第5話 第一の殺人
職員室でひと仕事を終えた久保田昌義は、肩を回して一息ついた。
時間を見ると、七時を過ぎたところだった。職員室にはまだ残っている教師達がいて、自分達の仕事に没頭している。もうすぐ期末試験だ。そろそろ試験内容も考えなくてはいけない。特に三年生の受け持ちの教師陣は、今後を決める重要な時期が近いせいか、ピリピリしている。
それを考えると、一年担当の今年はまだ楽なほうだ、と苦笑する。
先に帰ろうかと思ったところで、同僚の男が声をかけてきた。
「お疲れ様です、久保田先生。すみませんが、一つだけ確認いいですか?」
「なんだ?」
「生徒会から掲示物の申請が来てたんですよ。不審者情報の注意喚起だそうです」
「わかった」と久保田は答えて、渡されたポスターに目を通す。
内容は同僚がいま言ったとおりだった。上からざっと見ても、内容に問題は無く、すぐにポスターを返す。
「ふうん。いいんじゃないか。最近はこういうのも作るようになったんだな」
「一年生なのによくやってくれますよねぇ」
同僚はにこにこと笑っていた。
この学園の生徒会は、一学期は生徒会長だけ三年生、二学期以降は全員が二年生というようになっているが、一年生で選出されるのは珍しい。一瞬、久保田はどうしてそうなったのか記憶を思い出そうとして――たぶん、神宮寺の名声のせいだろうと自分を納得させた。
「そうだなあ。私も名前もよく知っているよ」
「久保田先生も賛成派ですか?」
「賛成も反対もないだろうよ、こんなの。自分達で考えて行動するのがこの学園のコンセプトなんだから、やってみて間違ってたらこっちが正してやればいいんだ」
「じゃあ、中立派ですね」
「ほとんどそうだろうよ。騒いでるのなんて、一部だけさ」
そもそもが一年生が生徒会長をやることに対して、二、三人の教師が意を唱えていたのだった。だがその反対派も苦言を呈しているだけで、何かしようという気はないらしい。
「それじゃあ、私はそろそろお暇するよ。このままだと腰がやられそうだ。帰りも歩きだし」
椅子から立ち上がると、ほんの僅かだが腰のあたりに重みを感じた。軽く体を動かす。
「あれっ、久保田先生って、歩きで来てましたっけ?」
「さいきん運動不足なものでね。家も近いし、荷物がある時以外は歩くことにしたんだ」
「へえ! 凄いですね」
「若い頃は毎年、山に登ってたんだがなあ……」
「いいじゃないですか、登山。それともハイキングですか?」
「いや、六、七年ほど前に雪山で遭難事故に遭ってな。それ以来、どうにもな」
「そうでしたか……」
失言だったかと口を噤む同僚に、久保田は少しだけ苦笑した。
「まあでも、またいつかは登りたいからなあ。車は最近は、もっぱら息子が借りて乗ってるよ」
「息子さん、大学生でしたっけ」
「そうそう。いつまでも言う事聞かなくて、困るよ」
久保田はにやりと笑って、それじゃあお先に、とコートと荷物を持って手を振った。
学校を出ると、外はすっかり暗かった。冷たい風が吹き付けてくる。ついこの間まで酷暑がどうの、夏日がどうのと言って、自宅のある住宅街まで汗だくで帰っていたのに、家に帰る頃にはちょうどよく温かくなっている。ここ二、三日で急に寒くなり、今日はむしろ冷えるくらいだ。そろそろコートも必要かもしれない。
久保田の家は昔ながらの住宅街にある古い家だ。このあたりは駅の北と南とで雰囲気がずいぶん違った。北側は湊斗学園を中心にした高級住宅街や高台の緑地公園が存在するが、南側は年季の入った住宅やアパートが立ち並ぶ古くさい区画だ。良く言えば昔ながらの景色が残っている。駅を通り過ぎ、南の区画へと入ると、見慣れた商店街が顔を覗かせた。
実家から近い学校に教師として入れたのは僥倖だった。それにこのあたりの人々とも顔なじみだし、うまくやっていると思う。
「ただいまぁ」
古い一軒家に帰りつくと、妻の美咲が奥から顔を出した。
「お帰りなさい」
パタパタとスリッパを鳴らして玄関までやってくる。
「今日はどうだった?」
彼女は夫の荷物を受けとって、廊下を引き返した。自分の親か、祖父母の世代がやっていたような仕草だ。古い家だと住人も古くさくなるのだろうか、と久保田はときどき思う。しかし美咲のこの態度も嫌いではない。多様性の時代なのだからどんな人間がいたっていいはずだ。一人息子の直也はあまりいい顔をしなかったが、最近ではこういう夫婦もいると受け止めてきている。これが自分たちの幸せの形なのだと思っていた。
「三年生は受験シーズンだから大変そうだよ。去年は僕もやったからわかるけど」
久保田が言うと、あらもうそんな時期なの、と美咲が答えた。
「直也が受験生だったときも大変だったけど、先生たちも大変よねえ」
「まったくだよ」
美咲は荷物を置いてくると、キッチンに入っていった。だが、不意に思い出したように居間に戻ってくる。
「そうだ、あなた。熊谷さんの奥さんから手紙が届いてるわよ」
郵便物を入れているボックスから、封のされた手紙を見せてくる。
「熊谷……?」
久保田は言われてからギョッとしたように思い出した。
恐る恐るというように、妻から差し出された手紙を受け取る。
裏を見ると、熊谷、という苗字が飛び込んできた。ぎくりとする。あれから七年が経っているのだ。忘れもしない、いや、忘れようとしていたあの忌まわしい出来事から……。
美咲は夫の気も知らずに喋り続けていた。熊谷さんってあの人でしょう、七年前の事故のときの、帰ってこなかった一人。やっぱりそうだ。あのときは本当に気が気じゃなかったわよ。無事に帰ってきたと思ったのに、事故に巻き込まれてただなんて。本当にびっくりしたわよ。あなたとも大学生の頃からの知り合いだったっていうんでしょう。それがあんなことになっちゃって。まだご遺体が見つかってなかったのね、可哀想に――。
「荷物が残されていただけ良かったけど、やっぱりご遺体が無いとねぇ」
美咲はため息をついた。
「あなたも、よく戻ってきてくれたわ。本当に……」
「美咲……」
久保田は妻への気遣いと、ほんの少しの罪悪感の間で揺れ動いた。これまでだって何度、本当のことを言いそうになったことか。けれども、いったいどこまで信用されるのだろう。
「そういえばね、直也が変なこと言うのよ。あの子も大学で登山部に入ってるでしょ。今度の登山で、あの山に行って、熊谷さんの捜索に……」
「ダメだ!」
久保田は叫ぶように言ってから、はっとして我に返った。
美咲はびっくりしたように目を丸くしている。
「い、いや……違うんだ。直也には同じような事になってほしくなくて……」
何を言ってもきっと言い訳になってしまう。久保田は動揺を隠すように、ネクタイに手をやった。首元を緩め、目線を逸らす。
そして手紙を手にして、ようやく美咲に視線を戻した。
「ちょっと、……部屋に置いてくるよ」
「……ええ。お夕飯、冷めないうちに来てね」
「ああ」
久保田はどこかぼんやりとしながら、自室へと引っ込んだ。
美咲には悪いことをしたと思う。
意を決して、手紙を開封した。中からは白い便せんが出てきた。恐る恐る広げると、落ち着いた字で文章が書かれていた。あの事故から七年が経つこと。元気にしているかということ。恨んでいるわけではない、ということ――。遺体はいまだに見つかっていないが、もし良ければ、七年という歳月の区切りとして、一度家に線香をあげに来てもらえないか――。そういう実質的な「お願い」だった。
――区切りにしては妙な年だな。
五年や十年だったらまだわかる。だが七年とは微妙な年だ。それでももうそんなに経ってしまったのかとため息をつきたくなる。三十歳を過ぎた頃から一日が経つのが早いと思い始めてはいたが、七年前のあの出来事だけはどれほど忘れようと脳にこびりついている。
久保田は便せんを中に戻して手紙を机に置くと、視線を彷徨わせた。思い直して、隠すように勢いよく机の中へとしまいこむ。
かつてこの部屋の隅に置かれていた登山用具は、押し入れのなかへ仕舞いっぱなしになっている。たった七年。だが、まだ七年だ。記憶を封じるようにしまいこんだ押し入れから、視線さえ感じる気がする。美咲や直也は、それを事故の悲しみから逃れるためだと理解している。
だが本当は違う。
――見つかるはずない。熊谷が見つかるはずはない!
何故なら、熊谷は。
あの悪夢のような遭難。
七年も経っているというのに、いまでも夢であったと自分に言い聞かせないといけなかった。
――あのとき、熊谷が反対しなければ……。
だから、悪いのは熊谷だったのだ。あそこで反対しなければ良かった。自分達は明日も出勤しなければならなかったのだ。それを熊谷のくせに、反対なんてするから。
熊谷は最後まで反対していた。だからあんなところで足を滑らせる羽目になったのだ。自分達だって、慌てて三人で熊谷のところまで行ってやったじゃないか。熊谷は一見すると普通に見えたが、変な方向に足を骨折したらしかった。通報しようという気にはならなかった。そんなはずかしいことはできるはずがない。学生時代から続けてきた趣味だったのに。かといって、動けない状態の人間を背負っていくこともできない。どんどん雪は酷くなる。怪我人を前に寒さと絶望でどうすることもできない状態のまま、全員が黙った。
だが――そんなときに、あいつが現れた。
「助けてほしいかあ?」
その声は、嘲笑うように、地獄の底から響いてくるようだった。
雪で見えなくなった白い視界の向こうで、巨大な体躯が見えた。
そこまで来ると、久保田はいつも自分の記憶を強制的に思い出さないようにしていた。あんな恐ろしいものが現実だったと思いたくなかった。
首を振り、現実に戻ってくる。
ドアの向こうからは、美咲が直也を呼ぶ声がしていた。お夕飯だって言ったじゃないの、と声がしている。いつもの現実だ。いつまでも過去に縛られていても仕方が無い。
――熊谷の奥さんには悪いが……。
カーテンを閉めようとして、雪が降っているのに気付いた。いつから降り出したのか、窓の外を見ると雪の影がちらちらと映っていた。まだそれほど寒くもないのに珍しい。あの日を思い出すようで気分が悪かった。
そして、勢いよくカーテンを閉めようとしたまさにそのときだった。
家の外に影が落ちた。
巨大な、角のある影が。