¥280の悪者
「無理に悪者を作らなくていいのよ。」
その言葉を聞いたとき、僕は反射的に「いやいや、そんなことはない」と言い返そうとしたのだが、どうにも言葉が出てこない。出そうとしても空振りする。気づけば僕の思考は、その場に散らばる砂粒のようにまとまりを失っていた。
たしかに理屈では彼女の言うことは正しい。いや、正しいというよりも、「理想的」とでも言うべきだろうか。悪者を作らない社会なんてものが、もしこの世界に存在するなら、それはきっと素晴らしいだろう。それこそ、花々が咲き乱れ、小鳥がさえずる楽園のような光景が広がるに違いない。
でも現実は違う。
僕たちの世界はそんな簡単にはいかない。誰かを悪者にしなければならない時がある。いや、むしろ誰かを悪者にすることでしか、物事が前に進まない時があるのだ。
「たとえば……誰かを悪者にしないと解決しない問題だってあるんじゃないか?」僕は、なんとか声を絞り出すように言った。
彼女は首をかしげる。その動作は、まるで小さな鳥が水を飲むときのように滑らかで、しかも無意味に可愛らしかった。そんな仕草に惑わされる僕が悪いのか、それとも彼女が狡猾なのかはわからない。
「そうかもね」と彼女はあっさり肯定する。「でも、それでもよ。悪者を作ることって、本当に必要なのかしら?」
その問いかけに、僕は完全に沈黙した。なぜなら、それは紛れもなく反則的な質問だったからだ。論理を一気に飛び越え、感情の急所を直接突いてくるような、その一撃に僕はどう応じればいいのかわからなかった。
「悪者を作るのは楽なのよ。」彼女は続ける。「悪者がいれば、みんな自分を正しいと思えるから。だけど、それで問題が解決するわけじゃないでしょう?」
彼女の言葉は鋭かった。でもその鋭さには、どこか優しさが含まれている。それは、僕がこれまでに出会ったどんな人間とも違う種類のもので、例えるならば――そう、冬の朝に手にした温かい缶コーヒーみたいなものだ。温かいけれど、じっと握っているとそのうち冷めてしまうような、そんな儚い優しさ。
「それにね、」彼女は小さな声で付け加えた。「無理に悪者を作らなくても、世界はどうせ勝手に悪者を作ってしまうのよ。だから、私たちはそれに加担しなくていいんじゃないかしら。」
僕はしばらく彼女の顔を見つめていた。その表情には、確かに迷いがなかった。でも、それは強い信念から来るものではない。むしろ、人間に対する深い諦めのようなものに思えた。
「だからといって、どうすればいい?」と僕は問い返す。
彼女は少しだけ笑った。
「さあね。とりあえず、コーヒーでも飲む?」
その何気ない提案が、妙に鮮明に記憶に残った。コーヒー一杯分の時間の間に、悪者を作らない世界について考えてみろ、ということなのだろうか。それとも、ただ単に彼女がコーヒーを飲みたかっただけなのだろうか。
答えは、わからない。