66 曖昧で捉えられない面白いもの
たくさんの毒霧の海月、その隙間からトワジエムが操る鋼刺の山荒の針が飛んでくる。
「兎……っ」
セティが氷を操って防ごうとするのを制して、リオンはセティの前に出る。手のひらを持ち上げて棘を受けた。
リオンは顔をしかめたが、そのまま手を握り締めれば刺さった棘は光になって消えていった。
「リオン!?」
セティの声に、リオンはにやりと笑って振り向いた。
「これは賭けだけどな、あいつは本物を使えない。もし本物を使ってしまえば、そのあとはもう偽物だってバレてしまうからな。
あいつは『いつ本物が飛んでくるかわからない』状態で俺たちを疲弊させたいだけじゃないかと思う。多分だけどな」
リオンの言葉の意味がわかって、セティは少し目を伏せて考えた。けれどあまり考える時間もない。
もしかしたらという不安はある。けれどリオンの言う通り、飛んでくる棘にまで気を配っていたら、セティは疲弊してしまう。また閉じてしまうかもしれない。
だったら、とセティは顔をあげてリオンを真っ直ぐに見た。
「じゃあ、飛んでくる棘は無視する。痛いだけなら我慢できる。それよりはさっさと海月をなんとかしよう」
「ああ、大丈夫だ。残りの写しだって少ない。同じように続ければ良いだけだ」
二人で覚悟を決めて、セティの頭の上の羅針盤の金糸雀が鳴く方向へと向き直る。
リオンが鋼刺の山荒を構える。セティはその隣で雷光の羊と一緒に雷を生み出した。
山荒が棘を放つ。その棘を追いかけて、セティが生み出した雷が広がって飛んでゆく。通り道にいる海月を全て光に変えて、その奥の一冊の海月に届く。
棘が当たらなくても、雷は海月に届いた。海月はぼうっと光り、その光は四角い姿に変わる。後にはヒビが入った本が床に落ちた。
トワジエムが操る山荒の棘が飛んでくる。腕に刺さって、リオンは痛みを堪えて声を漏らした。それでもすぐに棘を抜く。棘は光になって消える。腕に傷口は残っていない。
「大丈夫だ。次行くぞ」
不安そうに見上げるセティに、リオンはウィンクしてみせる。セティはそれでほっとして、ちょっと怒ったような顔をしてみせた。
「わかってる。お前は俺の所有者じゃないんだ。命令するな」
そう言うセティの輪郭が、ぼうっと光って曖昧になる。リオンはわずかに目を細めると、すぐに鋭い視線を金糸雀の鳴く方へと向けた。
◆
たくさんの海月に囲まれて、トワジエムは自分が確かに興奮しているのを感じていた。
けれど、確かに刻まれて後に残る知識とは違って、感情というのは一時のものだ。それこそ虚構のように、曖昧で捉えられない。
セティエムの言動は、まるっきりその感情に捉えられているように見える。存在しない、消えるかもしれない危ういもの、それにすがっているように見える。
「そんなの、虚構と変わらないのにね」
トワジエムは腕を持ち上げて、山荒の棘を放つ。当たるかどうかは興味の外だ。ただセティエムを消耗させられたらそれで良い。こうやって海月に紛れながら翻弄していれば、そのうちセティエムは閉じるだろう。
セティエムが閉じたら、あとはそれを連れて帰れば良いだけだ。
「シジエムは写しなんか使ったから失敗するんだ。写しだって虚構と変わらないじゃないか。偽物なのは同じなんだから」
部屋の中が明るく照らされて、雷の弾けるような音がする。今のでいくつの虚構が消えただろうか。その分、セティエムも限界に近づいているはずだ。
トワジエムはまた、棘を放つ。何か話す声が聞こえる。セティエムはまだ頑張っているらしい。そろそろ終わりかと思ってから、案外長く粘っていた。もしかしたら感情というものも、虚構と同じくらいには役に立つのかもしれない。
それはそれで面白いな、とトワジエムは考える。
「ああ、でも……」
さっき傷つけられた手。今は棘を握りしめているその手から、インクのような体液が漏れ出ている。自分の意思では止まらない。
このままでは自分の知識まで失われて、壊れてしまいそうだ。
シジエムなら再生できるだろうが、きっと怒られるだろう。どうして写しを使わないのか、とだって言われるかもしれない。
「でも、あとちょっとだけ……」
トワジエムはまた山荒を構える。そこに、光が迫ってくるのが見えた。咄嗟に手をあげてから、それが雷をまとった棘だと気づいた。
腕に、棘が刺さる。体を雷が突き抜ける。
「かっ……ぐ、ぅ……」
呻き声が漏れる。通り道の海月たちが光になって消え、その向こうのセティエムと目があった。
セティエムはその小さい体に雷をまとって、真っ直ぐに、トワジエムを見ていた。その視線に、トワジエムは自分の限界を悟った。
ここで壊れるわけにはいかない。戻って、シジエムに再生してもらわなければ。
「兄さま、聞こえてるんでしょう? ねえ、助けてよ」
トワジエムの呼びかけに応えて、目の前に扉が現れる。トワジエムは扉を開けて、セティエムから逃げ出したのだった。
◆
トワジエムは扉を開けて中に逃げ込んだ。リオンは棘を放ったけれど、トワジエムを飲み込んだ扉は消えてしまった後だった。
周囲を漂う毒霧の海月が消えて、霧も晴れた。残ったのは、たった数匹。それ以外は全て虚構だったのだ。
見通しがよくなった状態で、残りの毒霧の海月を倒すのは簡単だった。そして、ソフィーの毒も無事に消え去った。
「ソフィー!」
セティは雷光の羊を消してソフィーに駆け寄る。
ソフィーはぐったりと力の入らない上体をなんとか起こす。セティを安心させるように微笑んで見上げる。
セティはその様子にほっとして、眉をぎゅっと寄せて唇を引き結んで、自分のズボンの裾をぎゅっと握り締めた。讃えるように、リオンはセティの背中を軽く叩いた。
第十章 毒霧の海月 おわり




