それは、あまりにも近く、あまりにも大きい、音。
夏のホラー2026 の参加作品です。テーマは「音」です。
+ + + + + はじまり + + + +
出張続きの毎日だった。
月曜に大阪、水曜に名古屋、そして木曜金曜は地方都市の工業団地にある取引先を回る予定になっている。
営業という仕事は、体力よりもむしろ神経がすり減る。愛想笑いと頭を下げる角度と、相手の顔色をうかがう作業の積み重ねだ。
今日の商談は、思いのほか長引いた。
予定より二時間も押し、ようやく解放されたときには、もう夕方の五時を回っていた。
予定ではもう一カ所だけ挨拶に回るつもりだったが、念のためにアポの連絡をしてみたものの、明日にしてくれと断られた。
時間が空いてしまった。
「なにか、ないか? 話のネタにでも」
柄にもなくそんなことを思ったのは、単純に疲れていたからだと思う。
誰かに会う予定もない、宿にチェックインするにはまだ早い、宙ぶらりんの時間。
スマートフォンで周辺情報を検索していると、ふと目に留まったのが「体感型ホラーアトラクション」という文字だった。
――極上の恐怖を、あなたに。
チープな煽り文句だったが、駅から徒歩十分という近さと、待ち時間がないという表示につられて、気まぐれにその場所へ足を向けた。
古い雑居ビルの三階。エレベーターは軋み、案内板の文字は半分剥げかけている。
受付には無愛想な若い男が一人座っているだけで、他に客の姿は見当たらなかった。
「お一人様ですね。所要時間は約十五分。途中でリタイアされる場合は、このボタンを押してください」
男は台本を読むような抑揚のない声でそう言うと、手に小さな機械を握らせた。レストランなどで使われる呼び鈴代わりのアレだ。正式な名前は知らない。
「くれぐれも、静かにお願いします」
その一言だけが、妙に耳に残った。
薄暗い廊下を抜け、その部屋に通された。
広さはせいぜい四畳半。家具も何もない部屋。
床には灰色のカーペットが敷かれ、壁も同様に灰色のクロスが貼られている。
窓もない。唯一、外界との接点は入ってきたドアだけ。
天井には、LEDライト、剥き出しのスピーカー、カメラらしき黒い半球。
背後で、重い鉄のドアが閉まる。
そのドアが妙に頑丈な作りだということに、強い違和感を感じた。まるで閉じ込めるために設えたかのようだ。
そして、無機質な音がして、鍵をかけられた。
心臓が、どくん、と一つ大きく跳ねた。
これは演出だ。わかっている。
わかっているのに、その音は、閉じ込められたということを強く意識させた。
無意識に、閉じたドアのノブに手を伸ばしかけて、思いとどまった。所詮はアトラクションだ。子供じみた真似は辞めよう。
天井のスピーカーから無機質なアナウンスが流れた。
<<当アトラクションに、音はありません>>
女の声だった。若くも老いてもいない、年齢の見当がつかない、恐ろしく平坦な声。AIで生成したかのような声だ。
<<安易に、大きな音で驚かす、そのような、古くさい演出はいたしません>>
「なんのネタ振りだ? そう言いながら、最後に大きな音を立てて、びっくりさせる、ってことか?」
声に出して反論したのは、びびってないと虚勢を張るためだ。自分でも、声が少し震えているのがわかる。
<<それに――本物の音まで聞いてしまったら、恐怖で正気を失ってしまいます。人は脆弱ですから>>
冷たい女の声が、狭い部屋に響く。反響の少ない部屋なので、声はまるで頭蓋骨の内側から聞こえてくるようだった。
「おまえは、自分が人じゃない、とでも言いたいようだな」
<<あなたいるのは、安全な部屋です。安心してください。何も身構える必要はありません。何かが飛び出してきたり、降ってきたりしません>>
「それで、どうやって恐怖を体験しろと言うんだ? もしかして、残り時間はずっとおまえの声で怪談でも聞かせるのか?」
<<あなたは、目撃者になってください>>
「目撃者? 窓もないこの部屋で、いったい何を……」
<<ただし、お願いが一つだけあります>>
「……あ? なんだ?」
一拍の間があった。スピーカーのノイズすら聞こえない、完全な静寂の間。
<<絶対に、声を出さないでください。物音を立てないでください>>
「なぜだ?」
<<"彼"に、気づかれないように>>
――彼。
その単語だけが、妙に生々しく引っかかった。
実在する誰かのことを話しているような口ぶり。よく知っている人物を紹介するような、そんな声に聞こえた。
AI生成の声に、そんな感情など込められているはずもなく、そんな感じがしたというだけかもしれない。
<<では、消灯します。そのままでお待ちください。極上の恐怖を、お楽しみください>>
部屋の照明が落ちた。
完全な暗闇。自分の手すら見えない。
耳の奥で、自分の息づかいが、やけにうるさい。
次の瞬間、正面の壁が明るくなり、何かが映し出された。
あたかも、壁の向こう側に、もう一つの部屋があるかのように、浮かび上がってくる。
ビジネスホテルの一室のような部屋だ。狭い部屋。部屋の大部分はシングルベッドで占められている。
ベッドの向きは、足側がこちら。頭側が奥にある。それがはっきりとわかるのは、そこに人が横たわっているから。
ただ、異様な光景だった。
ビジネスホテルの真っ白なシーツの上に大の字で仰向けになっている男は、革製のベルトで拘束されている。
壁に近寄った。
もし、壁から手を伸ばして触ることができるなら、その拘束を解くことができそうなほど、近い距離だ。
しっかりと観察してみる。
齢は三十代くらいだろうか。黒のスラックスに、白のワイシャツ、地味なネクタイ。
似たような格好のサラリーマン風の男だった。
口には猿ぐつわ。両手両足はしっかりと太い革製ベルトで固定。胴回りも念入りに拘束されており、必死に身をよじって暴れている。
目が血走り、必死に何かを訴えるように、こちらを――いや、正確には自分がいる部屋の入口の方を――見つめている。
ゴクリと生唾を飲む。いったい、何が始まるというのか。
部屋のドアが開いた。こちら側ではない、<向こう側>の部屋のドアだ。
拘束された男がびくりと身体を震わせ、無理な姿勢で頭を起こそうとするが、頭さえもしっかり固定されていて、叶わない。
"彼"はゆっくりと部屋に入ってきた。
見上げるほどの巨漢だった。目の前の通っていくので、思わず後ずさってしまった。
もちろんだが、こちらのことなど無関係に、"彼"は歩いて、ベッドの方へと歩み寄る。
天井に頭を擦りつけそうなほどの体躯。
血と赤黒い油で汚れきった、分厚い工業用のゴムエプロンを身につけている。
エプロンの表面は不規則な染みで覆われ、乾いた部分と、まだ光沢を保った新しい部分が入り混じっていた。
顔には、錆びついた溶接用のフルフェイスマスクを被っている。
表情なんて一切わからない。
ただ、異様なほどのドス黒い殺気だけが、壁越しにヒリヒリと伝わってくる。
まるでその場の空気の密度そのものが変わってしまったかのような、重苦しい圧迫感。
両手で抱えているのは、巨大な鉄の工具た。まるで化け物の顎のようだ、鋭い牙が今にも噛みつきそうな形状をしている。
家屋の解体現場で、コンクリートを砕く小割圧砕機という工具に似てるが、あれはパワーショベルのアタッチメントとして使うもの。
それを、無理やり手持ち用に改造したような異形の工具。手で回すための巨大なハンドルがついているのは、なぜだろうか。
錆と赤い塗装がこびりついた表面が、暗い部屋の中でも鈍く光っていた。
軽く十数キロはあるだろう。その工具を、"彼"は軽々と持ち上げた。
買い物袋でも提げるかのような、あまりに自然な仕草だった。
その事実だけで、"彼"が人間離れした異常な力を持っていることが、直感的に理解できた。
工具の顎を、拘束された男の"右足"に噛ませる。すねの真ん中あたりだ。
縛られた男の目が、これ以上ないほど大きく見開かれた。声にならない絶叫の形に、口が――猿ぐつわの下で――歪む。
そして、巨大なハンドルに手をかけ、体重を乗せて回し始めた。
ゆっくりと、1回転。さらに、2回転。
音は、まったく聞こえない。
ただ、ハンドルの重々しい動きだけが視覚に飛び込んでくる。
その動きの緩慢さが、逆に恐ろしかった。急いでいない。焦っていない。淡々としたリズム。
ハンドルの回転に合わせて、恐ろしい工具の顎が閉じていく。ゆっくり、ゆっくりと。
足の肉に食い込む。拘束された男が暴れ回るが、まったく意に介さないし、その工具は、その重さのために、びくともしない。
足の骨に食い込む。"彼"はハンドルを回し続けるので、決して、工具の顎は止まらない。
やがて、工具の顎は閉じられた。拘束された男の足は、かみ切られ、血が噴き出す。
理解した。あのハンドルは、工具の顎を開閉するためについている。あれは、一種の万力なのだ。
"彼"は、ハンドルを逆回転し始めた。徐々に、徐々に、工具の顎が開いていく。
徐々に露わになった男の足は、二度と歩けはしないだろうということはわかった。
あのように潰されてしまっては、治癒するのは無理だろう。
男は首をのけぞらせて絶叫している。顔を真っ赤にして、涙と鼻水を撒き散らしている。
だが、こちらの部屋には何の音も届かない。
逆に、とてつもなくリアルで、おぞましかった。
音がないという事実そのものが、目の前の光景から現実味を奪うどころか、むしろ何倍にも増幅させているような気がした。
まるでこちら側の世界と向こうの世界の間に、決して破れない透明な膜が張られていて、その膜越しに「本物」を覗き見ているような感覚。
(うわ……あ……っ)
吐き気が込み上げる。
喉の奥から酸っぱいものがせり上がってくるのを、必死に飲み下した。
目を逸らしたいのに、金縛りにあったように体が動かない。
まばたきすら惜しいと思ってしまう自分がいた。
この光景を見逃したら、次に何が起こるかわからないという恐怖が、無理やりにでも見届けさせ続けている。
"彼"は淡々と作業を続ける。次は"腕"だ。
工具の顎、ハンドル付きの万力は、大きく口を開けた状態で、男の右腕を挟み込む。
再び、ゆっくりとハンドルが回る。
1回転。2回転。3回転。
大きく回す度に、ゆっくりと万力は締め付けられていき、男の腕に食い込んでいく。
男は、足を押しつぶされた痛みなど忘れたかのように、"彼"を凝視して、何かを叫んでいたが、その声は届かない。
こちらの部屋にも、そして、"彼"にも。
無音のまま進行する残酷な解体ショー。
これが、極上の恐怖体験だというのなら、なんとも気の利いたアトラクションだ。
"こわさ"や"おそれ"よりも、"おぞましさ"が勝る。ただ、ただ、気持ちが悪い。
何より、なぜこんなものを見せられなくてはいけないのか。
これで、まだ、"彼"が愉悦に震えているのであれば、理解も追いつくかもしれないが、その表情を伺い知ることはできず。
そして、"彼"の動きには、一切の躊躇がない。解体工場で、リサイクル品の分別をしてるかのような、淡々とした動き。
ただ、ゆっくりと、ハンドルを回すのだ。
ただ手順があり、その手順を淡々とこなしているだけ。その無感情さが、背筋を氷のように冷たくさせた。
"腕"は終わった。どうなったのか、言うまでも無いだろう。次は"腹"だった。
万力は、最大まで開かれ、男の胴体を横から挟み込む。肋骨ごと、だ。
ハンドルが回る。
男の胴体へ、その牙が食い込んでいく。もし、音を聞いたとしたら、いったいどんな音がするのだろう。
パキパキと、肋骨の折られる音を聞かされるのだろうか。
もはや、男は、叫ぶことさえ許されない。口から大量の赤黒い血が、押し出されてくるように、噴き出した。
ホテルの真っ白なシーツが真っ赤に染まる。
万力は恐ろしい力で締め上げていく。男の胴は、もう半分にもなったが、止まらない。
"彼"は、紳士に、丁寧に、謙虚に、ゆっくりと、ハンドルを回していく。それをただ見つめることしかできない。
――"胴"が終わった。もう、続ける必要など無い。もうわかった。十分に極上の恐怖とやらを味わった。
しかし、終わらない。最後は"頭"だ。
動かなくなった男の頭部を真横から万力で挟んだ。
ハンドルをゆっくり回す。"胴"に比べて、小さな部位のため、それほど時間はかからなかった。
意外、と言って良いのか、理解が追いつかないが――。
頭蓋が弾けるように割けたとき、内容物が無残に弾け飛ぶ。壁にべっとりと張り付いた。
皮がしっかりしたトマトを、握りつぶしたかのように見えた。
(……終わった)
大きく息を吐き出した。全身は冷や汗でびっしょりだ。
両手はいつの間にか固く握りしめられていて、爪が掌に食い込んでいた。
受付で渡された小さな機械など、すでに意識の外側だ。いつの間にか、床に落としていたようだ。
よくできた映像だ。実際の映像ではなく、CGだろう。
最近は、素人でもプロンプトを入力するだけで、AIが生成してくれる。
だが、ここまで真に迫った映像は、やはり映像クリエイターの手によるものだろうか。
とにかく、これで終わりだ。安堵が、支配する。
おそらく。部屋の明かりが戻って、先ほどの女の声で<いかがでしたか?>とでも、アナウンスされる――。
ジリリリリリリリリリリリリリリッ!!!
耳をつんざくような爆音。iphoneの黒電話の着信音だ。スマートフォンが鳴り響いた。
慌ててポケットから引っ張り出してみると、仕事関係の着信。
今にして思えば、この手のアトラクションで、始まる前には必ず行われる「携帯電話は電源を切るか、マナーモードに――」という案内がなかった。
「ひぃっ!?」
無音に慣れきっていたので、たまらず短い悲鳴を上げてしまった。
ビクッと肩が跳ね上がり、壁にドンッと背中をぶつける。
しまった。
そう思った時には、もう手遅れだった。
向こうの部屋の"彼"が、ピタリと動きを止めたのだ。
溶接マスクの顔が、ゆっくりと、こちらを向く。
壁越しに、完全に目が合った――ような気がした。
マスクの奥は真っ暗で、実際に目があるのかどうかすら確認できないというのに。
見られている感覚だけが、皮膚をチリチリと焼くように伝わってくる。
(気づかれた……!)
"彼"は巨大な万力を引きずりながら、ズン、ズンとこちらへ歩いてくる。
一歩ごとに床が微かに軋むような気配がした――音は聞こえないはずなのに、なぜか振動だけは伝わってくる。
そして、壁に向かって、万力を力任せに叩きつけた。
音はない。だが、目の前の透明な壁に、巨大な蜘蛛の巣状の亀裂が走った。
"彼"は、その亀裂の隙間に、万力の分厚い鉄のアゴを無理やりねじ込んだ。万力のハンドルを回し始める。
1回転。2回転。3回転。
音もなく、壁がひしゃげ、亀裂がどんどん広がっていく。こじ開けようとしているんだ。この壁を。
壁が崩れ落ちる。ポッカリと開いた大穴から、"彼"が顔を押し込んできた。溶接マスクの奥。血走った眼球が睨みつけている。
"彼"は限界まで大きく口を開け、何かを激しく叫んだ。音のない、狂気の絶叫。
丸太のような巨大な手が、首元へ伸びてくる――!
パッ。
突然、部屋の照明が明るく点灯した。
目の前の壁は、灰色の壁に戻っていた。
着信も、いつの間にか鳴り止み、元の静寂が戻っている。
スピーカーから、事務的で冷たいアナウンスが流れた。
<<お疲れ様でした。いかがでしたか? 恐怖体験は以上となります>>
「……」
声は出ない。
<<"彼"が、あなたの部屋に入ってくる前に、後方の出口から、速やかにご退出ください>>
ガクガクと震える足に鞭を打ち、転がるようにその部屋を飛び出した。
シャツは汗でぐっしょりと濡れ、心臓は早鐘のように鳴り続けている。
受付の若い男は、表情一つ変えなかった。
「お疲れ様でした。アンケートにご協力いただけますか?」
差し出された紙切れを見る余裕もなく、「結構です」とだけ言い残して、逃げるようにビルを後にした。
あれはアトラクションだ。ただの悪趣味な映像だ。
そう自分に何度も言い聞かせながら、駅までの道のりを歩いた。
+ + + + + おりかえし + + + +
宿泊先のビジネスホテルは、駅から少し離れた裏通りにあった。
創業から何十年経っているのか見当もつかないような、古びた外観の建物だった。
ネオンの一部の文字が消えかけていて、正式な名称が半分しか読み取れない。
会社の経費で泊まれる範囲となると、どうしてもこういう宿になってしまう。
チェックインを済ませ、案内された部屋は三階の一室だった。
エレベーターを降りると、廊下の照明は半分が切れかけていて、じじ、じじ、と小さな音を立てて明滅している。
絨毯は古く、歩くたびに微かに沈み込む感触があった。
部屋のドアを開けると、そこは典型的なビジネスホテルの一室。
シングルベッド、小さなデスク、備え付けのテレビ。窓の外には隣のビルの壁しか見えない。
体は、まだ、あの恐怖から完全には解放されていなかった。
シャワーを浴びながらも、何度も目を閉じるたびに、フラッシュバックする。
あの異形のハンドルのついた化け物の顎のような工具。無音のまま潰れていく人体の映像。
(映像だ。ただの映像だ)
時間が出来たからと、あのアトラクションに行ったことを、強く後悔していた。
自分が、これほどまでに、あの手のグロテスクな映像に耐性がなかったことに、驚いてさえいた。
これまでだって、SAWに代表されるような、グロテスクで、恐ろしい、そんな映像作品を見てきたが、こんな感情になったことがない。
あの場の、空気というものが、雰囲気というものが、恐怖のランクを一段も二段も跳ね上げたのだろうか。
その意味においては、あの体験型ホラーアトラクションは成功している。しかし、世間ではほとんど話題には上がっていない。
体を洗い終え、下着姿で、そのまま、ベッドに倒れ込んだ。
壁が薄いのか、廊下の足音や隣の部屋のテレビの音がよく聞こえる。その音が、むしろ、安堵を誘う。
(明日の予定は、明日の朝、確認しよう。もう何も考えたくない……)
何時に起きるのかも決めず、そのまま眠ってしまうことにした。飯はあきらめた。どうせ喉を通らない。
そう思って目を閉じた。
――キリ……。
足を向けている側の壁から。つまり、隣の部屋から、微かな音が聞こえた。
最初は、聞き間違いかと思った。
半分眠りに落ちかけていた意識が、音によって強引に引き戻される。目を開け、暗い天井を見つめたまま、耳だけを研ぎ澄ませた。
――キリ……キリ……。
重い金属が擦れるような音だった。大きなネジか、歯車を回しているような音。
こんな夜中に、配管工事でもしているのか?
少し苛立ちながら寝返りを打とうとした、次の瞬間。
ひどく生々しい音が響いた。
潰れたような音だ。工事の音にしては、あまりにもおかしい。
心臓が、いやな予感とともに一段階、鼓動を速める。
ベッドの上で身を起こし、壁を凝視する。耳を澄ませる。
――ンンッ……! ンーッ!! ンンンンーッ!!
壁の向こうから、くぐもった声が聞こえた。口を何かで塞がれた人間の、苦痛に満ちた絶叫だ。
ただ事じゃない。
フロントに電話しようと、震える手で部屋の受話器に手を伸ばしかけたが。
――キリ……キリ……。
再び、あの金属音が響いた。ゆっくりとした、一定のリズム。
1回転。2回転。3回転。
そして、生々しい音が響いた。
肉が潰れ、骨が砕ける音。もう、そうとしか思えない。
壁の向こうの悲鳴が、ヒューヒューという掠れた呼吸音に変わる。
猿ぐつわをされた人間の悲鳴。潰れる音。――そして、何より、特徴的な、ゆっくりと回される金属の音。
数時間前に見た映像が、脳裏にフラッシュバックした。
巨大な万力。工具の顎。体重を乗せて、ゆっくりとハンドルを回す"彼"の腕。
今のこの音と、完全に一致している。
ガタガタと歯の根が合わなくなった。
指先の震えが止まらず、受話器など、持ち上げることは出来ない。かたかたと小さな音を立て、手を離れる。
わかってしまう。見えなくても、わかってしまう。わかりたくないのに、脳裏に浮かぶ。
今、壁の向こうで、何が行われているのか。まさに、目の当たりにしているかのように。
最初の潰れた音は"足"だ。
二回目の音は"腕"だ。
――キリ……キリ……。
再び、あの金属音が響いた。ゆっくりとした、一定のリズム。
1回転。2回転。3回転。
まったく同じ手順で人体解体が行われている。
今、壁一枚隔てたすぐ向こう側で、あの万力を使った猟奇が行われているんだ。
逃げなきゃ。
そう思うのに、体が微塵も動かない。
まるでベッドに革製のベルトで幾重にも拘束されているかのように。
昼間のアナウンスが脳内でループする。
<<絶対に、声を出さないでください。物音を立てないでください>>
<<"彼"に、気づかれないように>>
今になって、全く違う意味を持ってしまった。
あれは演出上の、AIが語ってみせた、ただの言葉でしかない。
しかし、今は。
両手で口を強く塞いだ。
涙がボロボロとこぼれてくる。
声を殺そうとすればするほど、嗚咽が喉の奥でくぐもって痙攣する。
――キリ……キリ……キリ……。
少し長い。万力のアゴを、大きく広げている音だ。
次は"腹"だ。胴体を挟み込もうとしている。
やめろ。やめてくれ。
心の中で何度もそう繰り返した。
声にすることさえ許されない、この状況の理不尽さに、頭がおかしくなりそうだった。
服の下で、胴が歪んでいく音は、いったいどんなだろうと思っていたが、想像よりも地味で湿った音だ。
生木に縄をかけて、じわじわと無理な重圧をかけたときの、軋むような断裂の音。
喉から漏れる息に混じって聞こえているようで、人体というアンプリファイアによって、増幅されて聞こえてくる。
骨を折る音などしない。むしろ、それは骨と骨に押しつぶされていく肉組織の湿った音。
脂肪の層と、筋肉と、その奥にある硬い芯が押し潰され、逃げ場を失って引き裂かれる音。
繊維と水分が弾ける不快な破裂の音が、ゆっくりとした万力の回転させる音に合わせて、響く。
隣の人間は、もう助からない。次で、最後だ。
永遠にも思える静寂が流れた。時間の感覚が完全に失われている。
両手で耳を強く塞いだ。聞きたくない。これ以上、聞きたくない。
だが、音は容赦なく伝わってくる。音波が、すべてをすり抜ける素粒子にでもなったみたいだ。
骨を伝う振動のように、耳を塞いでいても、その音は確かに身体の中に届いてしまう。
――キリ……キリ……。
何かが弾けた音がした。
その様子を、あの部屋で見たときに、"皮がしっかりしたトマトを、握りつぶしたかのように見えた"と思ったが。
胴の時とは違って、頭は、想像通りの音がした。
だからこそ、悟った。終わったのだと。
手順はすべて終わった。隣の部屋の人間は、頭を潰されて死んだのだ。
静寂が戻った。
小刻みに震え続けていた。呼吸すらまともにできない。吸うことも吐くことも、恐怖で忘れてしまいそうだった。
終わったのか? もう立ち去ったのか?
朝までこのまま息を潜めていれば、助かるのか……?
ジリリリリリリリリリリリリッ!!!
静まり返った部屋に、けたたましい爆音が鳴り響いた。
枕元に置いてあった、スマートフォンだ。iphoneの黒電話の着信音だ。よりにもよって、こんなときに。
「ひぃっ!」
悲鳴を上げ、弾かれたようにスマホを掴み、通話を切った。
静寂。恐ろしいほどの、静寂。
隣の部屋からは、何の音もしない。
(音を、立ててしまった……)
気づかれなかっただろうか。
祈るような気持ちで、その場で凍りついたまま動けなかった。
息を止め、耳を澄ませる。何も聞こえない。
一秒、二秒、三秒――
もしかしたら、大丈夫かもしれない。
もう用が済んで立ち去ったのかもしれない。そう思いたかった。思いたくてたまらなかった。
ベッドの上で後ずさりし、自分の真横にある壁に背中をピッタリと押し付けた。
せめて、その壁から少しでも距離を取ろうという、無意識の反射だった。震える手で胸を押さえ、息を殺す。
――ドンッ!!
すさまじい衝撃音が響いた。
万力の巨大な化け物の顎が、こちら側の壁に突き立てられた音だ。
声が出ない。喉が、ぎゅっと握りしめられたかのように、締め付けられているかのように。
あの音が聞こえ始めた。
――キリ……キリ……キリ……キリ……。
壁が、音を立てて歪み始めた。
壁紙の下の石膏ボードが軋み、僅かに盛り上がっていく。
恐怖体験のアトラクション、そのラストシーンの再現だ。
万力をねじ込まれ、壁がこじ開けられる光景が、今まさに眼前で現実になろうとしている。
――キリ……キリ……。
壁に巨大な亀裂が走る。ピシッ、ピシッと乾いた音を立てて、四方八方に伸びていく。
壁に開けられた隙間から、生暖かい、むせ返るような血の匂いが部屋に流れ込んできた。
鉄と、それとは違う、生臭い何かの臭気が混ざり合った匂い。喉の奥にまとわりつくような、匂い。
逃げ場はない。
壁の向こうで、狂気の絶叫が聞こえた。
それは、あまりにも近く、あまりにも大きい、音。
+ + + + + おしまい + + + +




