64 ジェイバーの本(ブック)
疾風の大鷲──クレムとジェイバーなんかまとめて掴んで飛び立っていけそうなほどの大鷲。
その羽が、生み出す風が、クレムとジェイバーを守っていた。二人の目の前で横たわっているソフィーも一緒に、だ。
何もできないことがしんどくて、クレムはその手でソフィーの額の汗を拭った。ひどく汗をかいているのに、その額は冷たかった。
ソフィーはクレムを見上げて微笑む。
「ありがとう……」
小さく掠れた声に、クレムはどうして良いかわからずに首を振った。
隣にいるジェイバーは、気づけば静かになっていた。膝を抱えて、じっと、黙って座っている。泣き腫らした目で、今も不安そうな顔はしているけれど、もう泣いていない。
ぎゅっと口を引き結んで、何かに耐えているような顔をしていた。
ひとり飛び出して行ったセティはリオンの呼びかけに応えて戻ってきた。そして、セティとリオンはソフィーを助けるための作戦を考えている。
「氷華の兎はどうなんだ?」
リオンの声に、セティは首を振る。
「目の前を凍らせるくらいならできる。そこから範囲を広げるのは……その、大変なんだ。地面を伝ってとかならもっと楽なんだけど。部屋全部を凍らせるのは……難しい、と思う」
「槍で一体ずつ倒していくのは効率が悪すぎる。あとどのくらい写しがいるかもわからないからな」
「それは……自分でも、もうわかってる」
リオンが手のひらを持ち上げると、肩に乗っていた鋼刺の山荒が腕をつたって手のひらまで移動してきた。
「こいつで間違いなく狙えるなら話は簡単なんだけどな。こいつは、遠くまで届きはするけど……羅針盤の金糸雀が示す方向だけで、間違いなく本体──写しを狙うことはできない。そもそも、この霧のせいで対象も見えないし、向こうも動き回ってるし」
「俺が遠くまで飛ばせるのは炎の蝶だけど、それだけだと海月は避けるから」
少し離れたところで交わされるセティとリオンの会話を聞きながら、クレムはふとジェイバーの方を見た。
「ジェイバー、お前も本を持っていただろ」
突然のことに、ジェイバーは目を大きく見開いて首を振った。
「持ってるけど……俺なんか、無理だよ」
「お前が無理でも、お前の本が役に立つかもしれないだろ」
クレムの言葉に、ジェイバーは不安そうに視線を動かした。その中で、ふとソフィーと目があう。苦しそうに喘いでいたソフィーが、わずかに微笑む。
「ねえ、あなた……本の題名……何?」
途切れ途切れの掠れ声に、ジェイバーは瞬きをしてから、小さな声で応じた。
「あの……雷光の羊……」
苦しげにぼんやりしていたソフィーの目が見開かれる。ジェイバーは慌てて言い募る。
「でも、俺、駄目なんだ! 父さんのを勝手に持ち出して所有者になったけど、本当はちゃんと開けてないんだ! 全然……だから……」
ソフィーは微笑んでジェイバーを見上げた。
「大丈夫。あなたの本は……きっと、役に立つ、から……クレム」
急に名前を呼ばれて、クレムは身を乗り出した。その不安そうな顔をソフィーは真っ直ぐに見る。真剣な表情だった。
「セティと、リオンを……呼んで」
クレムも真剣な顔で頷いた。口を引き結んで顔をあげる。
「セティ……と、リオンさん。その、ソフィーさんが……」
声をかけたは良いものの、なんと言えば良いかわからずに、途中でうつむいて声は尻すぼみになってしまった。それでも、セティとリオンは近づいてきてくれた。
ソフィーはセティとリオンの方を向くでもなく、ジェイバーを見つめた。
「ジェイバー……あなたの本を、買い取らせて……」
「え、それは……」
突然の問いかけに、ジェイバーはなんと言えば良いかわからずにいた。自分が頷いてしまって良いものか、判断がつかないまま、視線をうろうろさせる。
「あとで、あなたのお父さんにも……ちゃんと、話す、から……お願い……それできっと、ここから出られる、から……」
ジェイバーはもう一度ソフィーを見る。ソフィーの視線は真っ直ぐだった。その視線に促されて、ジェイバーはゆっくりと、でも確かに頷いた。
「どういうことだ?」
リオンがソフィーの隣にしゃがみ込んで、その顔を覗き込む。ソフィーは無理矢理微笑んだ。
「セティが……食べて……きっと、役に立つ、から」
ソフィーの言葉に、リオンはジェイバーを見た。ジェイバーは居心地悪そうにうつむいた。
それを許さないかのように、セティが口を開く。
「ジェイバー、本を開いてくれ! そしてその本を俺にくれ!」
「で、でも、俺……本をちゃんと開けなくて……それに……」
ジェイバーの自信なさそうな小さい声に、セティは自分の大きな声を重ねた。
「ソフィーはそうしろって言ったんだ! 言う通りにしてくれ! そしたら俺が、この状況をなんとかできるってことだ!」
隣で、クレムがジェイバーを小突く。ジェイバーは困ったような顔で、それでもポケットから一冊の本を取り出した。
そして、震える声で命令をする。
「開け……雷光の羊」
本がぼうっと光る。本の四角い輪郭が曖昧になり、光がジェイバーの隣に集まってゆく。そして光が収まったとき、そこにはもこもことした毛糸の塊のようなものが姿を表していた。
ジェイバーは怯えるような目をセティに向けた。セティはジェイバーと、それからクレムを順番に見る。
「今から俺はこいつを食べるけど、そのことは秘密にしておいてくれ」
「食べる……?」
セティの言葉に、クレムは瞬きをした。けれどその言葉に応えはなく、セティはもう毛糸の塊に向き合っていた。
「お前の知識、食らってやる。俺の一頁になれ」
セティが毛糸の塊に手を伸ばす。毛糸の塊は少しだけもぞもぞと動いたあと、光の塊になってセティの手の中に収まった。
その手を持ち上げて、セティは顎をあげて光を口の中に入れる。こくりと喉が動いた後に、セティの赤い舌が唇を舐める。
「これでこの知識は俺のものだ。雷光の羊!」
ぱちぱちっと弾けるような音がして、セティの周囲に稲妻のような光が走るのを、クレムは呆然と眺めていた。




