↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

夜は乙女とショットガン

掲載日:2026/10/15

 乙女の心得、その一。

 初めて殿方の部屋にお呼ばれした夜は、終電をもって最終防衛線とすべし。


 私は大学三回生の二十歳、花も恥じらう乙女である。

 成人して半年以上は過ぎたが、いまだお酒の嗜みなど、これっぽっちも持ち合わせていない。


 名誉のために申し上げておくが、誘われなかった、というのは事実に反する。

 壊滅的なまでに不足した協調性が、それを許さなかったに過ぎないのだ。

 成人式は二次会を待たず撤退し、サークルも早々に離脱した。

 つまりは、栄光ある孤立を選んだのである。

 おかげで乙女の清らかさにおいては、愛宕山の天然水にも引けを取らぬ。

 その乙女が今宵、恋人の下宿へ乗り込もうとしているのであるから、これはまさしく一大事に違いない。


 ことの起こりは三日前、彼から届いた一通のメッセージであった。


「今度の金曜、中秋の名月だそうです。うちで月見しませんか?」


 *


 ああ、月見。

 なんと古風で風雅な響きであろう。

 薄を活け、団子を積み、クレーターを傍若無人に跳ねるウサギを想いながら秋の夜長を愛でる、由緒正しき行事である。


 しかし私は騙されない。

 ネットの海には、名もなき先人たちが後進のために流した、メッセージボトルがいくつも漂っている。

 乙女の妄想では得がたい戦訓を得るため、私はそのひとつを拾い、ここに読み上げる。


 いわく、男子が夜の自室へ女子を招くとき、その口実は映画、ゲーム、そして月見と相場が決まっているそうだ。

 言葉巧みに誘い、終電に遅れさせ、お持ち帰り、酔わせて襲う。

 昏睡、無抵抗、不同意。

 恐るべき語句が隊列を組んで、私の脳裏を行進した。


 だがひとつ断っておくと、彼はそのような邪悪の徒ではない。

 同じ三回生で、講義で知り合い、付き合いはじめて一か月。

 手すらまだ繋いだことのない、清く正しく美しいお付き合いなのである。

 とは言え、初めてのお呼ばれでお泊まりは、断じて否である。


 私の家は遠く、終電は思いのほか早い。

 東伏見駅発、22時48分。

 それが私の守るべき最終防衛線である。


 しかし、不測の事態も想定せねばなるまい。

 もし話が弾んで意気投合したら。

 もし窓辺に肩を並べ、彼が「月がきれいですね」などと言い出したら。

 先人のメッセージボトルいわく、かつての文豪が英文の「アイラブユー」をそう訳したことから、愛の告白とされているらしい。

 これにどう答えればいいのか。

 「死んでもいいわ」は重すぎるし、「私を月に連れてって」では軽薄すぎる。

 いずれも乙女には難解な命題だ。


 さらに重大な懸念がある。

 私には協調性というものが皆無だ。

 幼い頃から我が通知表には「マイペース」「我が道を行く」「独創的」と、先生方の苦心の跡が刻まれ続けてきた。

 もしこの期に及んで、彼に変な女だと思われたら一巻の終わりである。

 今宵ばかりは己を律し、しとやかに、つつましく、乙女の乙女たる義務を全うせねばならない。

 何とも、こう胸の奥がざわつくのを、世間では恋と呼ぶらしい。

 いじらしくもあり、煩わしくもあり、まことに厄介な代物である。


 *


 東伏見という駅に降り立ったのは、18時ちょうどであった。

 駅から歩くこと10分ぴったりで、古びた木造アパートの二階、彼の部屋にたどりついた。

 その場で私は戦略目標を決定する。

 22時38分、撤退開始。


「ちょっと準備するから、適当に寛いでください」


 部屋に上がるなり、私は威力偵察を決行した。

 乙女たるもの、敵情視察を怠ってはならない。

 ベッドの下、本棚、洗面所。

 わずかな埃はあるが、有害図書なし、女の歯ブラシなし。

 給湯器、エアコン、プレステ、テレビ。

 隠しカメラなし、ひとまず安全である。

 窓の外に目をやると、空は藍色に沈みかけているのに、月の姿がない。


「月が見えないですね」


「角度的に、まだ向かいの家の屋根に隠れてますよ。もう少ししたら、窓から見えるはずです」


 もう少し、とはどのくらいだろう。

 私がひそかに弾道計算を始めると、彼は冷えた缶チューハイを二本持って来た。


「それまで、乾杯して待ちましょう」


 待つ。

 月を待つほど夜は長くなり、夜が長くなれば、最終防衛線が近づいてくる。

 これこそ彼の諜報戦、いや周到に計算された遅滞戦術ではないのか。


「……乾杯」


 私は慎重に缶を合わせた。

 初めて飲むチューハイは、甘くて、冷たくて、楽しかった。

 講義の愚痴を言い合い、卒業アルバムの写真に悶絶する。

 19時12分。

 まだ戦略的縦深はじゅうぶんある。

 それなのに、何だか満たされない。

 乙女の心は、秋の空のごとく複雑怪奇なのである。


 *


 20時をまわったころ、缶が空になった。


「もっと飲みますか?」


 彼は台所を捜索したが、大学生の下宿に酒の備蓄などあろうはずもない。

 冷蔵庫にはジンジャーエールと麦茶だけ。

 しばしの逡巡ののち、彼が付け足した。


「……ウォッカのボトルが、ありますけど」


 先月、友人らとサッカーゲームと麻雀で夜を明かした際の残置物だという。


「五十度って、こんなの誰が飲むんだろう」


 彼が笑うので、私もなけなしの協調性で笑った。


「ためしに、ジンジャーエールで割ってみます? それとも、もう麦茶にしときますか」


「や、そのボトル開けましょう」


 無遠慮に即答してから、はっと我に返る。

 しまった、しとやかな乙女は、見知らぬ酒の瓶を即断即決で指名したりしない。


「ちょっとだけですよ。ためしです」


 乙女の体面を保つための、苦しい但し書きを添える。


「そういえば」


 彼が悪魔的な提案をもちかけた。


「ショットガンって、あるじゃないですか。炭酸で割ったやつを机にドンってやって、一気にいくやつ。あれで、ロシアンルーレット、やってみません?」


 かくして交戦規定が定められた。

 台所にあった大小二つの計量カップを使い、彼が片方にウォッカ、片方には水を注ぐ。

 どちらもジンジャーエールで一対一に割る。

 私が先に選び、彼が残りを取る。

 乾杯して机へドンと打ちつけ、泡立ったところを一気に飲む。

 これを、どちらかが戦意喪失して無条件降伏するまで続ける。


 *


 一杯目。


 二つのカップは、どちらも同じ琥珀色に泡立っていた。

 見た目では、どちらがウォッカか判別のつけようがない。

 乙女のつつしみを示すため、私は小さいほうを選んだ。

 乾杯の声とともに遠慮がちに、トン、と打ちつけ、しゅわっと泡が噴きあがる計量カップに、恐る恐る口をつける。


「……えっ、おいしい。ジュースみたい」


 爽やかな甘さの向こうで、ほんの微かに、何かが喉を撫でていく気がする。

 もしかしてこれは、水のほうだったか。

 私はちびちびと飲みながら、上目遣いに彼を窺った。

 彼は大きいほうのカップをぐっとあおり、盛大に顔をしかめる。


「まずっ。……僕の、水でした」


 そして心配そうに、私の顔を覗きこんだ。


 どうやらこっちがお酒らしい。

 私は小首をかしげ、あざとく笑いながら残りを飲み干した。


「わー、これ、やばいです」


 乙女の妙技、ここに極まれり。


 *


 二杯目も、同じく小さいほうを選んだが、またもや私がお酒らしかった。


「やだ、もう酔っ払っちゃったかもです」


 そう言いながら、私はぐいっと飲み干した。

 胸の奥で何かの留め金がぱちんと外れる音がした。

 一応、下着の留め金は確認したのでご心配には及ばない。


 三杯目。

 無意識に大きいほうを選んでいた。


「……今度はそっちでしたね」


 彼は明らかに戸惑っていた。

 私はと言えば、ちびちびやるのが早くも面倒になっており、ドン、しゅわっ、ぐいっ、と一連の動作で飲み干した。


 三連続、確率にして八分の一。

 彼はわざと、私にウォッカを取らせているのではないか。

 酔わせて、終電を逃させて――ネットの海のメッセージボトルが、いっせいに行進を始めた。


 四杯目、五杯目、六杯目も私。

 そのたび彼は薄いジンジャーエールを飲み干して「大丈夫?」「僕が代わるよ」と繰り返した。

 六連続、確率にして六十四分の一。

 天啓か、それとも人災か。


 それにしても、おかしい。

 私は少しも酔わないのである。

 二十歳の乙女がウォッカを六杯あおって平然としている。

 読者諸賢、こんなことがありえるだろうか。

 否、やはり少なめに手加減されているに違いない。

 いや待て、平然としていると思っているのは私だけで、実は遅効性の睡眠薬が仕込まれており、許容量を超えた途端に昏倒するという可能性も否定できない。

 下剤という線も捨てきれない。

 トイレはどこだ。


「これ、ほんとにウォッカですか? ほんとに一対一なの?」


「本当ですよ。無理しないで、もし次も当たったら僕が飲むから」


 彼がそう言って瓶に手を伸ばしたとき、私のなかで何かが鎌首をもたげた。


「ちょっとそれ、よこして」


 電撃的な奇襲作戦の成功である。

 気づけば私は、彼の手からウォッカのボトルを奪い取っていた。


「任せて、私が、きちんと割るから」


 計量カップとは、本来は量を正しく計るための器である。

 その器を酒席に持ちだした以上、一対一は厳密に守られねばならない。

 私は瓶とペットボトルを机の真ん中に据え、カップを目の高さに掲げ、ウォッカを50mlの線まで注いだ。

 表面張力のふくらみまで見極めてから、つづいてジンジャーエールを100mlの線まで足す。

 寸分の狂いもない。

 ドン、しゅわっ、ぐいっ。


 自分でもほれぼれする完璧な一杯であった。

 そして、やはりおいしい。

 味が先程までと少しも変わらないことに安堵しつつ、私はすぐさま次を計った。

 ドン!

 飲む、また計る、そして飲む。

 ドン!

 交戦規定は、いつのまにか月のクレーターまで追いやられ、ウサギといっしょに跳ねている。

 もはやここは私の独壇場。

 彼は口数が減り、真っ青な顔をしている。

 水しか飲んでいないくせに、酔いでも回ったのだろうか。

 それとも良からぬ企みを実行する機をうかがっているのか。

 乙女は油断しない。

 私は彼を一瞥してから、もう一発装填して、撃つ。

 ドン!


 *


 ところでお酒というものは、人の目を異様に冴えさせるらしい。

 部屋の細部が、いちいち目につきはじめた。

 念のため申し添えるが、私は断じて酔ってなどいない。

 乙女本来の戦略眼が本領を発揮しただけである。

 標的を発見しだい、攻勢を開始せよ。


「ドラゴンボールのDVD、何故、よりにもよってGTなんですか」


 ドン!


「ジョジョ、四巻だけないですけど」


 ドン!


「プレステは横に寝かせない。CDのケースと中身、入れ替わってます。テレビの画面が汚れて、地味に見づらいです」


 ドン!ドン!ドン!


 やがて彼の生活環境そのものが見過ごせなくなった。

 不真面目がはびこる温床、まさに悪の枢軸だ。


 床の埃に掃除機をかける。

 ドン!

 各所に脱ぎ捨てられた靴下をかきあつめ、洗濯機に投げ込む。

 ドン!

 クローゼットをあけ、無造作に詰め込まれた衣類を、夏冬と下着靴下で分けて畳み直す。

 ドン!


 次はキッチンだ。

 頼もしい相棒の計量カップとともに、冷蔵庫を開け、つぎつぎ飛び出す標的を駆逐していく。


 賞味期限を三日過ぎた納豆。

 ドン!

 開封日の知れぬ焼肉のたれ。

 ドン!

 実家由来と思しきタッパーの惣菜は、すでに特級呪物である。

 ドン!

 あってはならない怪異を、かたっぱしからゴミ袋へと叩きこむ。

 私は計量カップを片手に、流しの皿を洗い、排水溝のヌルヌルを退治する。

 ドン!ドン!ドン!


 彼は正座したまま、刻一刻と減り続けるボトルを、ただ黙って見守っていた。


 一通り部屋が片づくと、私の目は彼自身へ向けられた。

 これは降伏勧告だ。


「寝癖のまま一限に来ない。学食で醤油をかけすぎない。月曜一限、開始5分で居眠りしない。日曜の夜はゲームで夜更かししない」


 ドン!ドン!ドン!ドン!


「……はい」


 標的は沈黙、制圧完了だ。

 しかしここで攻勢を緩めてはならない。

 生半可な慈悲と躊躇が、戦場では死を招く。


「実家の犬、何て名前でしたっけ」


「……ジョンです」


「柴犬なのに? 誰がつけたのですか」


「……僕です」


「和洋折衷かよ」


 ドン!

 私は空になった計量カップを置き、背筋をしゃんと伸ばして宣言した。


「私たちの子どもの命名権は、私の専権事項とします」


 一瞬、部屋の空気が別の温度で沈黙した気もするが、乙女は一度走りだしたら止まらない。


「それから、こういう物件は新居に好ましくありません。給湯器はリコール対象、エアコンの不調は貸主の怠慢です」


「……はい」


「家のことは分担。掃除は私。そのかわり会社で居眠りしない。生涯収入に響きます」


「……はい」


「子どもは二人、男の子と女の子。犬を飼うなら小型犬で、名前は犬種に合わせること」


 私はふたたび計量カップを手に取ると、大上段に振りかざして言い放った。


「以上。異議はありますか?」


 彼は長いこと黙っていたが、やがて蚊の鳴くような頼りない声で答えた。


「……ありません」


 ドン!しゅわっ!くいっ!

 私の大勝利である。


 *


 やがて、ウォッカの瓶とジンジャーエールのペットボトルが、まるで示し合わせたかのように、同時に空になった。

 一対一は、はじめから正しかったのだ。

 彼は一滴たりとも薄めておらず、薬物の類も混ぜられていなかった。

 こぼれた飲み物でびちゃびちゃになった机の上に、任務を果たした空の瓶と空のペットボトルが、仲良く並んで立っている。


 そこでようやく、私は最終防衛線の存在を思い出した。

 現在、22時31分。

 撤退開始まで、あと7分しかない。

 ついに時は来た。

 帰るのか、帰らないのか、帰らされるのか、帰されないのか。

 本土防衛戦の始まりだ。


 秒針の音だけが響く。

 時計を気にする私に気付き、彼が何か言いかけて口をつぐむ。

 西部戦線もかくや、と思われるまやかしの沈黙。

 そして、痺れを切らした私の口から、超重戦車が飛び出した。


「まだ、全然飲み足りないです」


 彼は目をぱちくりしていたが、やがて覚悟を決めた表情で言った。


「……駅の向こうのドラッグストア、23時までやってますよ」


 その瞬間、23時という数字が曳光弾のごとく、私の頭の中を鮮烈に駆け抜けた。


「それは僥倖、急ぎましょう」


 私は慌てて立ち上がった。

 残り29分。

 今宵の私が死守すべきは、もはや終電などではなく、この閉店時間だ。


 *


 外廊下に出ると、秋の夜風がすうっと髪を撫でた。

 錆びた階段が一段ごとにギイと鳴き、頭のなかの霧が一枚ずつ晴れてゆく。

 冷たい外気が火照った顔に心地よい。

 最後の一段を降りたところで、私は突然、我に返った。


 ここは率直な感想を申し上げたい。

 やっちまった。

 手も繋いだことのない、交際一か月の殿方に、私は何てことを。

 しとやかな乙女はどこへ行った。

 協調性の欠如を隠すはずではなかったのか。

 穴があったら入りたい。

 いや、今すぐ塹壕でもタコつぼでも掘って入るべきだ。

 できることなら地球の裏側まで貫通してそのまま亡命したい。


「あの……さっきはごめんなさい。ほんとに。いろいろと」


 私は消え入りたい思いで頭を下げた。

 彼はきょとんとして、それから吹きだした。


「正直、ちょっと泣きそうでした。僕、ずっと薄いジンジャーエールしか飲んでないですし」


「……ですよね」


「でも、なんか格好良かったですよ。部屋も綺麗になりました、それに」


 そして少し照れたように、続けた。


「あなたがどんな人かわかって、よかったです」


 そこまで言うと彼は腕時計を見て、目を輝かせた。


「行きましょう。閉まっちゃう」


 彼がそっと差し出した手を、私はおずおずと、握った。

 付き合って一か月、初めて繋いだ彼の手は、大きくて、温かかった。


 二人で夜道を急ぐ。

 うつむいたままの視界の端で、踏切の赤いランプが交互に明滅し、遮断機がゆっくりと降りてくる。

 私たちは踏切の手前で、手を繋いだまま立ち止まった。


 目の前を、私が乗るはずだった最終電車が、走り抜けていった。

 窓明かりの列が夜の向こうへ吸いこまれてゆくのを、不思議なほど穏やかな気持ちで見送る。

 遮断機があがると、線路の向こうの空に、まんまるな月が見えた。


 今夜ずっと二人で待ちわびていた、中秋の名月。

 乙女の心得も、最終防衛線も忘れて、思わず見入ってしまう。

 そして、油断した私の口から、弾道ミサイルが飛び出した。


「月がきれいですね」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。