98 可哀想な子供
|凍刃の二足翼竜《ウィヴェルヌ・フォルジェ・パル・レ・グラシエ》がその大きな翼で羽ばたくと、氷の粒まじりの風が周囲に吹き荒れた。
セティの黒い髪が白い雪の世界の中で風になびく。二足翼竜の風が、氷の礫が、セティめがけて吹き荒ぶ。
「炎の蝶」
セティは炎の翅で自らに飛んでくる氷の礫を溶かし、自分を守った。それでも白いシャツは、剥き出しの膝小僧は、吹雪の中では頼りなく寒そうに見えた。
セティの写しは、セティが二足翼竜の風に気を取られたその瞬間を逃さなかった。雪の上を大きく踏み出して、槍をセティに突きつける。セティは後ろに跳んでそれを逃れた。
積もった雪に足が沈む。セティも写しも、動きにくいのは同じ。それでもお互いに槍を構えあっていた。
二足翼竜がまた、羽ばたく。肌を切り裂くような鋭い氷の粒が風に乗って飛ぶ。そこへ、疾風の大鷲が飛び込んでゆく。
大鷲の背にはリオンがしがみついている。セティを写しとの戦いに集中させるために、大鷲はその姿を二足翼竜の前にさらした。
二足翼竜が生み出す風と大鷲が生み出す風が、空中でぶつかり合う。それは吹雪を余計に強くしたが、それでも二足翼竜の意識は大鷲に向かった。
「すごいや! どっちが先に壊れるかな!」
サンキエムがさっきまでの苛立ちなど忘れたような無邪気な笑顔で、二足翼竜と大鷲のぶつかり合いを見上げる。暗い金の髪は雪まみれで、足首まで雪に埋まっている。それでもサンキエムは、自分のそんな状況など、お構いなしだった。
ソフィーが雪の中を立ち上がる。悲しそうな表情でサンキエムを見ると、鞭閃の舌長蜥蜴を構えた。
「あなたはどうして、本が壊れることを楽しめるの?」
吹雪の中で、ソフィーの声はサンキエムに届いた。サンキエムは振り向いて瞬きをした。その長いまつ毛に、小さな雪の結晶がくっついていた。吹雪はきらきらと、サンキエムを飾っていた。
「どうして? 楽しいことに理由がいるの? それこそどうして? 楽しいから、楽しいんだよ」
「本当に、本が壊れて悲しいとか、切ないとか、ちっとも感じないの?」
ソフィーは舌長蜥蜴の舌を伸ばして、サンキエムを再び捕まえようとする。
「開け、鞭閃の舌長蜥蜴」
サンキエムが新しく本を開く。それはソフィーが開いているのと同じ舌長蜥蜴の姿になった。サンキエムの舌長蜥蜴の舌が、ソフィーの舌長蜥蜴の舌を弾く。
「そりゃあ、お気に入りが壊れたら悲しいよ。もう遊べないんだからさ」
悲しいと口にしながらも、サンキエムは笑顔を崩さない。
ソフィーは諦めずに舌長蜥蜴の舌を伸ばした。サンキエムが動けば、また本が壊れる。これ以上本が壊れるのを、ソフィーはもう見たくなかった。
サンキエムはどうってことないように、舌長蜥蜴の舌を弾く。
「でもどうせみんな写しなんだ。また写しを作れば良いだけだし、悲しむ必要なんてないよ。いくらでも遊べるんだからさ」
にっこりと笑うサンキエムをソフィーは見つめる。ソフィーの瞳にあるのは、今は怒りではなく悲しみだった。
写しなのだから壊れても構わないのだと言うサンキエム。壊れることを楽しいとすら言う。
それはソフィーには理解できないことだった。だから、ソフィーはサンキエムを哀れんだ。サンキエムは壊すことに喜びを見出す悲しい存在なのだと、そう感じた。
「可哀想」
ソフィーの呟きに、サンキエムの表情から笑顔が消える。
ソフィーが伸ばした舌長蜥蜴の舌が、サンキエムの左腕に巻きつく。サンキエムは左腕に力を込めて、ソフィーを睨んだ。
「可哀想? それ僕のこと? 僕が可哀想だって?」
「ええ、あなたは可哀想。わたしにはそう見える。大事にすることもされることも知らない、可哀想な子供」
「傲慢だ!」
サンキエムが舌長蜥蜴の舌を伸ばす。しなやかに伸びた舌はソフィーの頭を狙っていた。
ソフィーは避けられない。左腕をあげて頭を庇う。
お互いの左腕を捕まえた状態で、ソフィーとサンキエムは睨み合った。
「傲慢だよ! 僕はグリモワールだ! 神秘の知識! 人間なんかよりもずっとすごい力を持ってる!
人間は本を使うしかできないくせに! 人間の方がよっぽど可哀想だ! 弱くて! 何もできなくて!」
サンキエムが舌を引っ張る。ソフィーは足に力を入れて、引っ張られないように耐える。同時に、自分が捕まえているサンキエムの左腕も引っ張り続ける。
「いいえ。それでも、知識を使うのは人間。アンブロワーズは人間が使うために本を残したんだもの!」
「それが傲慢だって言うんだ! 自分のものみたいな顔して!
開け、刺撃の蠍!」
睨み合ったまま、サンキエムが新しい本を開く。蠍の姿になった本は、ソフィーが伸ばしている舌長蜥蜴の舌に向かう。その鋭い尾の先で、舌を刺すつもりらしい。
ソフィーは仕方なく舌を解いて、蠍を振り払う。
サンキエムはソフィーの左腕を捉えたままだ。刺撃の蠍は今度はサンキエムの舌長蜥蜴の舌を辿って、ソフィーに迫っていた。




