4 その題名(タイトル)は
無数の炎の蝶を操って氷の壁を溶かしながら、セティはぐるりと周囲を見回した。
「この巣の本はどこだ。本体が見つからないとどうにもならない」
セティの声に、ソフィーははっと思考を中断した。
(そうだ、今は考えている場合じゃない。考えるのはあとでやれば良い)
「待って、今見つけるから」
ソフィーは道具袋から本を取り出して、手のひらに乗せた。
「開け、羅針盤の金糸雀」
本の表面に刻まれた細い複雑な文様に光が走る。ぼうっとした光に包まれて、手のひらの上から質量が解き放たれる。
曖昧になった輪郭は一羽の鳥の形になり、光が収まったとき、そこには黄金色の鳥の姿があった。
「なんだ、それは?」
「本の居場所を教えてくれるの。鳴き声を出すから、使えない状況もあるんだけどね」
セティの視線には好奇心があった。ソフィーはその視線に見守られながら、羅針盤の金糸雀の止まっている手を持ち上げる。
羅針盤の金糸雀は羽ばたいて、ソフィーの周囲を飛び回る。そうやって三周したとき、鳴き始めた。
「こっちの方向」
鳴いている金糸雀を指に止まらせながら、ソフィーは氷の壁と向き合う。セティもソフィーの視線の先に体を向けた。
「こっちにいるやつをぶっ飛ばせば良いってことだな」
「あ、待って。できれば本本体は傷つけないで」
ソフィーの声に、セティは唇を尖らせた。
「なんでだよ。ぶっ飛ばせば良いんじゃないのか?」
「無傷で手に入れたい。わたしたち探索者の目的は本を手に入れることだからね。壊れた本じゃ売れないし」
「お前の事情なんか知らない。命令なんか聞かないって言っただろう」
ふい、とセティが顔をそらす。ソフィーは額に手を当てて、この状況をどうしようかと考える。
「ええっと、そう。セティ、あなたさっき炎の蝶を、食べた……んでしょ?」
「炎の蝶か? そうだな、食べた。食べることで、俺はその本の知識を取り込むことができるんだ。こんなふうにな。すごいだろ」
セティは手をひらひらさせる。無数の炎の蝶がその動きに煽られたように、その炎を大きく揺らした。
ソフィーは慎重に頷いた。
「すごいと思う。それって、例えば傷がついて壊れた本でも、食べて取り込むことはできるの?」
ソフィーの言葉に、セティはきょとんとした顔をした。何度か瞬きをする。それから、口元に手を当てて小さくうつむいた。
「考えたことなかった……でも、食べるときは開いてないと食べられない気がする。壊れた本って、開くことはできるのか?」
「残念ながら」
ソフィーは大げさに首を振る。
「開くことができないから、壊れてるって呼ばれるの。つまり、セティは、壊れてない本じゃないと、食べることはできないってこと、よね?」
こくりと、セティが頷く。
「そう……なるな」
「じゃあ、この巣の本も、無傷で捕まえた方が良くない? うっかり傷で開けなくなっちゃったら、食べられないでしょ?」
「それは、そう……だけど」
セティはソフィーを見上げた。その表情は、年相応に幼く、頼りなさそうに見えた。
「でも! 無傷で捕まえるって、どうやったら良いんだ?」
ソフィーはセティを安心させるようににっこりと笑う。
「それはわたしがやる。わたしは探索者。本を捕まえるために書架に潜ってるんだから」
セティは少しだけ悩む様子を見せたが、すぐに元の生意気な表情に戻った。
「わかった。じゃあ、それはお前に任せる。俺は、こっちの氷を壊せば良いんだな」
「そうだね。わたしが通れるくらいの隙間が開けば、本本体のところまで辿りついてみせる」
「失敗したら許さないからな」
「わたしにも探索者の意地があるからね。任せといて」
ソフィーは髪を搔きあげて、氷の壁の前に立つ。
セティは右手を頭上高く持ち上げた。
「集まれ!」
声に反応して、無数の炎の蝶がセティの指先めがけて飛ぶ。小さな炎が集まって、ゆらりと揺れるたびに、少しずつ大きな炎になってゆく。
そして最後の一匹が吸い込まれるように合流したとき、セティの頭上には人の大きさほどもある、大きな炎の蝶が羽ばたいていた。
炎の羽ばたきに煽られて、セティの黒い髪が踊る。セティの黒い瞳に炎の蝶の炎が映って、赤い。
セティはそのまま、右手を振り下ろす。
「舞え! 炎の蝶」
小さな蝶だったときには儚くも見えた羽ばたきが、今は力強く見える。そしてその羽ばたきによって、熱風が生み出される。
大きな炎の蝶は、ソフィーの前まで飛んでいって、そこで何度か羽ばたいた。すぐに氷が溶け出して、穴が開く。その穴の中に進んでいって、さらに穴を広げてゆく。
ソフィーはためらうことなく、その穴に飛び込んだ。
分厚い氷の壁の中を炎の蝶とソフィーは進む。溶けて崩れた氷が舞い散る。炎の蝶の炎を映してきらきらと輝いて消えていった。
それでも氷は必死に抵抗するかのようだった。成長して、ソフィーを閉じ込めようとする。けれどそれを炎の蝶がこじ開けて道にする。
ソフィーの足元で、氷が崩れるしゃりしゃりとした音が聞こえた。まるでそれを伴奏にするように、ソフィーの肩に止まった羅針盤の金糸雀が歌う。本は確かに近くにいる。
羅針盤の金糸雀の歌が大きくなる。
(近い)
ソフィーは進行方向を注意深く見る。薄くなった氷に、動く影が映る。
炎の蝶がその氷を破るとほとんど同時に、ソフィーは飛び込んだ。
手を伸ばした先、すんでのところで氷の壁に弾かれた。炎の蝶の羽ばたきが、炎の熱が、その壁を溶かし崩す。
崩れかけた氷の壁ごと、ソフィーは本を抱え込んだ。手袋越しでも指先がじんじんと冷える。
その手すら飲み込んで、氷の塊は大きくなってゆく。ソフィーの腕を伝って、肩も、首も、体も、頭も、飲み込もうとする。
氷に呑まれながら、ソフィーは必死で口を開いた。
「我が呼び声に応えよ。我ソフィーは汝の所有者なり」
ソフィーの腕の中がぼうっと光り、氷越しにソフィーを輝かせる。
「閉じろ」
ぱりん、と周囲の氷が全て割れ、崩れ落ち、そして水も何も残さず光になって消えた。
ソフィーの腕の中にいたのは、兎の姿をした氷だった。そして、その姿が光り、輪郭が曖昧になって、四角い石の形になる。その題名は──氷華の兎。
ソフィーは閉じられた本を手に、膝をついた。
すぐ近くで炎の蝶が羽ばたいている。そして、少し離れたところでセティが立っている。
セティが軽く右手を振ると、炎の蝶も消えた。
ソフィーは立ち上がって、ほっと息を吐き出すと、たった今手に入れた本──氷華の兎を道具袋にしまった。
「お前、名前なんだっけ」
セティが隣に立って、ソフィーを見上げる。ソフィーは首を傾けた。
「名前? ソフィーっていうの。覚えてくれると嬉しい」
「ふうん」
セティは興味なさそうな顔をして、だけど言葉を続けた。
「ソフィー、お前、ちょっとは根性あるんだな」
それは、ソフィーにとって思いがけない言葉だった。この生意気な本に認められたような気がして、ソフィーはふふっと笑った。
「まあね。ありがとう」
セティはソフィーの表情を見て、唇を曲げた。ソフィーを見上げて、指先を突きつける。
「だからって、お前のことを所有者だって認めたわけじゃないからな! 俺を使いこなせるのは、じいさんか俺だけだ!」
「大丈夫、わかってるから」
睨み上げるセティに、それでもソフィーは笑ってみせた。ソフィーが笑っているせいで、セティは余計に唇を曲げたのだった。
第一章 本の少年 終わり