第11話 日向夏樹
夏樹は微妙な顔をし、息を吐いた。白い髪の氷華を見ても、何も言わない。何もかもわかっていたようだ。
「あなた、いつから……」
「お前が学園に来た時からやな。最初から、お前が人間じゃ無いのはわかっとった」
氷華は言葉を失った。唇を噛む。
何もかもわかっていたうえで――。
いま、自分がどんな表情をしているのかわからなかった。ただとにかく、この状況を打破するには、目の前の夏樹を――退魔師を――殺すしかないと思った。そうでなければきっと自分はこの焔にあてられて、雪のように溶けて消えてしまうだろう。それは人間でいうところの死だ。
「……さて、オレの質問に答えてもらってねぇけど――」
答える前に、右手にぐっと力をこめた。パキッと部屋の中の氷が音を出す。根元から折れた氷柱が三本、勢いよく夏樹に飛んだ。
「うおっ!?」
腕で庇ったが、一本は夏樹の頭の横をかすめて背後の壁に衝突した。
氷華の白い髪が風に乗ったように浮かび上がり、部屋の中が吹雪いていく。凍り付いた本棚を足元から雪が隠し、凍り付いた男の死体にも雪が積もっていく。
「あなたが――あなたが退魔師だったのですね。非常に……残念ですが……」
白い闇の中で、青い瞳が光る。
「ちょ、ちょっと待っ……」
夏樹が何か言いかけたが、それよりも氷華の一撃の方が早かった。
吹雪が舞い、ピシピシと音をたてて夏樹の髪と衣服とに雪が貼り付いて凍り付いていく。そのまま体ごと縫い止められるように、白く凍り付いていく。
――他愛もない……。
しかし氷華が勝ち誇る顔をする前に、夏樹の手にあった護符が燃え上がった。小さな焔を宿した護符は、逆に勢いを増した。腕の下から見える三白眼に赤い色が宿ると、煙をあげるようにして氷がすべて溶け落ちていく。凍り付いていた体勢が戻り、その水分さえもが蒸発していく。
手を抜いたはずはなかった。
「いきなりご挨拶やな! こっちはまだ話が……!」
「うるさい!」
再び右手をかざすと、氷柱を飛ばす。
「最初から全部知っていて、私を愚弄したくせに!」
闇雲に氷柱を作り出してはそれを飛ばす。夏樹が氷柱を避けて転がった先へと落としていく。
まるで自分の前に熱の壁があるように、壁に突き刺さった氷柱はみな溶けて消えていく。床が濡れては凍り付いたり、すぐに乾いたりを繰り返す。
「くそっ!」
夏樹が舌打ちをするのが聞こえた。彼は相変わらず周囲の氷を溶かして自分のスペースを確保し続けている。ピキピキと音をたてて、あたりが吹雪と氷で固まっていく。苛々する。どうしてこんなに苛々とするのかもわからない。
頭の片隅で、思い出のようなものが浮かんでは消えていく。
「あなたが……あなたが退魔師だったのなら、なんでもっと、早く来てくれなかったんですか!」
「は……」
夏樹は目を大きく見開いた。
飛んできた氷柱が壁に突き刺さる。
「ちょ、ちょっと本当に待てって! お前……」
「待ちません!」
「だーっ! もう!」
聞きたくなかった。
自分でも何を言っているのかよくわからなくなっている。敵意でも怒りでもないような気がするが、氷華はそれを無視した。
なにより、最初から嘘だったのだ。
全部、嘘だった。
陽葵と一緒に気に掛けてくれたのも、クラスメイトとして接していたのも――最初から知っていたうえでの虚構だった。
しかし、それは氷華自身もだ。
築き上げたのは、結局は自分で作り上げた虚構ばかり。人間たちの認識をゆがめて、嘘で固めて、ぬるま湯に浸っていただけだ。なにひとつとして自分で手に入れたものではなかった。雪で固めた彫刻がすべて溶けて消えてしまうように、なにも残らない。
虚構ばかりの日常で、夏樹のついた嘘だけが本当だった。それだけは本当に腹立たしい。夏樹が退魔師であったのなら。何故、もっと早く。ここに来てくれなかったのか。
「……お前……」
夏樹が何かに気がついたように、目を見開いた。
足元から突き抜けてくる氷柱を避け、貫かれた和服をむりやり裂いて脱出する。夏樹はしばらくじっと氷華を戸惑った目で見ていたが、やがて気を取り直したように言った。
「……っ、最初から知っとったんは謝る……! だから、オレの話を聞いてくれ!」
「いまさら何! 私は話すことなんて無いです!」
「お前、ひょっとしてあいつの仇を取りたいんやないんか! だったら止まれ!」
だん、と夏樹が床を勢いよく踏みならすと、その場に焔が舞った。
「知りませんよ、そんなの!」
「じゃあなんでそんな泣きそうなんや!」
「は……?」
泣きそう。
――私が?
「いまだってそうやろ! 本気で戦うつもりもないんやったら――話くらい聞かんかい!」
「わ、私は本気で……」
「嘘つけ。だったらオレの心臓を狙ってみろや、雪女!」
夏樹の親指が自分の胸を示す。
一瞬、躊躇した。頭痛がする。自分から『約束』を破ろうとしているからだろうか。それとも別のなにかなのか。
「……死にたいのなら、その通りにしてあげますよ!」
吹雪が、この部屋にできた氷柱をかっ攫う。
氷柱の先が三つ、研がれたように先端が鋭く光るそれを、一気に夏樹に向ける。
――心臓。
そこさえ突けば、いかなる退魔師だろうが人間だ。それで死ぬ。これで終わりだ。
氷の刃と化した氷柱が、狭い部屋の中を一直線に駆け抜けていった。最後の瞬間から、氷華は目を逸らした。どっ、と氷柱が当たる音がする。
夏樹はぴくりとも動かなかった。放たれた氷柱はすべて心臓から外れたところを引き裂いていき、彼の黒い和服を血で染めて背後に刺さった。そのときにはもう氷柱は溶けかけていて、つやつやとした質感のまま床を塗らして消えていく。
「あ……」
氷華がよろけてたたらを踏んだときには、夏樹が大きく一歩を踏み出して迫ってきた。
「捕まえた!」
両腕を掴まれる。
「ちょっと、大人しくなってもらうぞ」
溶かされる、と思った。
三白眼の瞳がよく見えた。茶色いと思っていたその目は、やはり赤い焔のように色づいていた。護符が額に押しつけられる。
「――掛けまくも畏き高天原の天照大御神、罪穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白す事、我が名に於いて邪悪を縛り封じ使役する事赦し給え――縛邪!」
護符が焔となって燃え上がるのと同時に、氷華の額に焔のような赤い刻印が浮かび上がり、浸透するように消えていった。それを合図に、氷華の髪から白い色が溶け落ちていった。黒髪になるのと同時に、最後に瞳から青い色が溶け落ちていく。その下から褐色の瞳が現れた。力が抜けていく。
「……封印完了、と」
よろめいたように氷華は膝を折った。おっと、と夏樹が腕をとるが、既に座り込んでいた。床はとっくに氷が溶けて乾ききっていた。
「こっちも規則やからな。お前には聞きたいことが山ほどあるけど」
夏樹はそうは言ったが、氷華は下を向いたままだった。
「……夏樹さん」
「お、おう?」
思ったより暗い声に口ごもる。
「……ひなちゃんが。私……わたし、まもれなかった……」
氷華が両手で顔を覆う。
夏樹は今度こそ言葉を失ったように、沈黙だけが落ちた。
誰が犠牲になろうと別によかった。見知らぬ人間が一人二人死んだところで、解決できればそれでよかった。けれども、死んでいたのは陽葵だった。だからこれは、ただの八つ当たりだったのだ。
気まずい空気が満ちて、夏樹は戸惑ったようにしゃがみこむ。
「氷華、聞いてくれ。最初から正体を知って黙ってたのは悪かった。お前のことを泳がせとったのは事実やし、……疑っとったのもある。……だから、この事態はオレのせいや」
氷華は返事をしない。
「何があったのか教えてくれ」
「……」
氷華は少しだけ夏樹を見て、それから目を逸らした。
「……、復讐、だと。言っていました。七年前の……」
「七年前の復讐?」
夏樹はその言葉になにか思い当たるところがあるようだった。
「……。なにか心当たりが?」
「……いや、まあ、予想通りではあるけど……」
氷華は、勢いよく夏樹にしがみついた。すぐには何も言わなかったが、互いの褐色の目を通り越して、青と赤が交錯した。夏樹は少し目を見開いてから、落ち着かせるように両手をあげる。
「落ち着け。おそらく、『犯人』はもう一人やるつもりや。これ以上被害が出る前に、『犯人』を止めなあかん。オレが言うのもおこがましいかもしれんけど、オレに協力してくれ。お前に掛けられとる嫌疑も晴らすし、――橘の仇もとる。約束する」
「――っ」
氷華の声が今度こそ詰まった。息ごと詰まるようだった。
何かに射貫かれたように。
――そんなの、ずるい。
氷華は夏樹の肩を軽く叩いた。叩いたとも言えないような力だった。ぐしぐしと目元をぬぐい、目線を逸らす。何度か深呼吸をして、息を整える。
「……わかりました」
「おっしゃ」
「し、仕方ないからですよ。私の嫌疑とやらも晴らしてもらいますからね!?」
「わかっとるって、オレに任せろ!」
夏樹が立ち上がり、視線を巡らせて時間を確認する。
「いったん、落ち着くところに行こか。つっても、この時間に開いてる店か……」
氷華もゆっくりと立ち上がり、もう一度目元を拭ってから口を開いた。
「じゃあ、……うちに来ます?」
「えっ」
「人がいますけど、気にしなくていいので」
「え?」
夏樹はますますわからない、という顔をしていた。