第9話 第二の襲撃
その日、陽葵は生徒会室に向かった氷華と別れ、玄関口へと向かうところだった。自分のクラスの下駄箱に向かうと、ちょうど夏樹が自分のシューズボックスを開けているところだった。
「お、橘。いま帰りか」
「うん。夏樹君もいま帰り?」
陽葵は自分の番号のシューズボックスを開ける。
「おう。オレはちょっと調べ物やけどな。お前、氷華と一緒におったんやなかったんか?」
「氷華ちゃんは生徒会室に寄ってくって」
「忙しそうやな。ぜひとも氷華と一緒に帰りたかったとこやけど」
「ホントめげないよね……」
靴を履き替えながら、呆れた顔をする。
「あははは。……てか、あんな事件があったらな。女子がいつまでも一人で残ってるのはあんまり良くないやろ」
「それはそうだね」
積極的に話題にあげることはしないが、ショックは大きいだろう。二人は外に向かってなんとなく一緒に歩き出す。
「実はさ。久保田先生、うちのお父さんの知り合いだったんだよね」
「……それ、氷華に言うたか?」
「ううん、言ってないよ。どうして?」
「一緒に注意喚起作るのやっとったから、なんとなく。親父さんたちは幼馴染みとか、そういうやつか?」
「確か大学の登山部から一緒だったって言ってたかなあ。毎年登山に行くくらいだったんだよ。でも、七年くらい前に事故に遭って、そこで一人亡くなってからは、さっぱり」
「……へえ」
なんともいいようのない、抑揚の無い声に聞こえた。陽葵が思わず見上げる。
「そりゃあ、余計に残念やったな」
いつもの夏樹だった。正門近くまで来ると、不意に立ち止まる。陽葵も立ち止まった。
「オレ、バイクで来たから」
自転車置き場に向かって親指を向ける。
奥の方にはいつも何台か生徒のバイクが置いてあって、そのうちの一台が夏樹のものだ。
「夏樹君、バイクだったね。てかバイク通学許可されてるのって二年からでしょ」
「意外と気付かれへんもんやから」
夏樹はにやっと笑って自転車置き場に向かって踵を返したあと、もう一度振り返った。
「ああ、せや。久保田先生とお前の親父さんが知り合いだったこと。氷華に言っといた方がええかもしれんぞ」
「え、どうして?」
「なんとなく。それじゃ、お前も気ィつけぇよ」
「うん。じゃあね。また明日」
片手を振って自転車置き場に向かう夏樹と別れ、学校から続く道を歩く。もうすっかり夕暮れが迫り、落ちかけた太陽は眩しい。
あんなことがあったのに、街はいつも通りだ。もっと警察の見回りが増えたりするのかと思ったが、そんなこともない。例え人ひとりが死んでも毎日は続いていく。マスコミも最初のうちはうるさかったが、いまはすっかり別の話題でもちきりだ。教師陣が追い払ってくれたおかげだろう。それでなくても、変な記者に捕まる前に早めに帰った方がいい。
陽葵は足早に学校から離れながら、帰路につく。
――そういえば、なんで氷華ちゃんに言った方がいいんだろ。
詳しいことは聞けなかった。もしかして注意喚起に役に立つと思ったのか――さすがに当事者とまでは言わなかったが、似たようなものだと思われたのかもしれない。それにしたって。氷華に言うかどうか迷ったものの、それ以上のことに気付いた。
――あれっ。そういや私、氷華ちゃんの番号、知らない!
メールアドレスも、やっているSNSも知らない。電話番号も知らなかった。そういうクラスメイトだっているにはいるが、聞いたことがない。
――……まあいっか、明日聞けば。
時間ならいつでもあるだろう。それよりも、いまは帰路につくことを選んだ。
「ただいまー」
陽葵は家にたどり着くと、玄関先で声をあげた。
おかえり、と奥から母の声が返ってくる。
家は北側にあるが、自分がそれほど裕福だと思ったことはない。むしろ家は古いだけで、高級住宅街とはほど遠い。母いわく「位置だけは北だけどほとんど南のような場所」らしいのでそういうことなんだろう。端っこといえば端っこだ。
手洗いを済ませてダイニングへと向かう。母がちょうど夕飯の準備をしているところだった。
「今日の夕飯、なに? 肉じゃが?」
「ええ。お父さんももう帰ってきてるから、お夕飯だって呼んできて」
「わかった」
荷物を持って行こうとして、母が思い出したように振り返った。
「そうだ陽葵、久保田先生のお別れ会みたいなのって聞いた?」
「ううん。やっぱりやらないみたい。学校の集会のときに黙祷はしたけど、それで終わりみたい。もしかすると、久保田先生のクラスの子たちが代表で家に行くかも、みたいな話は聞いたけど」
「あらぁ。それじゃやっぱり家族葬だけなのね」
母は首を傾げた。
「時代かしらねぇ。でも、あんな事があった後だもの」
「たぶんそうだと思う」
久保田のことはその事件性もあって、通夜も葬儀も後回しだった。実際にあったかどうかすら定かではない。クラスの代表が行くという話も、葬儀があれば――ということで、生徒達には家族葬で済ませたと言われただけだ。だからどうなっているのかはわからなかった。
荷物を持って二階へ行こうとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。ちょうど近くにいた陽葵がインターホンの受話器を取る。
「はい」
受話器の向こうから、くぐもった声が聞こえた。
『……、です……』
「え、もしもし? もう一回お願いします」
『……クマガイ、です……。橘光博さんは……ご在宅ですか……』
「父ですか? ……ちょっとお待ちください」
雨でも降ってきたのか、轟々という音が後ろでしている。まるで吹雪の中にでもいるみたいだった。だが名前に聞き覚えもあった。陽葵は受話器を置く。
「お母さん。なんか、お父さんの知り合いで熊谷って人が来てるらしいんだけど」
「ええっ? 女の人?」
「ううん。声はたぶん、男の人だったけど」
「ええ……本当に熊谷さんって言ったのね? 困ったわね、ちょっと出てくるわ。陽葵はお父さん呼んできて」
「わかった」
とはいえ興味はあった。陽葵は熊谷という名前にも聞き覚えがあった。確か昔の知り合いにいたはずだ。あまり話題に出されることはなかったはずだが、むしろ話題に出してはいけないという空気があった。その熊谷が直接尋ねてきたというのだ。
こっそりと玄関の方を気にしながら、階段に足を掛ける。こっそりと耳を傾ける。玄関の扉が開く音がした。表の音が入ってくる。
「ええと、あなたは……!?」
ドンッ、という凄まじい音がした。何か大きな荷物を落としたような音だ。
「お母さん? 大丈夫?」
階段を降りて、玄関の方に視線を向ける。途端に、轟々という音が耳を突き抜けていった。妙に冷たい風が吹き付けている。顔に雪が当たっている。
――なんなの?
腕で顔を覆う。母らしきものが、下駄箱に寄りかかって倒れていた。
「お母さん……?」
玄関が凍り付いている。
「お母さん!?」
母に駆け寄る。肩を揺さぶろうとして、ぐりんと頭が傾いた。そのままずるずると下駄箱に寄りかかったまま、床に崩れ落ちる。髪の毛はべったりと血で汚れ、隙間から覗いた顔には引き裂かれたような傷がついていた。喉には穴が開いていて、そこからとめどなく出てくる血が衣服を赤く染めていく。
顔から血の気が引いていき、どくどくと心臓の音が高鳴る。一瞬にしてパニック状態に陥り、何も考えられなくなった。妙に寒い。天井からは氷柱が垂れ下がり、その向こうから、吹雪と一緒に巨大な影が落ちてきた。ぬっと何かが入ってくる。簑のような剛毛に覆われた、人型の何かだった。その頭らしき場所からは氷柱のような角が三つ、突き出している。
何か言わないとダメだ。脳内で警告音が鳴り響く。だがその警告はほとんど役に立たない。どうにかして足を動かす。固まったように床を少し滑っただけだった。
「あ……ひゅ……」
ぱくぱくと口が動く。それでもなんとか声を絞り出す。
「お……お父さん! お父さんっ、お母さんがぁっ!!」
助けを呼ぶ声に、後ろから影が迫った。