夜は乙女とショットガン
乙女の心得、その一。
初めて殿方の部屋にお呼ばれした夜は、終電をもって最終防衛線とすべし。
私は大学三回生の二十歳、花も恥じらう乙女である。
成人して半年以上は過ぎたが、いまだお酒の嗜みなど、これっぽっちも持ち合わせていない。
名誉のために申し上げておくが、誘われなかった、というのは事実に反する。
壊滅的なまでに不足した協調性が、それを許さなかったに過ぎないのだ。
成人式は二次会を待たず撤退し、サークルも早々に離脱した。
つまりは、栄光ある孤立を選んだのである。
おかげで乙女の清らかさにおいては、愛宕山の天然水にも引けを取らぬ。
その乙女が今宵、恋人の下宿へ乗り込もうとしているのであるから、これはまさしく一大事に違いない。
ことの起こりは三日前、彼から届いた一通のメッセージであった。
「今度の金曜、中秋の名月だそうです。うちで月見しませんか?」
*
ああ、月見。
なんと古風で風雅な響きであろう。
薄を活け、団子を積み、クレーターを傍若無人に跳ねるウサギを想いながら秋の夜長を愛でる、由緒正しき行事である。
しかし私は騙されない。
ネットの海には、名もなき先人たちが後進のために流した、メッセージボトルがいくつも漂っている。
乙女の妄想では得がたい戦訓を得るため、私はそのひとつを拾い、ここに読み上げる。
いわく、男子が夜の自室へ女子を招くとき、その口実は映画、ゲーム、そして月見と相場が決まっているそうだ。
言葉巧みに誘い、終電に遅れさせ、お持ち帰り、酔わせて襲う。
昏睡、無抵抗、不同意。
恐るべき語句が隊列を組んで、私の脳裏を行進した。
だがひとつ断っておくと、彼はそのような邪悪の徒ではない。
同じ三回生で、講義で知り合い、付き合いはじめて一か月。
手すらまだ繋いだことのない、清く正しく美しいお付き合いなのである。
とは言え、初めてのお呼ばれでお泊まりは、断じて否である。
私の家は遠く、終電は思いのほか早い。
東伏見駅発、22時48分。
それが私の守るべき最終防衛線である。
しかし、不測の事態も想定せねばなるまい。
もし話が弾んで意気投合したら。
もし窓辺に肩を並べ、彼が「月がきれいですね」などと言い出したら。
先人のメッセージボトルいわく、かつての文豪が英文の「アイラブユー」をそう訳したことから、愛の告白とされているらしい。
これにどう答えればいいのか。
「死んでもいいわ」は重すぎるし、「私を月に連れてって」では軽薄すぎる。
いずれも乙女には難解な命題だ。
さらに重大な懸念がある。
私には協調性というものが皆無だ。
幼い頃から我が通知表には「マイペース」「我が道を行く」「独創的」と、先生方の苦心の跡が刻まれ続けてきた。
もしこの期に及んで、彼に変な女だと思われたら一巻の終わりである。
今宵ばかりは己を律し、しとやかに、つつましく、乙女の乙女たる義務を全うせねばならない。
何とも、こう胸の奥がざわつくのを、世間では恋と呼ぶらしい。
いじらしくもあり、煩わしくもあり、まことに厄介な代物である。
*
東伏見という駅に降り立ったのは、18時ちょうどであった。
駅から歩くこと10分ぴったりで、古びた木造アパートの二階、彼の部屋にたどりついた。
その場で私は戦略目標を決定する。
22時38分、撤退開始。
「ちょっと準備するから、適当に寛いでください」
部屋に上がるなり、私は威力偵察を決行した。
乙女たるもの、敵情視察を怠ってはならない。
ベッドの下、本棚、洗面所。
わずかな埃はあるが、有害図書なし、女の歯ブラシなし。
給湯器、エアコン、プレステ、テレビ。
隠しカメラなし、ひとまず安全である。
窓の外に目をやると、空は藍色に沈みかけているのに、月の姿がない。
「月が見えないですね」
「角度的に、まだ向かいの家の屋根に隠れてますよ。もう少ししたら、窓から見えるはずです」
もう少し、とはどのくらいだろう。
私がひそかに弾道計算を始めると、彼は冷えた缶チューハイを二本持って来た。
「それまで、乾杯して待ちましょう」
待つ。
月を待つほど夜は長くなり、夜が長くなれば、最終防衛線が近づいてくる。
これこそ彼の諜報戦、いや周到に計算された遅滞戦術ではないのか。
「……乾杯」
私は慎重に缶を合わせた。
初めて飲むチューハイは、甘くて、冷たくて、楽しかった。
講義の愚痴を言い合い、卒業アルバムの写真に悶絶する。
19時12分。
まだ戦略的縦深はじゅうぶんある。
それなのに、何だか満たされない。
乙女の心は、秋の空のごとく複雑怪奇なのである。
*
20時をまわったころ、缶が空になった。
「もっと飲みますか?」
彼は台所を捜索したが、大学生の下宿に酒の備蓄などあろうはずもない。
冷蔵庫にはジンジャーエールと麦茶だけ。
しばしの逡巡ののち、彼が付け足した。
「……ウォッカのボトルが、ありますけど」
先月、友人らとサッカーゲームと麻雀で夜を明かした際の残置物だという。
「五十度って、こんなの誰が飲むんだろう」
彼が笑うので、私もなけなしの協調性で笑った。
「ためしに、ジンジャーエールで割ってみます? それとも、もう麦茶にしときますか」
「や、そのボトル開けましょう」
無遠慮に即答してから、はっと我に返る。
しまった、しとやかな乙女は、見知らぬ酒の瓶を即断即決で指名したりしない。
「ちょっとだけですよ。ためしです」
乙女の体面を保つための、苦しい但し書きを添える。
「そういえば」
彼が悪魔的な提案をもちかけた。
「ショットガンって、あるじゃないですか。炭酸で割ったやつを机にドンってやって、一気にいくやつ。あれで、ロシアンルーレット、やってみません?」
かくして交戦規定が定められた。
台所にあった大小二つの計量カップを使い、彼が片方にウォッカ、片方には水を注ぐ。
どちらもジンジャーエールで一対一に割る。
私が先に選び、彼が残りを取る。
乾杯して机へドンと打ちつけ、泡立ったところを一気に飲む。
これを、どちらかが戦意喪失して無条件降伏するまで続ける。
*
一杯目。
二つのカップは、どちらも同じ琥珀色に泡立っていた。
見た目では、どちらがウォッカか判別のつけようがない。
乙女のつつしみを示すため、私は小さいほうを選んだ。
乾杯の声とともに遠慮がちに、トン、と打ちつけ、しゅわっと泡が噴きあがる計量カップに、恐る恐る口をつける。
「……えっ、おいしい。ジュースみたい」
爽やかな甘さの向こうで、ほんの微かに、何かが喉を撫でていく気がする。
もしかしてこれは、水のほうだったか。
私はちびちびと飲みながら、上目遣いに彼を窺った。
彼は大きいほうのカップをぐっとあおり、盛大に顔をしかめる。
「まずっ。……僕の、水でした」
そして心配そうに、私の顔を覗きこんだ。
どうやらこっちがお酒らしい。
私は小首をかしげ、あざとく笑いながら残りを飲み干した。
「わー、これ、やばいです」
乙女の妙技、ここに極まれり。
*
二杯目も、同じく小さいほうを選んだが、またもや私がお酒らしかった。
「やだ、もう酔っ払っちゃったかもです」
そう言いながら、私はぐいっと飲み干した。
胸の奥で何かの留め金がぱちんと外れる音がした。
一応、下着の留め金は確認したのでご心配には及ばない。
三杯目。
無意識に大きいほうを選んでいた。
「……今度はそっちでしたね」
彼は明らかに戸惑っていた。
私はと言えば、ちびちびやるのが早くも面倒になっており、ドン、しゅわっ、ぐいっ、と一連の動作で飲み干した。
三連続、確率にして八分の一。
彼はわざと、私にウォッカを取らせているのではないか。
酔わせて、終電を逃させて――ネットの海のメッセージボトルが、いっせいに行進を始めた。
四杯目、五杯目、六杯目も私。
そのたび彼は薄いジンジャーエールを飲み干して「大丈夫?」「僕が代わるよ」と繰り返した。
六連続、確率にして六十四分の一。
天啓か、それとも人災か。
それにしても、おかしい。
私は少しも酔わないのである。
二十歳の乙女がウォッカを六杯あおって平然としている。
読者諸賢、こんなことがありえるだろうか。
否、やはり少なめに手加減されているに違いない。
いや待て、平然としていると思っているのは私だけで、実は遅効性の睡眠薬が仕込まれており、許容量を超えた途端に昏倒するという可能性も否定できない。
下剤という線も捨てきれない。
トイレはどこだ。
「これ、ほんとにウォッカですか? ほんとに一対一なの?」
「本当ですよ。無理しないで、もし次も当たったら僕が飲むから」
彼がそう言って瓶に手を伸ばしたとき、私のなかで何かが鎌首をもたげた。
「ちょっとそれ、よこして」
電撃的な奇襲作戦の成功である。
気づけば私は、彼の手からウォッカのボトルを奪い取っていた。
「任せて、私が、きちんと割るから」
計量カップとは、本来は量を正しく計るための器である。
その器を酒席に持ちだした以上、一対一は厳密に守られねばならない。
私は瓶とペットボトルを机の真ん中に据え、カップを目の高さに掲げ、ウォッカを50mlの線まで注いだ。
表面張力のふくらみまで見極めてから、つづいてジンジャーエールを100mlの線まで足す。
寸分の狂いもない。
ドン、しゅわっ、ぐいっ。
自分でもほれぼれする完璧な一杯であった。
そして、やはりおいしい。
味が先程までと少しも変わらないことに安堵しつつ、私はすぐさま次を計った。
ドン!
飲む、また計る、そして飲む。
ドン!
交戦規定は、いつのまにか月のクレーターまで追いやられ、ウサギといっしょに跳ねている。
もはやここは私の独壇場。
彼は口数が減り、真っ青な顔をしている。
水しか飲んでいないくせに、酔いでも回ったのだろうか。
それとも良からぬ企みを実行する機をうかがっているのか。
乙女は油断しない。
私は彼を一瞥してから、もう一発装填して、撃つ。
ドン!
*
ところでお酒というものは、人の目を異様に冴えさせるらしい。
部屋の細部が、いちいち目につきはじめた。
念のため申し添えるが、私は断じて酔ってなどいない。
乙女本来の戦略眼が本領を発揮しただけである。
標的を発見しだい、攻勢を開始せよ。
「ドラゴンボールのDVD、何故、よりにもよってGTなんですか」
ドン!
「ジョジョ、四巻だけないですけど」
ドン!
「プレステは横に寝かせない。CDのケースと中身、入れ替わってます。テレビの画面が汚れて、地味に見づらいです」
ドン!ドン!ドン!
やがて彼の生活環境そのものが見過ごせなくなった。
不真面目がはびこる温床、まさに悪の枢軸だ。
床の埃に掃除機をかける。
ドン!
各所に脱ぎ捨てられた靴下をかきあつめ、洗濯機に投げ込む。
ドン!
クローゼットをあけ、無造作に詰め込まれた衣類を、夏冬と下着靴下で分けて畳み直す。
ドン!
次はキッチンだ。
頼もしい相棒の計量カップとともに、冷蔵庫を開け、つぎつぎ飛び出す標的を駆逐していく。
賞味期限を三日過ぎた納豆。
ドン!
開封日の知れぬ焼肉のたれ。
ドン!
実家由来と思しきタッパーの惣菜は、すでに特級呪物である。
ドン!
あってはならない怪異を、かたっぱしからゴミ袋へと叩きこむ。
私は計量カップを片手に、流しの皿を洗い、排水溝のヌルヌルを退治する。
ドン!ドン!ドン!
彼は正座したまま、刻一刻と減り続けるボトルを、ただ黙って見守っていた。
一通り部屋が片づくと、私の目は彼自身へ向けられた。
これは降伏勧告だ。
「寝癖のまま一限に来ない。学食で醤油をかけすぎない。月曜一限、開始5分で居眠りしない。日曜の夜はゲームで夜更かししない」
ドン!ドン!ドン!ドン!
「……はい」
標的は沈黙、制圧完了だ。
しかしここで攻勢を緩めてはならない。
生半可な慈悲と躊躇が、戦場では死を招く。
「実家の犬、何て名前でしたっけ」
「……ジョンです」
「柴犬なのに? 誰がつけたのですか」
「……僕です」
「和洋折衷かよ」
ドン!
私は空になった計量カップを置き、背筋をしゃんと伸ばして宣言した。
「私たちの子どもの命名権は、私の専権事項とします」
一瞬、部屋の空気が別の温度で沈黙した気もするが、乙女は一度走りだしたら止まらない。
「それから、こういう物件は新居に好ましくありません。給湯器はリコール対象、エアコンの不調は貸主の怠慢です」
「……はい」
「家のことは分担。掃除は私。そのかわり会社で居眠りしない。生涯収入に響きます」
「……はい」
「子どもは二人、男の子と女の子。犬を飼うなら小型犬で、名前は犬種に合わせること」
私はふたたび計量カップを手に取ると、大上段に振りかざして言い放った。
「以上。異議はありますか?」
彼は長いこと黙っていたが、やがて蚊の鳴くような頼りない声で答えた。
「……ありません」
ドン!しゅわっ!くいっ!
私の大勝利である。
*
やがて、ウォッカの瓶とジンジャーエールのペットボトルが、まるで示し合わせたかのように、同時に空になった。
一対一は、はじめから正しかったのだ。
彼は一滴たりとも薄めておらず、薬物の類も混ぜられていなかった。
こぼれた飲み物でびちゃびちゃになった机の上に、任務を果たした空の瓶と空のペットボトルが、仲良く並んで立っている。
そこでようやく、私は最終防衛線の存在を思い出した。
現在、22時31分。
撤退開始まで、あと7分しかない。
ついに時は来た。
帰るのか、帰らないのか、帰らされるのか、帰されないのか。
本土防衛戦の始まりだ。
秒針の音だけが響く。
時計を気にする私に気付き、彼が何か言いかけて口をつぐむ。
西部戦線もかくや、と思われるまやかしの沈黙。
そして、痺れを切らした私の口から、超重戦車が飛び出した。
「まだ、全然飲み足りないです」
彼は目をぱちくりしていたが、やがて覚悟を決めた表情で言った。
「……駅の向こうのドラッグストア、23時までやってますよ」
その瞬間、23時という数字が曳光弾のごとく、私の頭の中を鮮烈に駆け抜けた。
「それは僥倖、急ぎましょう」
私は慌てて立ち上がった。
残り29分。
今宵の私が死守すべきは、もはや終電などではなく、この閉店時間だ。
*
外廊下に出ると、秋の夜風がすうっと髪を撫でた。
錆びた階段が一段ごとにギイと鳴き、頭のなかの霧が一枚ずつ晴れてゆく。
冷たい外気が火照った顔に心地よい。
最後の一段を降りたところで、私は突然、我に返った。
ここは率直な感想を申し上げたい。
やっちまった。
手も繋いだことのない、交際一か月の殿方に、私は何てことを。
しとやかな乙女はどこへ行った。
協調性の欠如を隠すはずではなかったのか。
穴があったら入りたい。
いや、今すぐ塹壕でもタコつぼでも掘って入るべきだ。
できることなら地球の裏側まで貫通してそのまま亡命したい。
「あの……さっきはごめんなさい。ほんとに。いろいろと」
私は消え入りたい思いで頭を下げた。
彼はきょとんとして、それから吹きだした。
「正直、ちょっと泣きそうでした。僕、ずっと薄いジンジャーエールしか飲んでないですし」
「……ですよね」
「でも、なんか格好良かったですよ。部屋も綺麗になりました、それに」
そして少し照れたように、続けた。
「あなたがどんな人かわかって、よかったです」
そこまで言うと彼は腕時計を見て、目を輝かせた。
「行きましょう。閉まっちゃう」
彼がそっと差し出した手を、私はおずおずと、握った。
付き合って一か月、初めて繋いだ彼の手は、大きくて、温かかった。
二人で夜道を急ぐ。
うつむいたままの視界の端で、踏切の赤いランプが交互に明滅し、遮断機がゆっくりと降りてくる。
私たちは踏切の手前で、手を繋いだまま立ち止まった。
目の前を、私が乗るはずだった最終電車が、走り抜けていった。
窓明かりの列が夜の向こうへ吸いこまれてゆくのを、不思議なほど穏やかな気持ちで見送る。
遮断機があがると、線路の向こうの空に、まんまるな月が見えた。
今夜ずっと二人で待ちわびていた、中秋の名月。
乙女の心得も、最終防衛線も忘れて、思わず見入ってしまう。
そして、油断した私の口から、弾道ミサイルが飛び出した。
「月がきれいですね」




