82 お気に入りの道具袋(ポーチ)
ソフィーの目の前にいるセティは、確かに道具袋を持っていなかった。セティがひとりで買い物に行って、自分で選んで買ってきた道具袋。誇らしげに持っていたものを。
セティはソフィーの指摘に、呆然と自分の腰を見る。
「道具袋……は……」
構えていた槍がだらりと落ちる。片手で何もない腰を触って、道具袋の感触がないことを確かめる。
まるで道具袋がないことに初めて気づいたかのように、セティは呆然としていた。
(このセティは何かおかしい!)
ソフィーは勢い込んで、セティに向かって一歩踏み出す。鞭閃の舌長蜥蜴の舌をいつでも伸ばせるように警戒しながら。
「あなたが自分で買った、お気に入りの道具袋だったでしょ? それをどこに置いてきたの?」
「それ、は……道具袋は……」
セティの手から、槍が落ちる。からんと音を立てた後、槍はぼんやりと光を放って消えた。
その隙に、ソフィーはセティの正面に立つ。セティを見下ろす。
「あなたが選んで買ったお気に入りの道具袋、覚えてないわけがないでしょ?」
「お、覚えてる! 覚えてるに決まってる! だって、それは経験で、経験は知識だから……」
ソフィーはそっと、セティの両肩に手を置いた。セティの顔を覗き込む。セティは怯えた表情で、ソフィーを見上げた。
「中には、あなたが大好きなチョコレートが入っていた。ナッツ入りのチョコレートも、自分で買いにいったもの。それで、わたしたちに分けてくれた、そうでしょ?」
「そうだ。俺が買ってきたんだ。それも俺の経験で知識だ。だから、当然知ってる」
「じゃあ、どうしてあなたは今、チョコレートが入った道具袋を持ってないの?」
ソフィーは目の前のセティに鋭い視線を向ける。もう逃がさないとばかりに、言葉に力を込める。
セティは泣きそうな顔をして、落ち着かなく視線を動かした。ひどく混乱して、取り乱しているようだった。
「それは……道具袋を買ったのは知識だけど、道具袋そのものは知識じゃないから……」
「道具袋は知識じゃない……?」
ソフィーは眉を寄せてセティの言葉を繰り返す。その声に、セティははっとしたように目を見開いて、ソフィーを両手で突き飛ばした。
「うるさいっ!」
ソフィーはよろけて、地面に膝をついてセティを見上げた。セティは頬を赤くしてひどく怒った顔でソフィーを睨んでいた。
「道具袋なんか必要ない! 俺の知識は完璧なんだ!」
セティのその表情はどこか不安そうで、泣きそうにも見えた。
激しく声を荒げるセティとは対照的に、ソフィーは静かに首を振った。ソフィーはすでに、目の前のセティが本物のセティではないと確信していた。少なくとも、ソフィーの知っているセティではない。
「いいえ。セティはよく『最強』とは言うけど、自分の知識が完璧だなんて言わない。だって、セティは知識を得て成長している途中なんだから」
「うるさい! うるさい! うるさい! 俺がセティエム・グリモワールだ!」
セティが手を振り上げる。ソフィーは鞭閃の舌長蜥蜴の舌で、その腕を絡め取った。引っ張られて、セティがバランスを崩す。
その場でたたらを踏んだセティを、立ち上がったソフィーが見下ろす。
「いいえ! あなたはセティじゃない! 本物のセティはどこ!?」
セティではないと言われて、セティの姿をした何者かは悔しげに歯を食いしばってソフィーを睨みあげた。その目に涙が滲む。
ソフィーはその涙に狼狽えることもなく、舌長蜥蜴の舌でセティの手を捕まえていた。
「それでも! 俺の知識は本物だ! 炎の蝶!」
炎の翅が生まれる。小さな炎は次々に生まれて無数の蝶になって周囲に羽ばたく。
「碧水の蛙!」
ソフィーの頭の上で透き通った蛙が跳ねて、ソフィーの周囲を水の壁が覆う。
「写しだからって馬鹿にするな!」
セティは拘束されていない方の手を持ち上げる。その指先に無数の炎の蝶が集まってゆく。
「写し……! セティの写し!?」
その単語で、ソフィーの頭の中の違和感が全て繋がった。
目の前にいるセティそっくりの少年は、写し──セティの知識を写しとった本なのだ。だからセティが知っていることは全て知っている。
けれど、道具袋は知識ではないから、写しとれなかった。だから持っていない。
「つまり、セティの姿で油断を誘って所有者を狙ったのね! グリモワールの仕業なの!?」
セティエム・グリモワール・写しの頭上には、大量の炎の蝶が集まって、一匹の大きな蝶になっていた。ゆらり、と翅の炎が揺れる。
「うるさい! 俺はセティエム・グリモワールだ! もう黙れ!」
写しは泣いていた。泣きながら怒っていた。そして、持ち上げていた手をソフィーに向かって振り下ろす。
その手の動きに合わせて、大きな炎の蝶がソフィーに向かってゆく。
「碧水の蛙!」
ソフィーは水の塊を出して、蝶の行く手を阻んだ。大量の水が水蒸気となって、視界を覆う。炎と水はお互いの熱と冷たさを交換しあって、小さくなってゆく。
その隙に、写しは舌長蜥蜴の舌を振り解いた。そして、ソフィーに背を向けて走り出す。
「待ちなさい!」
「開け、破壊顎の大百足!」
写しはソフィーに向かって本を投げつけた。その題名に聞き覚えがあって、ソフィーは慌ててあとずさる。
投げられた本はぼんやりと光ったかと思うと、みるみる大きくなる。そして、今リオンが立ち向かっているのと同じ、大ムカデの姿になった。
その向こうで、写しは外の光が見える方に走り去ってゆく。
(追いかけないと……でも!)
ソフィーは目の前の大ムカデを見上げ、それから背後をちらりと振り返る。
そこではリオンが、もう一匹の大ムカデを相手に戦っている。
(リオンを置いてはいけない……)
一匹だけでも苦戦しているというのに、二匹もリオンひとりに任せて自分だけ写しを追いかける判断は、ソフィーにはできなかった。
ソフィーは唇を噛んで大ムカデを見上げた。ムカデの顎が、ぎちぎちと鳴る。




