第10話 第二の殺人
あたりはすっかり夜になっていた。
氷華は高台公園から街を見下ろしながら、そのときが来るのを待っていた。青い瞳が周囲を注意深く見つめる。
「……来た!」
不自然な雪の気配を感じるや否や、すぐにとって返した。幸いにも街の北側のあたり。すぐに行けそうな距離だ。階段の上から飛び降り、雪風に乗るようにふわりと片足から地面に着地する。黒髪から白になっていく髪を揺らして、夜の闇に紛れて地区を駆ける。ひょいと石垣の上へと飛び乗ると、そのままカーポートの上を飛び跳ね、屋根の上へと飛び乗る。場所を確認すると、雪は街の一角だけに降り注いでいた。雪の中心に向かうにつれて強くなっている。氷華は再びその雪風に乗って屋根の上を走り抜けていった。高級住宅街を抜けて、小さな商店の混じる町並みへと向かった。
ちょうど中心の手前で屋根から降りると、玄関が凍り付いた家が見えた。
――この家ね。
相手は玄関から入っていったようで、入り口から開けっぱなしの玄関が見えた。ふと横を見ると、表札が目に入った。
――橘?
どっ、と心臓が跳ね上がる。
まさか、と嫌な予感をはねのけた。そんなことはない。偶然だ。陽葵と同じ苗字だから、きっとそう思ったのだ。ゆったりと玄関から入っていくと、そのさきで血を流して凍り付いていた死体が見えた。エプロンをした中年の女だった。あまり気持ちのいいものではない。その先へ続く廊下にも、だれか倒れている。スカートは見覚えのあるものだった。学園の制服だ。ゆっくりと近づく。上半身は部屋の中に隠れて見えない。
構っている暇はない。早いところこの事態を引き起こした怪異とけりをつけないといけない。氷華の足はそっと、倒れている女子学生のもとへと向かっていた。見たくない。もしも、間に合っていなかったら……。
どこか遠いところから見ているような感覚。床に広がる髪型は見たことのある色艶をしていた。
「……ひな……」
倒れていたのは陽葵だった。
雪と氷で凍てついた部屋の中で、赤い血を散らしている。喉元に引き裂かれた跡があった。こめかみにも巨大な爪で掴まれたような穴があった。すぐそばでしゃがみこみ、恐る恐る肩を掴んで揺らす。
「ひな……、ひなちゃん」
人間が死ぬ所は何度か見たことがある。さっきも見たばかりだ。
氷華が生まれた雪山で、遭難して死んでいった何人もの人間。
ある約束をとりつけて死んでいった人間。
その目は見開いたままだった。まだ温かかったはずだろうに、この寒さで血も凍り付いている。
「ひなちゃん」
もう一度呼んだが、なにもかもが遅すぎた。
氷華は陽葵の目を閉じさせると、立ち上がって天井を見た。上からドタドタと音がする。すぐさまとって返して階段を探す。階段は凍り付いていて、雪と風が腐居着けてくる。
凍り付いた階段の上から、声が聞こえてくる。男の声だ。
「な、何故だ! どうして! あのとき、お前の言う通りにしただろうが! もう俺たちには関係無いだろう!? 約束はもう果たされた! それなのに――それなのにどうしていまさら! どうしていまさら、俺の家族を!」
鬼はにんまりと笑った。
「あっ、あ、あああ……!」
悲鳴にもならない声が響くなか、鬼の口があんぐりと開いた。肉がひしゃげ、骨が口の中でへし折れる籠もった音が響く。
階段を登り切り、氷華が急いで扉の前に立つと、鬼の背中だけが見えていた。二メートルを越すような巨体が、背を向けて何かにむしゃぶりついていた。肉と骨を砕く咀嚼音が響いている。あまりの光景に毛が逆立つ。
「どうして」
およそ自分の口から出るとは思えない言葉だった。
「どうしてこの人たちを!」
鬼はゆっくりと振り返った。
獣の毛を連想させるような太い剛毛が頭を覆い尽くしていた。頭の隙間からは三本の氷柱のような角がそれぞれ別の位置から生えている。口元は真っ赤な血にまみれていて、まるで獲物を食らった獣そのものだ。上半身は簑を思わせる剛毛に覆われており、その間から巨大な黒い手が覗いている。両手で、人間だったものを持っている。頭はなく、首元からはだらだらと血が流れ、衣服が赤く染まっていた。両足がだらりと垂れ下がる姿は、およそ現実感が無い。
鬼は白い髪をした氷華に気付いたものの、にんまりと笑った。
「……復讐……、七年前の……」
「……なんですって?」
鬼は食いちぎった男の下半身をあっさりと捨てさると、窓際にあったテーブルに足をかけた。後ろの窓をぶち破って飛び出していく。
「待ちなさい!」
氷華はその後を追おうとしたが、吹き付けた大きな突風で顔を逸らさねばならなかった。
――これは……!
ただの風ではなかった。目くらましだ。笑い声が風の渦の中から響いてくる。その声は滲んだように風と重なって、遠くなっていく。やがて轟々という音しか聞こえなくなった。
氷華は惨劇の行われた部屋の中で立ちすくむしかなかった。
目線を下に落とす。
雪と氷に覆われた部屋の中で、その死体は頭をなくしたまま凍り付いていた。頭を喰われた状態では、もはや誰だったのかも判別がつかないが、おそらく橘陽葵の父親だろうと推測できた。
――……。
陽葵の。
そう思った途端に、現実感が失われていった。これは悪い夢か。夢であれば、どれほど良かったか。どれほどこの場でそうしていたのかわからない。踵を返そうとした途端に、すぐ後ろに気配があることに気付いた。しまった。やってくる音すら聞こえなかった。
「……これは、お前の仕業か?」
聞いたことのある声だった。独特のイントネーション。
――この声。
見つかってしまった以上、確かめなければならなかった。でも、振り返りたくなかった。
「……これは、お前の仕業かって聞いとるんやけど」
その手元には一枚の護符があり、燃えていた。
あまりに清浄な焔だった。
駐車場に残されていたものとは比べものにならない。力を抑えているのか、それとも家の中だから制限しているのか――それでも、その焔があまりに清浄な気を放っているのがわかる。雪と氷の中にいるというのに、焼け死んでしまいそうだ。
でも、それよりも。
顔を見ないように、少しだけ振り返る。
赤い装飾の、黒い狩衣のような着物。きっとその上には少しボサついた髪と、その下から覗く三白眼があるのだと知っている。視線を上へと向けていく。
――日向夏樹……。
全身の毛が逆立った。
心臓が口から出そうなほどに高鳴っていた。