62 本物と写し(コピー)
セティが炎の蝶に守られた中に駆け込んできたとき、ソフィーはまだ毒に苦しんでいた。セティの頭に乗った羅針盤の金糸雀も、まだその綺麗な声で鳴いていた。
「どうして……本体を倒したのに……」
セティは自分が握りしめていた手を開く。そこには確かにヒビが入った本があった。
だというのに、横たわったソフィーはまだ苦しんでいる。
セティが戻ってきたのに気づいて、ソフィーは視線を向けて、脂汗のにじんだ顔でわずかに微笑んだ。大丈夫、とでも言うように。
リオンはセティの手のひらからひょいと傷だらけの本を取り上げた。
「どういうことだ……本体を倒しても解毒が必要ってことか?」
「そんな……はずは……」
ない、とセティは言い切れなかった。さっきまであった自信が揺らぐ。その頭の上では、金糸雀がまだ鳴いていた。
その様子にリオンは目を細めた。
「いや、そもそも羅針盤の金糸雀がまだ鳴いている。本体は他にいるんじゃないのか?」
「じゃあ、俺が倒したこの本はなんなんだ!」
「それは……写し、とか。いや、どっちが本物でどっちが写しかはわからないけど」
「写し……」
セティは瞬きをしてリオンを見る。
そのときだった。霧の中、トワジエムの笑い声が響く。
「言い忘れてた。この毒霧の海月たちはほとんどが虚構だけどね、本物だけじゃなくて写しもいるんだ」
トワジエムの声に、セティは目を見開く。
「じゃあ……あと何体倒せば良いんだ」
くつくつと笑う声が響く。この状況を、トワジエムは楽しんでいるようだった。
「何体くらい開いたかな、写し。忘れちゃった」
「ふざけるな!」
リオンが叫ぶ。その叫び声は虚しく霧の中に消え、返ってきたのはあははと軽い笑い声だけだった。
セティの頭の上で、金糸雀はまだ歌っている。セティはソフィーを振り向いた。
「ソフィー! 助けるから待ってろ!」
苦しげに喘いでいるソフィーは、その言葉に微笑んだ。きっと大丈夫と信じて、だからこそ絶望せずに羅針盤の金糸雀を動かしていられるのだ。
「信じ……て、る……」
掠れた声で、ソフィーは応えた。そして、金糸雀を閉じてしまわないように、自分の意識をしっかりと保つことに集中する。
クレムとジェイバーは声も出せずに、ソフィーの様子を見守っていた。
セティは拳を握りしめると、金糸雀の鳴く方に顔を向けた。霧の奥を睨む。
「セティ、落ち着け! 今は少し休んだ方が良い!」
リオンの言葉に、セティは振り向きもしない。
「休んでどうなる! 本物も写しも、全部やっつければ良いってことだろ! だったらやってやる!」
セティは右手を前に突き出した。
「白輝の一角獣!」
輝くような白い一角獣の姿、それが銀色に輝く槍となってセティの手に収まる。セティは両手でそれを構えると、また三匹の炎の蝶を従えて霧の中に飛び出していった。その輪郭が、ゆらりと曖昧になる。
「待て! セティ!」
リオンの声は、セティには届かない。霧の中にセティの姿が消える。炎の蝶の明かりが動くのが見えていたが、それも濃い霧の向こうに消えた。
リオンは前髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
(写しがどれだけあるかもわからない。セティが一人で全部を倒せるのかわからない。どうしたら良い?)
自分が無力な気がして、リオンは奥歯を噛み締める。ソフィーを助けたい。そこにいる二人の子供たちも。
それだけじゃなく、セティのことだって助けたい。二人で協力して、もっと良いやり方を見つけ出せたらと考える。
なのにセティはひとりで行ってしまった。自分ひとりじゃ何もできない。
(悔しいな、こんな状況で何もできないなんて)
息を吐ききって顔をあげる。苦しげに浅い呼吸を繰り返すソフィーが目に入る。
「いや、諦めない。何かあるはずだ」
自分に言い聞かせるために、リオンは声を出した。焦る気持ちを落ち着けるために、わざと、ゆっくり言葉にしてゆく。
「セティの限界がくる前に、何か、見つけるんだ。それが今、俺にできること」
リオンは大きく深呼吸する。それでも足りなくて、両手で自分の頬を叩く。ぱん、と小気味の良い音を響かせて、気合いを入れる。
「諦めない。きっと、できることはある。やるべきことはある」
リオンは手持ちの本を頭の中で羅列する。セティが持っている知識と組み合わせる。あるいは、ソフィーの本だって考慮に入れる。
可能性があるならば、なんだって使う。
「俺だって探索者なんだ。諦めてたまるか」
リオンは周囲を警戒しながら、考えをめぐらせた。その肩には、鋼刺の山荒が乗っている。




