75 鳴き声を追いかけて
りりりり、りりりり、と虫の音が響く。その度に目を凝らすが、ざわりと揺れる草むらの影しか見えない。
斥候の蝙蝠でも本の本体を見つけることはできないようで、音が聞こえる辺りをぐるぐると飛び回っているだけだった。
そしてしばらくすると、また別の方向から、りりりり、と鳴き声がするのだ。
「攻撃的な本じゃないから楽かと思ったけど」
ソフィーは小さく息を吐いて頭を振った。リオンが肩をすくめてそれに応じる。
「このままじゃ、俺らはここに閉じ込められたまんまだな」
「なあ、最後の手段、やっても良いんだぞ」
セティは待つことにすっかり飽きていた。唇を尖らせてソフィーとリオンを順番に見上げる。
ソフィーは少し考えてから、セティを見下ろした。
「まだ試せることがあるから。もうちょっとだけ待っててくれる? それでも駄目なら、セティにお願いするから」
「……わかった。待っててやる」
渋々といった表情で、セティは頷いた。
ソフィーは道具袋から一冊の本を取り出す。
「開け、星灯の蛍」
ソフィーの手のひらの本がぼんやりと光り、輪郭が曖昧になる。その光はふわりと飛び上がって、ソフィーの目の前で小さな虫の姿になった。
虫になっても光はやまず、飛び回る動きにあわせてゆらりと輝いていた。
「新しい本か?」
リオンの言葉に、ソフィーは頷く。
「そ。オリヴィアのところで買ったの」
「こいつは何ができるんだ?」
リオンは目を細めて、飛び回る蛍を眺める。
「光るだけ。灯り用に買ったものだからね。
でも、相手が虫なら、もしかして光に引き寄せられるか、逃げようとするか、するかもしれないでしょ? それで動きがあれば斥候の蝙蝠で見つけられるだろうし」
「なるほどな」
リオンは頷いたが、セティは機嫌悪そうに唇を尖らせて星灯の蛍を見上げていた。
「灯りなら俺だってできるのに」
セティの声に、ソフィーは苦笑する。その表情に、セティは気まずそうに視線をそらして口を開いた。
「わかってるよ。オンゾン、しててやる。俺は大事な切り札だからな」
「そうね。もうちょっとだけ、待ってて」
そしてまた、りりりり、と虫が鳴き始めた。
ソフィーは星灯の蛍を、リオンは斥候の蝙蝠を、鳴き声の聞こえてくる方に向かわせる。
光を灯しながら、蛍がついと草むらのすぐ上を飛び回る。蛍の光に照らされても、草は影を濃くするばかりだった。
風が吹いてざわりと揺れる。その揺れに不自然さはなく、他の何かが動くような気配もない。
「よっぽど小さいのか?」
「あるいは、姿が見えない……ううん、それでも草の動きでわかりそうなものだけど」
リオンとソフィーは夜の静けさの中、囁くような声で意見を言い合う。りりりり、と鳴く声は確かにまだしていた。だというのに、どうしてもその姿を見つけることができない。
「セティの言う通り、焼き払うのが早いかもな」
諦めたようにリオンが呟いた、そのとき、不意に斥候の蝙蝠が不思議な動きをした。
鳴き声がする方ではなく、違う方に向かって飛んでゆく。リオンは訝しげに眉を寄せた。
「……どうした?」
「あ」
蝙蝠が飛んでゆく先に目を向けたセティが、小さく声をあげる。視線の先を指差す。
「あそこ! 跳ねた! 何かいる!」
「え、でも……」
ソフィーは戸惑って、蝙蝠が向かう先と蛍が飛んでる辺りで視線を動かす。りりりり、という鳴き声はまだ、蛍が飛んでいる方から聞こえている。
それでも斥候の蝙蝠は、確かにセティが指差した方へ向かっていた。
りり……と鳴き声が途切れた。ざわりと風が吹いて、草のざわめきだけが響く。
そして今度は反対側から、りりりり、と鳴き声が響いた。ソフィーはちらと鳴き声のする方へ視線を走らせる。月明かりに照らされた草むらでしかない。
小さく首を振ってから、ソフィーは斥候の蝙蝠が向かう先、セティが指差す先を見つめた。
「今まで、鳴き声に惑わされていたのかも。本体はきっと、別にいるんだわ」
覚悟を決めて、ソフィーは星灯の蛍に斥候の蝙蝠の後を追わせた。
柔らかな灯りが、草むらを照らしながら動いてゆく。その先で、ぴん、と草が不自然な動きをした。そして、月と蛍の光に照らし出されて、小さな影が宙に跳ねた。
「あれだ!」
リオンは斥候の蝙蝠でその小さな跳ねる影を追った。蝙蝠の動きを、影は跳ねてかわした。その姿が、蛍の灯りの中に飛び出してくる。
ソフィーは駆け出した。
ちょうど、蝙蝠と挟み撃ちする形になった。跳ねる影に手を伸ばして、ソフィーはそれを潰さないように、優しく両手で閉じ込める。
ソフィーの手のひらに、ぴん、と跳ねる感触があった。
「我が呼び声に応えよ。我ソフィーは汝の所有者なり」
手のひらの中から、ぼんやりとした光が漏れる。
ソフィーは確かに本の所有者になることができた。その本の題名は──音迷の跳鳴虫。
「閉じろ」
ソフィーの命令にしたがって、手のひらの中で暴れていた音迷の跳鳴虫は、ぼんやりと光って一冊の本に姿を変えた。
途端、周囲の草原も姿を消す。ソフィーたちは、がらんとした何もない石壁の部屋の中にいた。そこは、夜の景色よりも静かに感じられた。
「音で惑わせて、侵入者を閉じ込める本だったみたい」
ソフィーが手に入れたばかりの本を道具袋にしまいながら言う。
「音に気を取られ続けてたら俺たちも抜け出せなかった、か。セティ、よく気づいたな」
「そうね、セティが気づいたおかげ。ありがとう」
急に褒められて、セティは落ち着かないように視線をうろうろさせた。
何もすることがなくて退屈していた気持ちはもう、吹き飛んでしまった。気恥ずかしくて、嬉しくて、頬が勝手に緩んでしまう。それもまた恥ずかしい気持ちになった。
それでできるだけ、なんでもないような顔で、いつも通りに顎をぐいと持ち上げて胸を張った。
「ふん、このくらい、どうってことない。俺は最強の本だからな。役に立って当たり前だ」
それでもセティの表情は少しにやけてしまっていたから、その強がりは、ソフィーにもリオンにも伝わってしまっていたのだけれど。




