば、アヤにきょとんとした顔で見られた。あれ、アヤってあのこと知らなかったっけ?
リンリンに視線を移して首を傾げれば、人差し指を唇に当てたポーズで微笑まれた。うん。まぁ、黙っとくくらい別にいいけど。
一人、何の話かわからないアヤは、またムスッとした顔でわたしたちを見ていた。……まぁ、ほっとけばいっか。
もう一口緑茶を啜って、喉を潤す。あーうまい! なんでリンリンの淹れたお茶って、こんなに美味しいんだろう。程よい渋みと茶葉の味がたまらん。次に稲荷寿司を口に放り込む。んむ、これはほんのり梅をきかせたヤツだな。お茶と稲荷、交互に食べることの、なんと至福なことか。ヤバッ、食べる手が止まらない。
だというのに……。
隣のアヤはまだ不機嫌だ。無視しようと思ったけど無理。折角美味しい物を食べているのに、これじゃあ楽しくない。しょうがないなー。
「ほら。稲荷寿司一つあげるから、機嫌直しなよ」
自分のお弁当箱を押して、アヤのほうへ寄せた。少し躊躇してたみたいだけど、渋々稲荷寿司を一つ取る。
おい、嫌なら食べなくてもいいんだぞ。イラっとしたから奪ってやろうかと思ったけど、気合いで耐えた。
アヤは決心したように、口を開ける。そして一口で半分口に入れた。ゆっくり咀嚼して、飲み込む。あーあれ何味のやつだろ……。
「おいしい」
ポツリ、やっと聞き取れるくらいの声でアヤは呟いた。
元々、保健室に通っていたのはわたしだけだった。
通うといってもアヤがいないときだけ。一年のときに持ってきたお菓子がなくなり、お腹を空かして校内を徘徊していたら、美味しそうなお茶の匂いがした。本能の赴くままにドアを開ければ、そこには匂い通りに美味しいお茶と人の良い保険医。
それからわたしはここの常連と化している。
でも最近、アヤのストレス値がマッハでヤバイ。教室にいると、どうしても篠原さんやさとぅーがいるからだろうけど。それをリンリンに相談したら、ここでお昼を食べることを提案された。
ここでお昼を食べるようになってから、アヤの機嫌はいい。
やっぱり、リンリンのお茶の前ではストレスなど無意味! 美味しい食べ物は、それだけで世界を救う! 機嫌が戻ったアヤに安心して食事を再開すれば、リンリンが微笑ましいものを見る目で笑っていた。
「二人は仲が良いですね」
「そりゃあ、親友ですから」
ね、と同意を求めて横を向けば、アヤは少し困った顔でリンリンに笑っていた。
出かかった声は、喉に詰まって止まったまま。首を傾けた、変な体勢のわたしにアヤは気付かない。
アヤ?




