8 光の蝶(ラディアント・バタフライ)
クロワッサンを食べ終えて、セティはマグカップに残った牛乳をちびちびと飲みながら、ソフィーの様子を上目遣いに見ていた。
窓の外は夕方を通り過ぎていた。ぽつぽつと灯る明かりが見える。ソフィーは立ち上がって明かりと点けると、夜のひんやりとした風が吹き込んでくる窓を閉めた。そのまま空になった皿を片付けて、また座る。
今度はテーブルに頬杖をついて、紡ぎ手の蜘蛛がテーブルの上をちょこまかと動いて、傷ついた本に糸を絡める様子を鳶色の瞳で眺めていた。
時折人差し指で糸に包まれた本をつついて、何か思い出したようにふふっと笑う。
「楽しいのか?」
セティの問いかけに、ソフィーは視線を向けた。その表情は、食後にふさわしく穏やかだった。
「楽しい、というのとはちょっと違うのかも。でも、こうやって本を修復する時間は好きだよ」
「時間がかかるんだな」
「そうだね。
ねえ、もしあなたが紡ぎ手の蜘蛛を食べたら、もっとすぐに修復できたりする? あるいは……もっと深い傷を修復できるようになる、とか」
セティはマグカップを抱えたまま、眉を寄せてテーブルの上の蜘蛛をじっと見た。
しばらくしてから、ゆっくりと首を振る。
「時間は……食べてみないとわからないけど。
でも深い傷は、多分無理だ。こいつが持ってるのは表面的な傷を閉じる知識だと思うから。もしそうなら、知識まで傷ついていると、もうどうにもならない。
俺ができるのは、本が持ってる知識を応用することで……だからあとはこの糸の使い道をどうにかするとかなら」
「なんでもできるってわけじゃないのね」
残念そうにソフィーは溜息をついた。セティはむっとした顔をする。
「もともとその本の中に書かれてないことはできないんだ」
「ああ、ごめん。馬鹿にしたとかじゃないの。なんでもそううまくはいかないものだな、と思って」
ソフィーは苦笑して、自分のマグカップを持ち上げると、少しだけ残っていた中身を一気に飲み干した。
セティは何を言われたかわからない、というように首を傾ける。
とん、とマグカップをテーブルに置いて、ソフィーは不意に真面目な顔をした。
「わたしはね、本を修復する知識が欲しいんだ。紡ぎ手の蜘蛛よりももっと、深い傷でも修復できるような、そんな知識。
それこそ、完全に壊れてしまった本でも直してしまえるような」
「本を修復……どうしてだ?」
「修復したい思い出の本があるから、かな」
セティは言われたことがよくわからない、というように瞬きをした。
「思い出?」
「んー……」
ソフィーは、自分の濃い茶色の髪に指を絡めて、少しの間考え込む表情になった。それは、どこか遠くを見るような、何かを思い出すような表情でもあった。
「わたしの父親も探索者で、書架に潜ってたの。それでわたしは小さい頃から、書架街で暮らしてた。本も身近にあった。
それであるときね、父さんが本をくれたの。わたしはそれで初めて所有者になって、初めて本を開いた。
綺麗な光の蝶だった。
でも、その本は壊れかけで……父さんも、だからわたしにくれたんだよね、きっと。その一回きりで壊れて、開かなくなってしまった」
「ソフィーは」
セティは、マグカップを抱えたまま、ソフィーを見ていた。不思議そうに、首を傾けている。
「ソフィーは、その本を修復したいのか? その本は、そんなにすごい本だったのか?」
ソフィーは苦笑して首を振った。柔らかくウェーブした茶色の髪が、ふわりと広がる。
「全然。ただ、ぼんやりと明るく光るだけ。でも、とても綺麗だったの。わたしはその光をもう一度、見たいだけ」
「光るだけ。だったら炎の蝶でも構わないじゃないか」
「そうだね、炎の蝶はわたしも気に入ってる。でもそれって考えたらさ、光の蝶を思い出すからなんだよね。同じ蝶だから似てるってのもあるし。
そのくらい光の蝶は、特別なんだ、わたしにとってはね。だから、思い出なの」
セティは唇を尖らせた。
ソフィーが話す「思い出」も「特別」も、セティには何もわからなかった。ただなんとなく、ソフィーがそうやって他の本の話をしているのは、気に入らないと思った。
「よくわからない。特別って言うなら俺の方がよっぽど特別だ」
「そうだね、セティは特別だ。光の蝶はそういう意味じゃ、特別なところなんか何もない本だよ」
「だったら」
「それでも、わたしが初めて所有者になって、自分で開いた本なんだ。その思い出があるから、特別なの。他の誰かにとってはどうってことない本だけど、わたしにとっては特別な、大事な本」
ソフィーの表情は柔らかく、優しそうに微笑んでいた。その瞳は、壊れてしまったという光の蝶を見ているのだろう。セティではなくどこか遠くを眺めるようだった。
セティはその優しげな表情を見るのが、なんだか嫌だと思った。自分でもどうしてかはわからない。胸の奥がざわざわする。
ソフィーはセティのことを「特別」だと言いながら、その壊れてしまったどうってことない本のことを、もっと「特別」だと思っている。それが悔しい。
セティは唇を曲げて、うつむいた。
「俺の方がすごいのに。俺は特別なのに」
納得いかないという顔で呟いて、でもそれをまっすぐにソフィーにぶつけることはできなかった。その理由も、セティは自分ではわからなかった。
ソフィーはその拗ねたような小さな声を聞いて、何度か瞬きをして、それからテーブルに置いた腕に顎をつけて、セティの顔を覗き込んだ。
「あなたがすごくて特別なのは、その通りだと思うよ、セティ」
セティは顔をあげてソフィーを見る。拗ねたような表情で。
「本当か?」
ソフィーは優しく微笑んでいた。
「こんなことで嘘は言わないよ。
本当に、わたしが今まで所有者になった本の中で飛び抜けて一番、すごくて特別。あなたみたいな本、見たことないもの」
ソフィーの言葉に、セティは顎をあげて胸を張った。
「そうだ。俺は特別で、すごいんだ」
当然だと言わんばかりのその言葉はいつものように偉そうに響く。けれどその表情は、ちょっとくすぐったそうに笑っていた。
ソフィーは思い出を眺めるのと同じように、柔らかな眼差しでセティを見つめていた。