6 本屋
ソフィーは書架街を少し上に行った後、|すり鉢の穴に面した通り《メインストリート》から、横道にそれて奥に向かう。
薄暗い通路を灯りが照らしている。この灯りは、書架の本がもたらした知識で作られているらしい。こういうところでも、本の知識が必要とされている。
壁を削って作られた入り口が並ぶ。人通りは全くないというほどではないが、少ない。
ソフィーは、その入り口の一つの前で足を止めた。品の良い造りの木の扉が取り付けられている。その扉には「開店中」とだけ書かれた札が下がっていた。それ以外に看板もなく、一見すれば店にも見えない。
そこはソフィーの馴染みの本屋だ。だからソフィーはためらうこともなく、その扉を開いた。かろん、と柔らかな音のドアベルが鳴った。
こじんまりした店の奥で、店主の女性が顔をあげる。深い緑色の瞳が、ソフィーの姿を見て微笑んだ。
「いらっしゃい、ソフィー。今日も新しい本は手に入った?」
立ち上がったオリヴィアは、ソフィーより一回り小柄だった。ちょうど、ソフィーとセティの間くらいだろうか。セティの頭がオリヴィアの口元に届くくらいだ。
淡い茶色の髪を後ろで一つにくくっていて、大きな目がくりっとしている。小動物のような雰囲気だった。
「まあね。ちょっと見てもらえる? それから、傷物があればいつもみたいに預かるよ」
「もちろん。……っと」
ふと、オリヴィアの視線がソフィーの後ろ、セティの姿を捉える。その視線に気づいたソフィーは、何か言われる前にと口を開いた。
「ちょっと事情があって、預かって面倒見てるの」
オリヴィアは目を大きく開いてセティを見たけれど「そう」と言って仕事を優先した。けれど、その表情には好奇心が目一杯浮かんでいた。
狭い店はカウンターで仕切られていて、カウンターから客側にはほとんど何もない。客用の小さな椅子が二脚置いてあるだけだ。それでも手入れが行き届いて居心地の良い空間になっている。
カウンターの向こうには、造りつけの棚があって、そこに本が並んでいる。さらに向こうにはもっと広い空間があって、そこはオリヴィアの作業スペースだ。
大きな机と、その上に雑然と置かれた紙だとか本だとか何かの道具だとかが、カウンター越しにちらりと見えた。
オリヴィアは脇の棚と向き合った。踏み台に乗って手を伸ばして、棚からいくつかの本を取り出してゆく。後ろに結んだ髪がくるんと尻尾みたいで、その姿はなんだか木の実を抱えたリスのように見えた。
ソフィーはカウンターに近づいて、セティの手を離すと、今日手に入れたばかりの本を取り出した。
オリヴィアは棚から出した本をカウンターに置く。一冊、二冊……全部で五冊あった。
「新しく手に入った傷物はこんな感じ。いけそう?」
「見てみる。わたしの方はこれ。氷華の兎」
「良いね」
オリヴィアは早速、ソフィーが置いた本を目の高さに持ち上げて、回転させてその表面を眺めた。
ソフィーもオリヴィアが持ってきた五冊の本を一つ一つ手にとって眺める。セティはソフィーの後ろから顔を覗かせて、ソフィーの手元を見ていた。
一冊目は明らかに深い傷だった。表面の文様が一部分、完全に欠落している。これは駄目、とソフィーは脇に避ける。
二冊目の傷は浅く、文様が残っている。三冊目は角が少し潰れているだけ。これらは大丈夫、とソフィーはさっきとは反対側にそれらを置く。
四冊目も傷が大きすぎた。残念だけど、これも駄目。五冊目は傷自体は少し深いけど表面の文様が傷ついてない、大丈夫。
そうやってソフィーは五冊の本を仕分け終え、オリヴィアに声をかける。
「大丈夫そうなのは三冊。これ、持ってくね」
オリヴィアは手にしていた氷華の兎の本をカウンターに置くと、ソフィーの手元を見て、苦笑いをした。
「ああ、やっぱりそれは駄目か」
「さすがにこの傷の大きさだとね」
オリヴィアは、ソフィーが選ばなかった傷の深い二冊をまた棚に片付けて、振り向きざま、首を傾けた。
「やっぱり、ソフィーの紡ぎ手の蜘蛛、譲ってくれないかな? 書架にしばらく潜らなくても良いくらいの値段は出せるよ」
「駄目。手放すつもりはないよ。まあ、紡ぎ手の蜘蛛よりもすごい知識を手に入れたら、考えなくもないけどね」
「そのときはぜひ、うちに声かけてね」
「そうなったらね」
このやりとりはいつものもので、オリヴィアも断られることはわかっていたものだ。
それでも、ソフィーが持っている紡ぎ手の蜘蛛は小さな傷なら本の修復ができる。本屋としては手に入れたいものなのだ。ソフィーが店にくるたびに、オリヴィアは半ば冗談のようにこんなやりとりをする。
ソフィーも軽く応じているけど、紡ぎ手の蜘蛛を手放すつもりはなかった。
代わりに、オリヴィアから傷物の本を受け取って、修復して修復代をもらっている。オリヴィアとしては、売り物にならない本をまた売り物にすることができる。
「で、氷華の兎はどう?」
「そうだね、状態は良いし、氷ってのも使い勝手が良い。探索者じゃなくても欲しがる人は多そうだよね。このくらいで、どう?」
オリヴィアは、カウンターの上で指を三本横にしてみせる。クレジットで三十万。売れば一、二ヶ月は生活に困らない。ソフィーはその値段に、クレジットの残高を思い出しながら、少しだけ考えるそぶりを見せた。
残高を思い返してみれば、まだ余裕がある。今すぐに本を売らなくても、しばらく生活はできるくらいには。
オリヴィアの言う通り、使い勝手の良い本なのも確かだ。自分で使うのも悪くはない。
それに、とソフィーはセティを見下ろす。セティは、心細そうな表情でソフィーを見上げていた。
セティは本を食べて成長する。であれば、手持ちの本は多い方が良い。
ソフィーはカウンターに置かれた氷華の兎の本を持ち上げた。
「今日はやめとく」
それが、ソフィーの出した結論だった。オリヴィアは、小さく肩をすくめた。
「それは残念。気が変わったらいつでもどうぞ」
「また今度、何か見つけたら持ってくるから」
ソフィーは氷華の兎の本を道具袋にしまう。その腕を、セティがぐい、と引っ張った。
「おい、まだなのか?」
ソフィーを睨むその目つきは、知らない場所での心細さや、自分が話に入れずずっと待たされている不安を訴えていた。
自分の腕を引っ張るセティと、もう一度手を繋いで、ソフィーは微笑む。
「もう終わりだから」
オリヴィアは小柄な体でカウンターに乗り出した。大きな目をくりくりとさせて、明るい笑顔をセティに向ける。
「待たせちゃってごめんね。お姉さんたちのお話はもう終わり。大人しく待てて偉いぞ!」
あからさまな子供扱いに、セティは眉を寄せて唇を尖らせた。ソフィーの後ろから顔を覗かせて、オリヴィアを睨み上げる。
「子供扱いするな」
不機嫌をあらわにしたセティの言葉に、オリヴィアは大きい目を見開いて何度か瞬きをした。それでもすぐに何事もなかったかのように笑顔に戻ったのは、客商売で鍛えられているからだろう。
「おお、それはごめん。じゃあ、対等に話すために自己紹介をしよう。わたしはオリヴィア。見ての通りの本屋だよ。ソフィーとはもう長く取引させてもらってるんだ」
セティは訝しげに、警戒を隠さずにオリヴィアを見上げた。だからなんだ、と言わんばかりの表情だったけれど、オリヴィアは動じることもなく言葉を続けた。
「それで君は?」
「俺は……」
セティはびっくりしたように瞬きをして、それから隣のソフィーを見上げる。ソフィーは少し心配そうな視線をセティに向けていて、それは子供扱いみたいで少しむっとする。
それでもう一度オリヴィアをまっすぐに見て、ぐいと顎をあげた。
「セティ……セティだ」
「セティだね。よろしく」
オリヴィアの笑顔に、セティはふんと横を向いて応えなかった。ソフィーが慌てて割って入る。
「ごめん、オリヴィア、人見知りが激しくて」
そのフォローは、セティにはなんだか子供扱いに思えて気に入らなかった。ソフィーを睨んで文句を言ってやろうと口を開いたが、それより先にオリヴィアが明るく話し出した。
「ううん、気にしないよ。事情は気になるけどね。聞いても良い? どういう関係なの?」
「関係ってほどの何かがあるわけじゃないの、別に……本当にちょっと事情があって預かってるだけ」
返答に困って目をそらすソフィーに、オリヴィアはあははと明るく笑った。
「言いたくないんなら無理には聞かないけど。何か相談事があったら聞くからね」
「ありがとう。またね」
さっぱりとしたオリヴィアの言動にほっとして、ソフィーはセティの手を引いて本屋を後にした。