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碑文〜レポレッロ、ある従者の後日譚

作者: 渡戸 亜依
掲載日:2026/03/09

夜の墓地は静かだった。

月の光が、白い大理石の墓を淡く照らしている。


その墓には、何も刻まれていない。

磨かれた石の台座があるだけだ。

沈黙する石の隣人たちに囲まれて。


その前に一人の男が座っている。

古びた外套を羽織り、手にはノミと槌。

長いこと旅をしてきたような顔だ。


男は石を見上げ、少しだけ笑った。

「旦那、あんたは初めて会ったときから、ずっとそうだったよ……」


そう言って、ノミを石に当てる。

乾いた音が、夜の空気の中に響いた。


カンッ


「女を見ると目を輝かせて、

神父を見ると笑って、

借金取りを見ると逃げた。」


カンッ


「まったく、とんでもない男だった。」

男は肩をすくめる。

怒っているのか、呆れているのか、

それとも懐かしんでいるのか、自分でもよく分からない。


「でもな……」

ノミがまた石に触れる。


カンッ


「あんたみたいに生きた男は、

俺は他に知らない。」


男はしばらく黙り込む。

遠くで夜鳥が鳴いた。


男のかつての主人は、

誰よりも自由を愛していた。

酒を愛し、

夜を愛し、

そして何より、女たちを愛した。


無頼漢、放蕩者、神を恐れぬ者


ついにある夜、彼は石の客人を晩餐に招く。


「そしてあんたは、地の底へと消えちまった。」


だが今、ここには地獄の炎も、

裁きの声もない。

あるのはただ、静かな墓と、

白い石だけだ。


男はノミを握り直す。

「旦那、世間はあんたを悪党って呼ぶだろうさ。」


カンッ


「まあ、間違いじゃない。」


カンッ


「でもな……」


カンッ


「あんたは最後まで、

誰にも頭を下げなかった。

そんなあんたを、俺は…」


夜の空気の中に、

石を刻む音だけが響く。


やがて男は手を止めた。

大理石には、短い言葉が刻まれている。

男は石の粉を払うと、少し離れてそれを眺めた。


 ここに眠る一人の男

 どこにでもいる男

 そして、どこにもいない男


それだけだ。

名も、日付も、何もない。


男は帽子を取り、石に向かって軽く頭を下げた。

「旦那、これでいいだろ。」


答える者はいない。


男はノミと槌を袋にしまう。

そしてゆっくり立ち上がり、墓地の門へ向かって歩き出した。


男は墓に背を向けたまま言う。

「こんどこそ、セビーリャの街に出て

新しいご主人さまとやらを見つけるさ。」


やがて夜は明け、

墓地に朝の光が差し込む。

白い石の上には、ただその言葉だけが残る。


そこを通る者は、

しばしその石の前で足を止めるかも知れない。




…それから、どのくらいの月日が流れたろう。


セビーリャの街から遠く離れた、片田舎の安酒場。

年老いたひとりの旅の楽士が、

古の吟遊詩人さながらに詠っている。


 一人の男の話をしよう

 どこにでもいる男の話だ

 しかし、どこにもいない無二の男


どこか聴き覚えのある、

あの窓辺の夜を思い起こさせる

マンドリンの音色とともに。

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