5 同業者
書架への扉は、すり鉢状になった大きな穴の一番底にある。
偉大な魔術師アンブロワーズが何を思ってそんなところに書架を作ったのか。魔術研究者によれば、土地に魔術的な何かがあるのだろうなどと言われているが、実際のところは未だわかっていない。
ソフィーは書架の扉を開き、セティと二人で外に出る。すり鉢の底は小さな空間が広場のようになっていて、これから書架に入ろうという、あるいはソフィーたちのように書架から出てきたばかりという探索者たちの姿が何人か見えた。
見上げれば、丸く切り取られた空。セティはしばらくの間、ぽかんと口を開けて切り取られた空の色と、丸いフレームの中を流れてゆく白い雲を眺めていた。
ソフィーが「行くよ」と声をかけると、セティははっとしたように周囲を見回して、不安そうな顔でうつむいた。そして、ソフィーに体を寄せると、その手をそっと握った。
「人がいるし、知らない場所だし、はぐれると困るからな。握っていてやる」
セティの声は小さかった。ソフィーは柔らかく微笑んで「そうだね」と頷いた。
「はぐれると困るもんね」
「べ、別に、怖いとか思ってないからな」
「大丈夫、わかってるから」
ソフィーの微笑みに、セティは不本意そうに唇を曲げた。けれど表情とは裏腹に、繋ぐ手にはぎゅっと力が込められた。
そんな底から、すり鉢を上がってゆく。壁に張り付くような通路と、壁に穴を開けて作られた人の栖。底に近いところには、探索に使う道具屋、装備屋、本屋、食べ物屋など探索者向けの店が並ぶ。
高級なアパートメントもある。実入りの良い探索者は、書架から近い場所に家を探す、そんな人向けだ。
通路が狭いせいで人通りも多く見える。歩くだけで誰かとぶつかりそうになる。
セティは、ソフィーの手をしっかり握ってきょろきょろと周囲を見回しながら歩いていた。ソフィーはそんなセティが誰かにぶつかってしまわないように気を使いながら、頭では今日と明日の食事について考えていた。
「そういえば、セティ、あなたってごはんは食べるの?」
だから、ソフィーにとっては自然な流れだったその質問だけど、セティには少し唐突だった。
セティはソフィーを見上げて何度か瞬きをして、それから応えた。
「食べる必要はない。でも、食べられる、らしい。食べたことはないけど」
「そうなの?」
ソフィーの問いかけに、セティはこくりと頷いた。
「食べることも経験で、経験も知識の一種で、知識は俺を成長させる。
って、じいさんが言ってた」
「ふうん、じゃあ、あなたの分も買わなくちゃね。何か食べたいものある?
って言っても、初めてじゃわかんないか」
ソフィーは歩きながら、頭の中に食べ物屋をいくつかリストアップする。
そんなときだった。
「ソフィー」
後ろから声をかけられて、ソフィーは足を止める。振り向くと、陽気な声の主が大きく手を振ってるのが見えた。
ソフィーは往来から外れて、壁際に寄った。声の主はするりと人混みを抜けてきて、ソフィーの隣に立つ。
セティは、まるで隠れるようにソフィーの後ろに立つと、そっと見知らぬ人物を見上げた。背が高い。セティの頭がようやく胸に届くか、どうか。ソフィーの頭だって、その鼻に届くくらいだ。
その男は、大きな手でさっぱりと短い明るい金髪を片手で搔きまわしていた。鮮やかな青い瞳は、ソフィーに向けられている。
「ソフィーは書架帰り? 俺は今日、本に出会えなくて、さっぱりでさ」
リオン、というのがその男の名だった。ソフィーより幾つか年上で、ソフィーと同じ探索者。つまりソフィーからすると同業者だ。
「わたしは……まあ、いつも通り、かな」
少しためらいがちに、ソフィーはリオンの世間話に応じた。セティのことは黙っておこう、と考えて、ついセティと繋いだ手に力がこもる。
「ソフィーは羅針盤の金糸雀があるもんな。あれ、便利で羨ましいよ」
「まあね、あれを手に入れられたのは運が良かったと自分でも思う」
適当に切り上げて──そう、お腹が空いてるから、とでも言って、終わりにしてしまおう。そうして立ち去ってしまいたい。
そう考えるソフィーだけど、リオンはなかなか口を挟ませてくれなかった。
「やっぱりさ、ソフィー、俺と組まないか? 二人の方が何かと便利だろ? 俺だって役に立つ本持ってるんだけど、どう?」
それはリオンのいつものお誘いだった。ソフィーは苦笑を返す。
「悪いけど、わたしは誰かと組んだりしない。何度も言ったでしょ?」
「それも全部わかってて誘ってんだけどな。俺はソフィーを裏切ったりしないよ」
リオンの青い瞳は、こういうときにいつも、思いがけず真剣な色になる。ソフィーはそれを落ち着かなく思いながら、それでも首を振った。
「わかってるならもう誘わないで。リオン、あなたが裏切るとは思ってないけど、でもわたしは嫌なの」
リオンは冗談めかした態度で、あははと笑った。
「残念、今日も振られた」
「じゃあ……」
行くから、と言うよりも先に、リオンの目はソフィーの後ろ、セティを見た。ぎゅ、とセティの手に力が込められる。
「その子は?」
「え? ああ……」
ソフィーは今初めて気づいた、みたいな顔でちらりとセティを見た。セティは居心地悪そうに、リオンを睨み上げている。
「ちょっとね、事情があって、預かって面倒見てるの」
「ふうん」
曖昧な言葉に、リオンは納得した様子はなかった。それでも、それ以上踏み込む様子も見せなかった。
リオンはにやりと笑って、セティを見下ろした。
「そうか。俺はリオンだ。ソフィーとは仲良しなんだ」
「仲良しになった覚えはないけど? 同業の顔見知りなだけでしょ」
「えー、俺は仲良しのつもりなんだけどなあ」
軽口を叩きながら、リオンはセティの頭に大きな手を乗せて、ぽんぽんと動かした。
「ま、よろしくな、坊主」
ぱしっと、その手をセティが払った。リオンはきょとんとした顔になる。
「子供扱いするな!」
「なんだお前、生意気なガキだな」
「ガキって言うな! 俺はな」
ソフィーは慌てて二人の間に割って入った。セティが余計なことを言う前に、と大きめの声で二人の会話を遮る。
「ごめんね、人見知りが激しい子で。わたしもう行かなくちゃ、またね、リオン」
ぽかんとするリオンを残して、ソフィーはセティの手を引いて早足で歩き出した。しばらくそのまま歩いて、振り向いて、リオンの姿が見えなくなったことに息を吐いて、足を止める。
セティはソフィーに引っ張られてついてきていたものの、気に入らないという表情でむすっとしていた。
ソフィーは周囲を見回してから、そっと小声でセティに話しかけた。
「ね、セティ。あなたが本だってことは、誰にも知られないようにね」
「どうしてだ?」
納得いかない顔をしているセティに、ソフィーは少し考えてから応えた。
「あなたは、特別な本でしょ。他にはない、特別な……それが知られたら、きっと大騒ぎになるからなんだけど、わかる?」
セティは少し考えるような顔をしてから、頷いた。
「なんだかわからないけど、俺が特別なのはその通りだからな。仕方ないから、そうしてやる」
「お願いね」
ソフィーはほっとして、また歩き出した。セティの手を引いて。
ぐるりとすり鉢を回りながら通路を登ってゆく。探索者向けのアパートメントは、上に行くほど手頃なものが目立ってくる。
書架には探索者が集まる。だから探索者向けの店が集まった。
探索者向けの、装備屋、食堂、アパートメント──つまり衣食住を揃える人たちが集まって、今度はその人たちの家や、生活用品や、娯楽も必要になった。書架で手に入る本に価値を見出した人、過去の魔術を研究する人、そうした人たちもやってきた。
書架を中心にしたこのすり鉢状の大穴は、今ではちょっとした街になり、書架街と呼ばれていた。