水死体とクラッカー
何時からか、食べ物の味がしなくなった。
何を食べても、灰色で。何も食べたくなくなった。
それでも腹は減るから、なぜか家にあるクラッカーを腹に詰め込んだ。
甘いはずのそれも、やっぱり味はしなかった。
学校の給食でも、それは同じで。
でも、牛乳しか飲まない僕にも、先生は何も言わなかった。
ただでさえ、なかった体重は、みるみる減った。
制服のベルトは、穴が足らなくなって、新しいのを買った。
両親は、そんな僕を、見ているだけだった。
学校に行って、堤防で音楽を聴いて。
家に帰って、また学校に行って。
灰色だった。
堤防の向こう。なぜか避けていた船着き場には、真新しい花束が備えてあった。
「ごはん、食べなかったら、しねるかな。」
呟いてみても、誰も返事はしない。
家に帰った。またクラッカーを食べて、シャワーを浴びて。寝た。
寝るのが好きだ。何も考えなくていいから。もう目覚めたくなくなるくらい。
「手首とか、切っちゃだめだよ」
誰かに、言われた気がした。夢の中で。
痛いのは嫌い。だから、血も嫌い。
前に一度、興味本位で切った手首から、血が流れたとたん、どくんと世界が回って。
起きたときは、白い箱の中だった。
ナースコールを鳴らすと、小柄なわかいナースがやってきて、
「今、親御さんを呼んできますね。」
と言って去っていった。
親にどうしてやったのかと聞かれたので、興味本位だと答えたら、
「もうやめなさい。」
と言われた。親らしい返答だなと思った。
痛かったらもうしないと言ったら、
「そう。」
と、憐れむような顔をして言っただけだった。
また僕がキケンコウイをしそうで心配らしく、そのまま箱の中で2日ほどを過ごした。
学校に行くと、僕が腕を切って病院に運ばれたことは噂になってたらしく、
何人かが僕の包帯を見てひそひそしていた。僕には関係ない。自分に言い聞かせる。
「しねばいいのに。」
僕が思った。
学校に行きたくなくなった。
行かないことを親に伝えると、
「そう」
と言っただけだった。
「手首を切らないだけまだましか。」
そう、言ったように聞こえた。
たくさんあったクラッカーは、とうとうこれが最後らしい。
ふとそう思って食べたクラッカーにも、味はなかった。
明日から何を食べようかと考え、蒸し暑い室内が嫌になり、堤防まで歩く。
薄いカーディガン越しの風は涼しくて、夏の匂いが心地よかった。
いつだったか、だれかと夜、こうしてここに来た残像が見えた。気がした。
ふとポケットに手を入れると、カーディガンのポケットに、さわったことのある形の袋があった。
家に帰ると、親が玄関で待っていた。
「辛いことがあったのはわかるが、もう立ち直ってくれ。」
要約してそのようなことを言われた。
「『辛いこと』って何。」
そう聞くと、ずっとすすり泣いていた母親が一層泣くので、僕は不思議だった。
部屋に戻ってポケットから袋を出した。
やっぱり。クラッカーの袋だった。
でも、いつもと一つ、違うことがあった。
クラッカーに、黒のマジックのきれいな字で、
「海へ、楽しかったよ。空より。」
何のことだろう。そう思った時に、フラッシュバックした誰かの声。
ちがう。「空」の声。
どうして忘れていたんだろう。こんなに大切なこと。
過呼吸になり、ドアを背にして座り込む。
胸か、腹かの奥が、きゅっと痛む。
ひきつった顔に、涙が浮かぶ。
「ああああああ、、、!」
声にならない、声が。喉を、鼻腔を、駆け巡って抜けていく。
空は、物心ついた時からの親友だった。
僕とは違って、活発で、元気な空は、僕の太陽だった。
大好きだった。
こんな、ありきたりな言葉では綴れないほど、
僕の、心の神髄と、絡み合って、こびりついて取れないほど。
大好きだったのに、空の苦しみに、怒りに、悲しみに、気づけなかった。
あの日、一年前のあの日、空は、夕暮れ時、僕にあの一言を言って夜、海に飛び込んだ。
止められなかった。大好きだったのに。大切だったのに。
そうだ。僕のいつも食べていたクラッカーは、空の好物で、ことあるごとに、僕にくれたんだ。
だから、あんなにあったんだ。
水死体になった君は、水死体のくせにあまりに綺麗で。
ゆすったら起きそうなほど、綺麗で。
君の手に握られていたクラッカーを、僕は持って帰った。
「どうして、僕がとめなくちゃ、守らなきゃいけなかったのに。」
ドアを背に、小さいころみたく泣きじゃくる僕に、
「ほら!食べないと賞味期限が~!」
そんな能天気な君の声が。聞こえた。間違いなく。
顔をぐしゃぐしゃにして泣きながら食べたクラッカーは、
甘くて、甘くて、しょっぱくて、少し苦い、夏の終わりの味がした。