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その婚約、待って頂きたい!

作者: 入多麗夜

「……婚約を、破棄してほしい」


 王子アレクシスの口から発せられたその一言は、重くも冷たく、どこか現実味のない響きを持ってアナベル・クラウゼの前に落とされた。

 午後の静けさに満ちた書斎で、その空気を誰よりも早く理解したのは、当のアナベルだった。


 彼女は取り乱すこともなく、ただ静かに頷いた。

 それが何を意味するかを、すでに悟っていたのだ。


「君のことは尊敬している。貴族としても、ひとりの女性としても立派だった。……だが、愛は違うものだと思うようになった。愛せない相手と結婚するのは、君にも失礼だから」


 アナベルは視線を伏せ、口元に微かな笑みを浮かべた。


「ご決断、了承いたします」


 彼女は礼をする。そこに感情は込められていない。ただ、アレクシスはそれを“潔さ”と受け取り、ほっとしたような顔を浮かべた。


 それでいいと、彼は思った。互いのために、これが正しい選択だと。


 だがこの瞬間、アレクシスは自らの運命の分岐点に立っていることに、まだ気づいていなかった。




 ◇




 王宮には花が咲き乱れていた。

 アレクシス王子の新たな婚約者として発表されたのは、平民出の才女――エレナ・ローゼン。


 民の支持を集める美貌と聡明さ、慈善活動に取り組む姿勢などが持ち上げられ、「庶民の希望」とまで讃えられていた。


 王室はこの婚約を「時代に寄り添う新たな形」として盛大に喧伝し、祝賀の夜会が近々開かれることが告げられた。


 それを知ったアナベルは、屋敷の応接間で静かに紅茶を口にしながら、何も言わなかった。


 けれど、その手元には一通の封筒が置かれていた。

 そこに記された内容が何であれ――王家の名を脅かすようなものであることは、確かだった。


 王子の新たな婚約者について、世間が知らぬ裏の顔を、アナベルは知っていた。




 ◇




 夜会の夜、王宮の大広間には豪奢な装飾と音楽が満ちていた。

 集められた貴族たちは皆、祝福のために装いを整え、第二王子の新たな門出を待ち構えている。


 アレクシスは婚約者となるエレナ・ローゼンを伴って入場した。

 エレナは淡い金糸のドレスに身を包み、微笑みをたたえて王子の隣に立っている。


 楽団の奏でるワルツの旋律が、天井の高い空間に優雅に響いていた。


 大理石の床に反射するシャンデリアの光が、金箔細工の壁をさらにまばゆく照らし出していた。

 正装に身を包んだ貴族たちは、手にしたグラスを傾けながら微笑を交わし、談笑に興じている。

 赤と白のワインが並び、銀の盆には小さな菓子と、果物が彩りよく並べられていた。


 祝福――そう呼ぶにふさわしい空気だった。

 時代の変革を象徴するように、王子が選んだのは平民出の才女。

 エレナ・ローゼンは、もはや“下から来た者”ではなく、“新時代の顔”として、誰もが注目する存在となっていた。


 彼女は微笑みながら応じる。

 やや緊張の残る所作ではあるが、それがかえって清廉な印象を与えていた。

 王子は終始満足げに彼女を見つめ、時折耳元で言葉を交わしている。


「まさに、理想的な未来図だな……」

「貴族だけでなく、民も味方にするおつもりなのだろう」


  そんな声が、あちこちでささやかれるなか、楽団の音色が静かに次の楽章へと移ろうとしていた。


 そのとき――


 突如、大広間の奥で重い扉が“内側から”叩きつけられるように開かれた。


 高く響く金属音が、華やかな旋律を真っ二つに断ち切る。


 開かれた扉の向こうに現れたのは、アナベルだった。深紅のドレスが、蝋燭の灯を受けて重たく揺れている

 

 そして、その背後には近衛兵がいた。

 彼らは剣を抜き、柄に手をかけたまま警戒の構えを崩さずに歩いていた。


 時が止まったかのように、誰もがその場で凍りついた。


 王子アレクシスの隣に立つエレナ・ローゼンは、思わず王子の腕にすがるように寄り添った。


 近衛兵たちはその場で整列し、一歩下がって静止した。


「……アナベル?」


 アレクシスが名を呼んだ。

 不安と戸惑いが混ざった声だった。


 アナベルは、ゆっくりと一礼し、そして凛とした声で言った。


「お騒がせいたします。本日はどうしても皆さまの前で申し上げねばならないことがございます」


 壇上のアレクシスが眉をひそめ、視線を逸らすことなくアナベルを見下ろす。


 エレナはその横で、小さく震えている。だが、怯えているのは彼女だけではなかった。


 会場の誰もが、アナベルの突然の登場と、その背後に控える近衛兵の存在に、ただならぬ空気を察していた。


「……アナベル?」


 アレクシスが名を呼んだ。

 不安と戸惑いを滲ませた声だった。


「皆さまの前で、この場をお借りし、重大な報告をいたします。王家と国家の名誉に関わる事実を、明らかにせねばなりません」


 広間にざわめきが走る。


「なにを……勝手な真似を……!」


 アレクシスが声を荒げようとしたが、アナベルは微塵も動じなかった。


「私情ではありません、殿下。これは公の場で、公の名において語られるべき真実です」


 言葉は淡々としていた。だが、その抑えた熱こそが、誰よりも彼女の本気を物語っていた。


 アナベルはゆっくりと封筒を取り出し、手にしていた一枚の文書を高く掲げた。


「殿下の新たな婚約者であるエレナ・ローゼンが、反王政派との接触を持っていたこと。これがその記録の一部です」


 ざわっ、と空気が波打った。

 会場の隅々まで、緊張が走った。


「まずはこちら――彼女が代表を務めていたとされる“慈善団体”の会計記録です。表向きは孤児院への支援ですが、その一部が、過去に急進的な主張を行っていた団体と重なる名義へと流れていました」


 文書が広げられると、貴族たちの間で動揺が広がる。


 そこに記された金の流れは明確で、誰の目にも“偶然”では済まされないものだった。


「さらにこちらは、密告者から得た証言。複数の証人が、彼女が“ローゼン”という名とは異なる偽名で反王政派と密会していたことを語っていました。内容は記録されており、現在調査機関にて照合中です」


 エレナが青ざめた顔で一歩後ずさる。


「……でたらめ……そんなの……っ」


 震える声が、かすかに空間を乱した。

 だが、アナベルはすでにその反応すら計算に入れていたかのように、静かに視線を向けた。


「否定されるのなら、どうぞ。ここに証拠も証言もあります。あなた自身が、説明すべきでしょう」


 その視線の冷たさに、エレナはもう何も言えなかった。


「そして王子殿下」


 アナベルはアレクシスの方を向き、僅かに声の調子を変えた。


「かつて私は、あなたに敬意と忠誠を捧げました。それを裏切られたことを、私は恨みません。ただ、王家がこのような人物と結びつこうとしていることに、私は危機を感じたのです」


 王子は唇を噛み、拳を握りしめた。


「……君は、最初から……疑っていたのか……?」


「ええ。ですが、疑いだけで人を断罪することはできません。ですから私は、時間をかけて調べました。証拠を集めました。それが、今ここにあります」


 彼女の言葉に、誰も反論できなかった。

 祝賀の席に集った貴族たちが、一人また一人と沈黙し、視線を逸らす。

 誰もが理解していた――アナベルが語るのは、もはや“事実”なのだと。


「……婚約は、取り消しだ」


 その言葉が広間に落ちた瞬間、近衛兵たちが動いた。

 床を打つ靴音が、場の緊張をさらに引き締める。控えていた兵の数名が前へ出て、迷いなくエレナ・ローゼンの左右に立った。


「お、お待ちください……っ。これは誤解です、私は――」


 エレナの声が震える。だがその抗弁は、すでに誰の耳にも届いていなかった。

 彼女が言葉を重ねようと口を開くよりも早く、兵の一人が手を伸ばし、その腕を押さえ込む。


 反発の素振りを見せたその瞬間、別の兵が剣の柄に軽く手を添えた。

 その仕草ひとつで、エレナは息を呑み、抵抗を諦める。


 王子は、振り返らなかった。

 彼の視線はただ床の一点に落ち、口元はかすかに引きつっていた。

 何も言わず、何もできず、ただ成り行きの結末を受け入れるしかなかった。


 エレナ・ローゼンは、貴族たちの視線を背に受けながら、ゆっくりと会場の外へと連行されていった。


 大広間の中央に残されたアレクシスは、祝宴の主役でありながら、誰よりも孤独な存在へとなっていた。


 誰も言葉をかけない。気遣う者も、慰める者もいなかった。


 重々しい空気の中に、ゆっくりと響いたのは、ヒールの音。


 アレクシスは言葉を失ったまま、視線を落とす。


「どうか、この日を忘れないでください」


 そう言い残し、アナベルは背を向けた。


 誰もが見送るしかなかった。声をかけることも、引き留めることもできずに。


 その姿は“婚約破棄された令嬢”ではない。


 国の命運を救い、潔く去っていく――気高き一人の女性だった。

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