悪役令嬢は無実でした ~暗殺少女は標的を変更する
廃屋の奥、黴臭い空気が澱む地下室で、あたしは上司――ダリウスの言葉を聞いていた。蝋燭の炎が揺れ、彼の影が壁に這う。国の組織「影の刃」の統括責任者の男である。
「クロエ、次の任務だ」
「はい」
ダリウスの机には羊皮紙が何枚か散らばっていた。その中の一枚に、豪華な紋章が押されている。王族の印章だろうか。だが、ダリウスはすぐにそれを資料の下へと滑り込ませた。
「ターゲットは、アリシア・ヴァレンタイン侯爵令嬢」
「……ヴァレンタイン侯爵家の令嬢……ですか?」
「ああ。上層部からの重要な依頼だ。国家の安全のため、彼女を排除する必要がある」
上層部。ダリウスはそれ以上、詳細を語らなかった。組織では、依頼主の情報は最小限しか伝えられず、知る必要のないことは知らされない。
あたしは資料を受け取り、羊皮紙に記された情報を目で追う。アリシア・ヴァレンタイン、二十歳、第二王子テオドールの婚約者、回復魔法の使い手。民を虐げ、贅沢三昧の冷酷な令嬢。
評判は最悪。貧民を見下し、自分の快楽のためだけに生き、婚約者である王子すら軽んじ、横暴な振る舞いを繰り返しているという。
「詳細は資料の通りだ。期限は一週間。失敗は許されん」
「了解した」
資料を懐に仕舞って立ち上がる。ダリウスは満足そうに頷いた。
「お前は優秀だ、クロエ。期待している」
期待などどうでもいい。あたしは命令を遂行するのみ。悪党を殺す。孤児院「灰色の揺籠」では、それが正義だと教え込まれてきたのだから。
地下室を出て、夜の王都へ足を踏み出すと、冷たい風が頬を撫でた。星が瞬いている。路地裏を抜け、隠れ家へと向かう。任務の準備をしなければならない。
悪党を殺す。それが正義だ。そのために存在しているのだから。
*
翌日、あたしは王都の繁華街にいた。変装は完璧。地味な服に身を包み、髪を編んで頭巾を被れば、誰も暗殺者だとは気づかない。
人混みの中で標的を探していた。アリシア・ヴァレンタイン。資料には、彼女が定期的に王都を訪れると記されている。買い物が好きらしい。貧民から搾り取った金で、贅沢品を買い漁るのだろう。
正午過ぎ、人影が目に入った。金色の髪、青い瞳、上品な仕草。間違いない、アリシア・ヴァレンタインだ。侍女を一人連れているが、護衛はいない。油断しているのか。
距離を保ちながら、尾行を開始した。繁華街を歩く彼女の姿は優雅そのもので、道行く人々が振り返り、その美しさに見惚れている。
しばらく歩いた後、彼女は立ち止まった。視線の先には、路上に倒れた子ども。転んだらしく、膝から血が流れていた。
アリシアが駈け寄って膝をついた。
「お嬢様、お召し物が!」
「構いませんわ。この子を助けませんと」
侍女が慌てて声をかけたが、彼女は気にせず子どもの膝に手を翳す。淡い光が溢れた。回復魔法、ヒールだ。すり傷はすぐに塞がり、子どもの泣き声は驚きの顔と共に止まった。アリシアは優しく微笑みながら、子どもの頭を撫でる。
「もう大丈夫ですわ。気をつけてくださいね」
子どもは目を輝かせ、何度も頭を下げて走り去る。アリシアは立ち上がって、再び歩き始めた。
噂と違う。
眉間にしわが寄る。彼女は冷酷で民を虐げている、と資料には書かれていた。けれど、今見た光景はそれとは真逆。もしかして演技か? 周囲の評判を気にして、善人を装っているのかもしれない。
尾行を続ける。アリシアは繁華街を抜け、路地裏へと入っていった。人通りが少ない。暗殺の好機かもしれない。気配と足音を消して彼女を追う。
路地裏には、何人もの浮浪者が座り込んでいた。汚れた服、痩せた体。彼らは力なく、壁に寄りかかっていた。
アリシアはゆっくりと彼らに近づいてゆく。背後の侍女がカバンから紙袋を取り出す。中身はパンだった。あれは魔導バッグか。大量のパンがカバンの中から次々と出てくる。
アリシアは一人ひとりにパンを配り、手を翳す。光が溢れる。またしてもヒールだ。浮浪者たちの傷や病が癒されていく。彼らは涙を流しながら、アリシアに感謝の言葉を告げた。
「ありがとうございます、お嬢様!」
「神のご加護がありますように!」
「いいえ、わたくしは困っている方を見過ごすことができませんの。どうか、お元気で」
演技ではない。本物だ。人目のない路地裏で、誰も見ていないのに、彼女は善行を施している。
噂とまったく違う。
疑念が湧き上がる。資料に書かれていた情報は、本当に正しいのか? もしかして、何かの間違いでは?
アリシアは路地裏を後にし、また繁華街へと戻っていく。あたしは尾行を続けたが、彼女は他にも何人もの困っている人々を助けていた。迷子の子どもを親元に届け、転んだ老人を介抱し、怪我をした犬にまでヒールをかける。
これが冷酷な令嬢? 民を虐げる悪党?
納得いかない。頭の中でが疑念が渦巻く。尾行を中断して隠れ家へ戻った。
机に向かい、資料を読みながら思案する。組織の命令は絶対だ。だが、もし標的が善人だったら? あたしは悪党を殺すために存在している。善人を殺すためではない。
確かめる必要がある。真実を。自分の目で。
*
その夜、あたしは王都の酒場にいた。情報屋の溜まり場として知られる場所だ。カウンターに座り、酒を注文する。まだ飲める年齢ではないが……。
隣に座っている男、情報屋のガレスに、小声で話しかけた。
「聞きたいことがある」
「へぇ、クロエじゃねぇか。珍しいな、お前が情報を買うなんて」
ガレスは薄ら笑いを浮かべている。いつものことだ。金貨を三枚、カウンターに置いた。ガレスの目が金貨に固定される。
「アリシア・ヴァレンタインについて教えろ。評判、噂、何でもいい」
「ああ、あのご令嬢か。評判は最悪だぜ。民を虐げて、贅沢三昧してるって話だ」
「具体的には?」
「さあな。詳しい話は聞いたことねぇが、そういう噂が流れてる。特に最近は、聖女様がよく心配してるって話だ」
聖女。王国で唯一、教会から公認された聖女、セレスティア・ルミナス。光魔法の使い手で、民からの信頼も厚い。その聖女が、アリシアを心配している?
「聖女がなぜアリシアを?」
「詳しいことは知らねぇが、アリシアの悪行を憂いてるらしい。あと、第二王子殿下も、最近は聖女様とよくお会いになってるとか」
第二王子テオドールはアリシアの婚約者。その王子が、聖女と頻繁に会っている……?
「おいおいどうしたんだ? お子様のくせに、そんなしかめっ面すんな。かわいいお顔が台無しだぜ?」
ゲスい言葉のせいで、さらに眉が寄る。
「他には?」
「んー、騎士団長のレオンハルト様が、アリシア嬢と親しいって話もあるな。幼馴染らしい」
騎士団長。王国最強の騎士と謳われる男だ。彼がアリシアと親しいということは、彼女を守る可能性を考慮しなければならない。
あたしではレオンハルトに勝てない。アリシア暗殺の際、細心の注意が必要になる。
金貨をもう一枚、ガレスに渡す。
「他に何か知ってることは?」
「んー、そうだな……ああ、そういえば、アリシアの悪評が広まり始めたのは、一年くらい前からだ。それまでは、むしろ評判が良かったらしいぜ」
一年前に何かが変わった。十分だ。あたしは酒場を後にした。
歩きながら、情報を整理する。アリシアの悪評は一年前から始まり、聖女が心配しているという。第二王子が聖女と頻繁に会っており、騎士団長はアリシアの幼馴染み。
繋がりそうで繋がらない。隠れ家に戻って資料を読み直した。他の情報屋からも情報を集める。三日間、王都中を駆け回り、断片的な情報を拾い集めた。
*
隠れ家の机に、集めた情報を並べていく。羊皮紙の切れ端、メモ、証言。全てが、一つの真実を指し示していた。
アリシア・ヴァレンタインは、冷酷な令嬢ではない。むしろ、聖女と呼ぶに相応しい善人である。彼女の悪評は全て嘘だった。
では、誰が嘘を流したのか。
情報を繋ぎ合わせていく。聖女セレスティアがアリシアを心配している、という体で、具体的な悪行を触れ回っていた。それで悪評が広まったわけだ。性悪女じゃねぇか。
第二王子テオドールは、一年前からセレスティアと密会を重ねている。
ふと、任務説明を受けた時の光景を思い出す。
ダリウスの机の上に一瞬見えた書類。あれに押されていた豪華な紋章は、第二王子の印章だった。ダリウスは第二王子から直接、暗殺依頼を受けていたのだ。
全ての構図が見えた。第二王子テオドールが聖女セレスティアに心を奪われ、婚約者アリシアが邪魔になった。
セレスティアがアリシアの悪評を流布し、テオドールが暗殺を依頼した。
依頼先は「影の刃」の統括責任者、ダリウス・グレイ。ダリウスは金に弱い。王子から賄賂を受け取り、暗殺指令をあたしに下した。
「……」
だが、これはあくまで推測である。
拳を握りしめた。確かめなければならない。真実を。証拠を。
暗殺者は確証なく動かない。それが鉄則だ。
*
深夜、あたしはダリウスの隠れ家へと向かった。組織の地下室ではなく、彼が私的に使っている別の拠点だ。場所は把握している。
路地裏の廃屋。扉に鍵はかかっていたが、開錠は容易い。音を立てず中へ入り、気配を探る。
誰もいない。ダリウスは今頃、別の場所で仕事をしているはずだ。
室内を調べ始めた。机の引き出し、本棚の裏、床板の下。隠し場所を一つひとつ確認していく。
やがて、机の引き出しの底板が二重になっていることを発見した。薄い板を外すと、その下に羊皮紙の束が隠されていた。
一枚ずつ確認していく。金銭の記録、依頼の履歴、賄賂の受け取り記録。
手が止まった。
第二王子テオドールの印章が押された書状。差出人はテオドール、宛先はダリウス。内容は明確だった。
『アリシア・ヴァレンタインを速やかに排除せよ。報酬は金貨五百枚。成功の暁には、さらなる便宜を図る』
次の書状には、セレスティアの署名があった。テオドール宛ての手紙だ。
『アリシア様の悪評は順調に広まっております。民衆の心は既に離れつつあります。あとは、物理的な排除のみ。それが完了すれば、わたくしたちは結ばれます』
さらに、ダリウスが記した金銭の受領記録。テオドールから金貨五百枚を受け取った日付と、その用途。『ヴァレンタイン令嬢暗殺依頼』と明記されていた。
証拠は揃った。三人の共謀を示す決定的な物証だ。
書状を全て懐に仕舞い、隠れ家を後にした。足音を消し、夜の闇に溶け込んだ。
*
自分の隠れ家に戻り、証拠を机に並べた。羊皮紙を一枚ずつ読み直し、内容を確認する。
間違いない。これは動かぬ証拠だ。
拳を握りしめた。怒りが沸き上がる。許せない。善人を殺させようとするなんて、絶対に許せない。
悪党を殺す。それが正義だ。ならば、今あたしが殺すべきは……アリシアじゃねぇ。
ダリウス、セレスティア、テオドール。この三人だ。
立ち上がって短剣を手に取る。毒薬を懐に仕舞い、変装の準備をした。今夜、決行する。まずはダリウスからだ。
*
同じ頃、王都の騎士団本部では、アリシアとレオンハルトが向かい合っていた。個室の中で二人きり。
「レオン様、わたくし、どうすればよいのでしょう……」
「アリシア、落ち着いてくれ。必ず真相を突き止める」
「でも、どうして……わたくしがこのような噂を立てられるのでしょう? わたくしは、ただ困っている方々を助けたいだけなのに……」
アリシアの声は震えていた。青い瞳に涙が滲む。レオンハルトは苦渋の表情で、彼女を見つめていた。
「俺は騎士団長として、お前を守る。必ず、噂の出所を探り当てる」
「ありがとうございます、レオン様……」
アリシアは涙を拭い、小さく微笑んだ。レオンハルトは心の中で誓う。彼女を傷つける者は、絶対に許さない。
彼はここ数日、独自に調査を進めていた。だが、噂の出所は掴めていない。巧妙に隠されているのだ。
「王城周辺の警備を強化する。何か動きがあれば、すぐに対応できるようにしておく」
「お手数をおかけして、申し訳ございません……」
「いや、これは俺の務めだ。気にするな」
レオンハルトは立ち上がってアリシアに背を向けた。彼の心には、彼女への想いが燻っている。だが、それを口にすることはできない。彼女には婚約者がいるのだから。
せめて騎士として、友として、彼女を守り抜く。それが、彼にできることだった。
*
深夜、あたしは組織の隠れ家にいた。地下室の扉を開けて中へ入る。蝋燭の炎が揺れる。その先に、ダリウスが机に向かっていた。
「クロエか。進捗はどうだ?」
「順調だ。明日には決行できる」
嘘だ。懐から小瓶を取り出し、ダリウスの背後へと近づいた。音を立てず、気配を消す。暗殺者の基本技術だ。
ダリウスは油断していた。小瓶の蓋を開け、中身を彼のグラスに注ぐ。無味無臭、即効性の毒。飲めば数秒で死ぬ。
あたしは音もなく後退し、扉の前に立った。ダリウスが振り返る。
「何をしている?」
「報告は以上だ。失礼する」
扉を開けて外へ出た。背後でダリウスがグラスを手に取る気配。
鈍い音。倒れる音だ。
振り返らずに隠れ家を後にした。一人目、完了。
*
翌日、あたしは王都の教会にいた。白亜の建物、荘厳な雰囲気。信者たちが祈りを捧げている。その中に紛れ込み、聖女セレスティアを探した。
彼女は奥の個室にいるらしい。信者を装い、告解室へと向かう。扉をノックして中へ入った。
セレスティアがいた。金色の髪、緑の瞳、清楚な笑顔。表向きは聖女だが、本性は腹黒くて性格の悪い策謀家だ。
「あら、どうされました? お悩みでも?」
「ええ、聖女様にお話ししたいことがあります」
扉を閉めて鍵をかけた。セレスティアは不審そうな顔をする。
「なぜ鍵を……?」
「誰にも聞かれたくない話なんです」
懐から短剣を取り出し、一瞬で間合いを詰めた。セレスティアの喉にためらいなく刃を突き立てる。彼女は悲鳴を上げる暇もなく絶命した。
血が床に広がる。あたしは短剣を拭い、鞘に収めた。二人目、完了。
窓から外へ出て、教会を離れる。誰にも気づかれていなかった。
*
その夜、あたしは王城へと向かった。最後のターゲット、第二王子テオドール。彼を殺せば、全て終わる。
王城の警備は厳重だが、あたしにとっては造作もない。壁を登り窓から侵入する。廊下を進みテオドールの私室へと向かった。
だが、私室の前に人影が立ちはだかった。
「そこまでだ」
低い声。レオンハルト・フォン・アイゼンベルク。騎士団長だ。彼は剣を抜き、あたしを睨みつける。一分の隙もない。やはり、彼が一番の障害となった。
「獲物を捨てろ。お前を逮捕する」
短剣を構えたが、周囲から騎士たちが現れた。完全に囲まれている。逃げ道はない。
レオンハルトが進み出る。
「あんたがクロエ・アッシュか。こんなにチビの女の子だったとはな……すこし独り言に付き合ってくれ。昨夜から本日にかけて、二件の殺人事件が起きた。お前……アリシアを守ろうとしたのか?」
「……」
黙って睨み返す。表情で悟られてはいけない。けれど、彼はあたしの目を見つめて、察したように頷いた。しまった……一瞬だけ、彼に託せないかと考えてしまったからだ。
「俺はお前を見捨てたくない……だが、法は法だ。大人しく捕まれ」
短剣を落として両手を上げた。騎士たちがあたしを拘束し、牢へと連行する。
これで終わり、か。正義を貫いたが力及ばず。だが、悪を二人殺せた。それだけで十分だ。
*
翌日、牢の中で、あたしは天井を見つめていた。冷たい石の床、鉄格子の向こうに見える光。もうすぐ、処刑されるだろう。
足音が近づいてくる。鉄格子の前に人影が立った。
「クロエさん……」
アリシア・ヴァレンタインだった。青い瞳が、あたしを見つめている。
「あんた……」
「あなたがわたくしの悪評を潰してくれたのですね」
目を逸らした。
「別に、あんたのためじゃねぇ。あたしは、ただ正義のためにやっただけだ」
「それでも、わたくしは感謝しております」
アリシアは優しく微笑んだ。なぜか胸が苦しくなる。
「あんたには真実を知ってほしい。あたしの隠れ家に証拠がある。王都の東、廃工場の地下だ。そこに全ての証拠を残してある」
「証拠……?」
「ああ。ダリウス、セレスティア、テオドール。三人が結託して、あんたを陥れようとした証拠だ。契約書、手紙、金銭の記録。全部ある」
アリシアは息を呑んだ。
「それを、レオン様に渡してくれ。そうすれば、真相が明らかになる」
「でも、あなたは……」
「どうでもいい。ただ、あんたには幸せになってほしい。それだけだ」
アリシアはくしゃくしゃの顔で涙を流した。
「わたくし、必ずあなたを救います。お待ちください」
彼女は駆け出していった。目を閉じて寝転ぶ。救われる? そんなことあるわけがない。命令ではないのに、二人も殺した。正義のため、という前提で法を犯した。死ぬのは当然だ。
あんたが幸せになれるなら、それでいい。
*
レオンハルトとアリシアは、廃工場の地下へと向かった。騎士団員を大勢連れて。
地下室の扉を開けると、小さな机と薄汚れた寝床がひとつ。殺風景な部屋だった。
彼らは机の上に目を向けた。
「あの子が言っていたのはこれか……」
机の上には大量の資料が積まれていた。契約書、手紙、金銭の記録。全てが、テオドール、セレスティア、ダリウスに関する証拠だった。
レオンハルトは全てを確認して顔色を変えた。
「これだ……間違いない。第二王子が、アリシアの暗殺を依頼した証拠だ」
「レオン様……」
「アリシア、俺はこれを持って王城へ行く。陛下に報告しなければならない」
「でも、クロエさんの処刑まで時間がありません!」
「分かってる。間に合わせる。必ず」
レオンハルトは資料を小分けにし、騎士団員に持たせた。膨大な量の書類だった。
「急ぐぞっ!」
レオンハルトの号令で、彼らは王城へと急いだ。
時間がない。だが、必ず間に合わせる。クロエを救い、アリシアの名誉を回復させる。それが、騎士の務めだ。彼はその一心で駆けていた。
*
王城前の広場には、大勢の民衆が集まっていた。処刑台が設置され、その上にギロチンがそびえ立つ。
あたしは両手を縛られ、処刑台へと連行された。民衆の視線が突き刺さる。誰もがあたしを犯罪者として見ている。
実際その通りだ。人を殺した。罪を犯した。
処刑台に登り、ギロチンの前に膝をつく。首を台に乗せられた。
こんなに怖いものなのか。
死ぬ、ということは。
これで終わりか。
執行人がギロチンの紐に手をかけた。
刃が落ちる。あと数秒で。
目を閉じた。
怖い。
民衆がやかましい。
声は出さない。
泣き叫ぶとでも思っているのか。
けれど、涙が止まらなかった。
「待って!」
叫び声が響いた。聞き覚えのある女性の声だ。
目を開けると、アリシア・ヴァレンタインが、処刑台へと駆け寄ってきたところだった。その後ろには、レオンハルトと、大勢の騎士団員が続いている。
「処刑を中止してください! この方は無実です!」
民衆がざわめく。執行人が手を止め、困惑した表情で周囲を見回した。
レオンハルトが処刑台の前に立ち、声を張り上げる。
「我々は重大な証拠を発見した! この女性、クロエ・アッシュは、真の悪を排除するために行動した!」
彼は証拠の束を掲げた。
「第二王子テオドール殿下は、婚約者であるアリシア・ヴァレンタイン嬢の暗殺を企てた! 聖女セレスティア・ルミナスは、アリシア嬢の悪評を流布し、陰謀に加担した! 暗殺組織の統括責任者ダリウス・グレイは、賄賂を受け取り、不正な暗殺指令を出した!」
民衆が騒然となる。アリシアは涙を流しながら、叫んだ。
「わたくしは、決して民を虐げたことはありません! わたくしは、ただ困っている方々を助けたかっただけです! それなのに、悪評を流され、命まで狙われました! クロエさんは、わたくしを救ってくださったのです!」
民衆の中から、声が上がった。
「そういえば、アリシア様は俺の子どもを助けてくれた!」
「私もパンをいただいたことがあります!」
「あの方は、悪人なんかじゃない!」
次々と民衆が証言を始めた。アリシアの善行を知る者たちが声を上げたのだ。
そのとき、王城のバルコニーから、国王カール・ヴァルハイムが姿を現した。
「余の名において命ずる。処刑を中止せよ」
静寂が広場を包む。国王は厳かな声で続けた。
「テオドール、貴様の所業、余は騎士団長レオンハルトより報告を受けた。動かぬ証拠もこの手にある。貴様は婚約者を裏切り、暗殺を企てた。これは重罪である。直ちに拘束せよ」
騎士たちが王城へと走り込むと、テオドールの悲鳴が聞こえた。
「ま、待て! わ、わたしは知らない! 陰謀だ! これは陰謀だ!」
だが、証拠は明白である。テオドールは拘束され、連行されていった。
国王の視線があたしを捕らえた。
「クロエ・アッシュ、そなたの行いは法に背く。だが……正義でもあった。そなたが殺したのは、真の悪人である。余はそなたに恩赦を与える」
恩赦? まさか……。
執行人が縄を解く。あたしは処刑台から降ろされ、地面に膝をついた。
アリシアとレオンハルトが駆けてきた。アリシアがあたしを抱きしめる。
「良かった……本当に、良かった……」
レオンハルトも微笑んでいる。
「お前はアリシアを守った。俺からも礼を言う」
涙が溢れそうになった。だが、堪える。
「あたし……暗殺以外の生き方を知らない。恩赦と言われても、何をすれば……」
アリシアは優しく微笑んだ。
「これから、わたくしと一緒に生きましょう。クロエさんには、幸せになる権利があります」
レオンハルトが頷く。
「アリシアの言う通りだ。お前はまだ子ども。これから新しい人生を始めるんだ」
あたしは二人を見つめて小さく頷いた。
新しい人生。それが、どんなものなのか、まだ分からない。
いや、少しだけ楽しみかもしれない。ただ、少しだけ気になったことがある。レオンハルトがアリシアに「クロエの洗脳は解けそうか?」と、小声で尋ねていた件だ。なにを言っているのだろうか。そんなふうにしか感じなかった。
*
三日後、王城で裁判が行われた。国王の裁定は以下の通りである。
第二王子テオドール・ヴァルハイムは、王位継承権を剥奪され、終身幽閉。二度と王城の外に出ることは許されない。
すでに死亡した聖女、セレスティア・ルミナスは、聖女の称号を剥奪。教会からも除名され、その名は歴史から抹消された。
暗殺組織「影の刃」は組織再編。死亡したダリウス・グレイの不正が明らかになり、組織の人員が総入れ替えとなった。
あたしみたいな暗殺者を輩出していた孤児院「灰色の揺籠」も閉鎖され、子どもたちは別の施設へと移された。
アリシア・ヴァレンタインは、名誉を完全に回復。民からの信頼も取り戻し、王国で最も尊敬される令嬢となった。
あたしはなぜか、アリシアの侍女として新しい人生を始めることとなった。
アリシアとレオンハルト・フォン・アイゼンベルクは、婚約を発表。二人は、幼い頃からの想いを遂に叶えたのである。
*
ヴァレンタイン侯爵家の庭園で、あたしはアリシアと並んで座っていた。春の風が優しく吹き、花々が揺れる。
「クロエさん、お茶をどうぞ」
アリシアが淹れた紅茶を受け取る。一口飲んで、温かさが心に染みた。あたしは十五歳。ずっと年下なのに、なぜか敬語を使われている。
「なあ、アリシア」
「はい?」
「あんた、あたしを許してくれるのか? 二人も殺したのに」
アリシアは優しく微笑んだ。
「あなたは、正義のために戦いました。わたくしは、それを誇りに思います」
「でも……」
「クロエさん。過去は変えられません。でも、未来は変えられます。これから、わたくしたちと一緒に、幸せな未来を作りましょう」
目を伏せた。幸せな未来。そんなものが、本当にあるのだろうか。
けれど、アリシアの笑顔を見ていると、信じられる気がした。
レオンハルトが庭園へとやってきた。彼はアリシアの隣に座り、優しく微笑んだ。
「アリシア、クロエ。いい天気だな」
「ええ、本当に」
三人で紅茶を飲む。穏やかな時間が流れていく。
初めて知った。人を殺すことではなく、人を守ることを。闇の中で生きることではなく、光の中で生きることを。
これが幸せなのか。
まだわからない。けれどあたしは、もう二度と暗殺者には戻らない。
きっと。
(了)
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