72 誰かの指輪
オリヴィアが持つ指輪を、セティはじっと見つめている。オリヴィアはセティを見下ろして、柔らかく微笑んだ。
「じゃあ、どうぞ。何かわかるかな?」
セティが差し出した手のひらに、オリヴィアは指輪を乗せた。セティはそれをじっと見る。シンプルなシルバーの指輪。
小さく「違う」と呟いたけれど、それでもまだじっと見ていた。
セティの様子があまりに真剣だったから、ソフィーは声をかけるのをためらっていた。だから黙ってセティの気が済むのを待っていた。オリヴィアも、ゆったりと待っていてくれた。
そうやって静かに指輪を見つめていたセティは、やがて少し悲しそうにぎゅっと眉を寄せてから、唇を曲げてオリヴィアを見上げた。指輪を乗せた手のひらを、オリヴィアに突きつける。
「なんでもない。もう、大丈夫だ」
「そう? 何かわかったことあるなら、話しても良いんだよ?」
微笑むオリヴィアに、セティは余計に唇を曲げた。そして首を振る。
「何もない。もう、良い」
「わかった」
オリヴィアはセティの手のひらから指輪を持ち上げて、またカウンターの引き出しにしまった。
「この指輪はじゃあ、他に心当たりありそうなところに流してみるよ」
「うん、持ち主が見つかると良いね」
オリヴィアは引き出しを閉じてうつむいたまま、きっと書架から戻ってこなかった誰かを思い出したのだろう、小さく眉を寄せた。
「そうだね。戻ってこれなかった誰かのものなら、せめて家族に届くと良いけど」
そうして次に顔をあげた時には、いつもの、明るい表情に戻っていた。くりくりと大きな目がソフィーとセティを順番に見て、笑う。
「じゃ、二人とも今日はありがとう。傷物の修復、いつも通りお願いね」
「任せておけ」
ふふん、と偉そうに胸を張るセティに、オリヴィアはあははと笑った。オリヴィアは、セティが本であることを知らない。
紡ぎ手の蜘蛛をセティが食べてしまったから、本を修復しているのがセティだということだって、当然知らない。
何も知らないオリヴィアは、セティのその言葉も笑って受け流した。
「偉いね、セティくんは。修復した本を持ってくるの、待ってるからね!」
子供扱いのような褒め方に、セティがむっとした顔をする。けれどセティが文句を言うより先に、ソフィーが口を開く。
ソフィーの声に遮られて、セティは渋々開きかけた口を閉じた。
「オリヴィア、それじゃ。今日は本当にありがとう」
「こちらこそ! また何かあったら顔出してね!」
大きく手を振るオリヴィアに見送られて、ソフィーはセティを連れて店を出た。かろん、とドアチャイムの音も二人を見送った。
◆
オリヴィアの店はすり鉢状の書架街、その|すり鉢の穴に面した通り《メインストリート》から奥に入ったところにある。当然、周囲はメインストリートよりも人は少ない。
人のまばらな道を歩きながら、ソフィーはセティに声をかけた。
「さっきの指輪、本当に良かったの?」
最初は人間の街にも人混みにも臆していたセティも、今はもうソフィーと手を繋がなくても歩いていられる。ひとりでだって出かけられるくらいには成長していた。
初めての時は手を繋ぎたがったのに、もう手をねだらないセティの成長を少し寂しく思いながら、ソフィーはセティを見下ろした。
セティはソフィーを見上げて何度か瞬きしてから、ああ、と声をあげた。
「じいさん……アンブロワーズのじいさんも、指輪をしてたなって思い出したんだ。でも、じいさんの指輪はあんなじゃなくて、もっと太くて、石とかついてたなって……あの指輪見てたら思い出した。
なんか、変な気分だ」
変な気分と言うとき、セティは眉を寄せて唇をぐいと曲げた。セティの中に、セティ自身もどう捉えて良いかわからない感情が、あった。
(嫌な気分じゃない、けど……)
落ち着かなかった。指輪の記憶は一緒に、指輪をはめていたアンブロワーズのシワだらけの手や、その手で頭を撫でられたこと、本を扱う指先、そんなものまで蘇らせた。
そうやってアンブロワーズのことを思い出していると、セティの胸の奥はざわざわと落ち着かなくなった。
右手でシャツの胸のあたりをぎゅっと掴む。それでもまだ、奥の方で何かがざわついている気がした。
「変な、気分だ……」
その気持ちを持て余して、セティはもう一度呟いた。
ソフィーはそんなセティを見下ろして、自分の父親のことを思い出す。いつも通りに書架に行ったきり、帰ってこなくなった父。
父親が死ぬことなんかちっとも考えていなかったけれど、書架は幼いソフィーが想像していたよりもずっと危険な場所だと、成長してゆく中で知った。
きっと手強い本に出会って死んでしまったのだろうという諦めの気持ちと、いまだに父親がいなくなったことを受け入れられない、信じられない気持ち。
セティの中にもそんな、いろんな気持ちが渦巻いているのだろうと、ソフィーは察した。ソフィーだって、父親のことを落ち着いて考えられるようになるまで何年もかかったのだ。セティにもきっと時間が必要なんだろう。
ソフィーは少し微笑んで、セティの頭に手を置いてそっと撫でた。
途端、セティはその手を跳ね除けて顔をあげる。ソフィーを睨みあげる。
「子供扱いはやめろ!」
「ごめんなさい」
セティは元通り、いつも通りの生意気な表情をしていて、ソフィーはほっとした。跳ね除けられた手を引っ込めて、それから地面の方を指差した。
「このちょっと下にカフェがあるの。リオンとの合流まで、そこで待ちましょう」
「カフェ?」
「そう。ココアって飲み物があるんだけど、飲んでみない? どろっとした、チョコレート色の飲み物で、その店では上にクリームも乗っけてくれるんだけど」
セティはぱちぱちと瞬きをして、少し考え込んで、それからソフィーに聞く。
「チョコレート色……チョコレートとは違うのか?」
「チョコレートみたいな味、甘い飲み物」
「甘い……チョコレートみたいな……」
ぽかんと開いた口を慌てたように閉じて、そわそわと視線を動かしてから、セティはソフィーを見上げてぐいと顎をあげた。
「わかった。カフェに行っても良い。ココアっていうの、飲んでみる」
「じゃ、行きましょう」
道は途切れ、メインストリートに突き当たる。人混みの中に入ったセティは、一歩、ソフィーに近づいて歩いた。ソフィーの手を求めて持ち上げたセティの手は、寸前で降ろされた。




