31 白い頁はなんのために
竜の巨体が、少しずつソフィーに迫っていた。炎も、尻尾も、前脚の鉤爪も、ソフィーを追い詰めるように動いて、ソフィーは徐々に逃げ場を失ってゆく。
「ソフィー!」
リオンが疾風の大鷲を操って、竜の鼻先ぎりぎりを飛ぶ。竜は邪魔そうに顔を振ったけれど、それもほんのわずかのこと。ソフィーを追い詰めるのは止まらない。
ソフィーは碧水の蛙をうまく操って致命傷を避けてはいたが、体はもう限界に近かった。
ソフィーの背中にごつごつとした岩肌が当たる。そこに体重を預けて、ソフィーは短く浅い呼吸を繰り返す。肩は大きく上下していた。
地面にこすられた擦り傷、打ち身、その痛みを我慢して止まらずに動き続けている。疲労でぼんやりしてくる頭を、痛みで引き戻す。
ぼろぼろになったソフィーの様子に、シジエムは竜の攻撃を止めた。
「ねえ、セティエムを返してくれるなら、あなたたちを見逃してあげても良いのだけれど」
穏やかなシジエムの誘惑の声に、ソフィーは精一杯反抗する。傷ひとつなく服も髪も乱れずに佇んでいるシジエムを、ソフィーは力強く睨みつけた。
「あなたにセティは渡せない! セティの知識も経験も、失くさせたりしない!」
「でも、このままじゃあなたたち死んじゃうでしょう?
だったら、これはあなたにとって悪い話じゃないはずだけど。あなたもあの人間も死なずに済むし、わたしはセティエムを連れて帰れる。
そしてセティエムは書架の奥でわたしたちと平和に暮らせる」
「セティは!? セティの意思はどこにあるの!? セティは知識を手に入れて成長したいって言ってるじゃない! だったらわたしはそれを守る!」
シジエムはうんざりしたように大きく息を吐いた。
「セティエムは造られたばかりだから、まだわかってないのよ。本は造られたままが、一番綺麗なのに」
「そんなことない! 知識は使われてこそ知識になる! セティの頁だって埋めるためにあるの!」
「じゃあ好きにすれば良いわ、傲慢な人間。あなたが死のうがどうしようが、わたしには関係のないことだもの」
竜が長い尻尾を振るう。シジエムの金の髪が、黒いスカートがなびく。
逃げ場のないソフィーは、碧水の蛙の水で塊を作って自分の前に出す。水の塊ごと壁に叩きつけられる。尻尾の衝撃は、ある程度水が吸収してくれた。壁と自分の背中の間にも水の塊を作って、それで背中は守った。
それでも、強い衝撃で尻尾と壁に挟まれたのは、息が止まるほどの衝撃だった。声も出せずに、空気の塊を吐き出して、壁にもたれかかる。
(碧水の蛙もそろそろ限界だ……)
ソフィーは自分の道具袋の中身を考える。
(身を守るだけじゃ駄目だ。何か反撃できそうな……白輝の一角獣はセティにあげちゃったし、炎の蝶も……)
疲労でぼんやりとして、考えがまとまらない。身体中をさいなむ痛みも、ソフィーの思考を邪魔していた。
竜の前脚がソフィーを叩こうとする。大鷲が、リオンがソフィーとの間に割って入るが、竜はお構いなしに前脚を振り下ろした。
「碧水の蛙!」
大きな水の塊で、振り下ろされる前脚に一瞬の隙をつくる。その間に大鷲はひらりと飛び去って、ソフィーも間一髪、鉤爪を逃れた。
(セティが……セティがいてくれたら……)
ソフィーは唇を噛んで、手にした本姿のセティを握りしめる。
はぐれると面倒だからと、手を握られた。その手は人間と同じで、温かかった。
(所有者として認めてない、なんて言ってたけど。それでも一緒にいてくれたのは、多少は認めてくれていたんだと嬉しいな)
生意気な口調だけど、本当に子供みたいな反応もして、見知らぬものを怖がったり、驚いたり、怒ったり、笑ったり、いろんな反応を見せてくれた。
(本当に特別な本なんだ)
ソフィーには、人間と変わらないように思えた。人間の子供だ。年相応に好奇心があって、ちゃんと意思があって、考えて成長している。
(そうだ、今はわたしがセティを守らなくちゃ……)
ソフィーは胸の前にセティを抱き締める。そのセティが、四角い本が、ほんのりと温かいような気がした。
そして、どくん、と脈打つように、四角い本が光を放つ。
「セティ……?」
確かに無機質な本が、温かかった。まるで、セティの手を握っているように。その体を抱いているように。
「セティ!? 聞こえてるの!?」
ソフィーの声に反応するように、本がぼうっと光る。それが鼓動のように、明滅する。
「もう逃げ場はないわね」
シジエムがつまらなそうに言った。
ソフィーは壁際に追い詰められて、その目の前には大きな竜が視界をふさいでいる。
リオンは大鷲に乗って竜の目の前を横切るが、竜はもう見向きもしない。竜の眼は獲物であるソフィーを捉え、口元から炎が溢れる。
「さ、やって」
そのシジエムの声はごく軽い調子だった。ソフィーにとどめをさすことも、きっとなんとも思っていないのだろう。
竜は忠実に、その命令を守る。大きく開いた口から、大きな炎の塊が吐き出される。
避ける場所はない。ソフィーが操る碧水の蛙の水程度では、防ぎきれない。
それでもソフィーは諦めていなかった。希望を込めて、今は四角い本の姿をしているセティを握りしめる。
「セティ、開いて! 開け! セティエム・グリモワール!」
ソフィーの手の中で、本が光を放つ。その光は人間の姿になることはなかったが、代わりに炎を生み出した。
小さな炎は、ゆらりと揺れて蝶の姿になると、はらはらと飛び立つ。次々と、炎は生み出され、蝶になって飛び立つ。
セティとソフィーの意思によって生み出された無数の炎の蝶。ソフィーを守る、炎の翅だった。




