30 すべての知識と経験は
「セティ!」
ソフィーの呼びかけは虚しく響く。ソフィーとシジエムの間で、セティは今、四角い本の姿になってしまった。
そもそもセティはシジエムと対峙する前から疲れていた。竜の攻撃を防ぐのだって、相当疲れたはずだ。
そして、その限界が今だった。
本の姿になったセティが、竜の背中を転がる。ソフィーは手を伸ばしてそれを追いかける。
ソフィーは四角い本を──セティを捕まえて、そのまま、背中をずるずると落ちてゆく。
邪魔な虫でも追い払うように、竜の尻尾が動く。ソフィーは本姿のセティを抱えて体を丸める。
「うっ……ぐ……っ!」
ソフィーの体は尻尾に叩かれて地面の上を滑ってゆく。
シジエムが竜の肩から降りてきて、地面の上でうずくまるソフィーの隣に立った。
「セティエムを返してちょうだい」
地面の上から、ソフィーはシジエムを睨み上げる。セティを胸に抱く腕には、より力が込められた。
「セティはあなたのものじゃない!」
シジエムは嫌悪をあらわにした表情で、冷たくソフィーを見下ろした。
「所有者気取り? 自分の所有物だとでも言いたいのかしら?」
「違う!」
ソフィーは大きく首を振った。
「セティは、誰かのものじゃない! セティにはセティの心が、意思がある! それを認めないあなたに、セティは渡せない!」
「困ったわね」
シジエムは小さく息を吐くと、つまらなさそうに肩にかかった金の髪を払った。
「人間はやっぱり傲慢だわ。そもそもが書架の本たちだって、人間のものじゃないでしょう。
それを所有者だなんて、まるで支配者のように扱っているのは人間の方じゃない」
「それは……」
「あなただってそんな人間の一人だわ。誰かのものじゃないなんて言いながら、セティエムの所有者になって、やっぱりセティエムを支配してるじゃない。
わたしは、そんな支配からセティエムを自由にしてあげたいだけなのよ」
ソフィーは腕を支えに体を引き寄せて、上半身を起こした。視線はずっと、シジエムからそらさずに。手にはしっかりとセティを抱え、離さずに。
「でも、あなたはセティの知識も経験も認めていない」
「本は作られたときのままが一番綺麗なのよ。人の手垢がつきまくって、傷がついて、ぼろぼろになった本なんて最低だもの。
セティエムだって、全て白紙の状態が一番綺麗なの」
「いいえ」
ソフィーは両手で、セティを抱きしめる。
チョコレートを食べてにんまりとしていたセティを思い出す。クロワッサンも、ミルクも、目玉焼きも、興味深そうに、美味しそうに食べていた。
罠なんかどうってことないと、踏み出したのは経験がなかったから。でも、セティはちゃんと罠に気をつけることを学んだ。
たくさんの本を食べて、その知識を手に入れた。複雑な操作だってできるようになった。
拗ねたり、怒ったり、笑ったり。いろんな感情と一緒に、セティは成長していた。ソフィーはその成長を感じていた。
(そんなセティの成長と経験が、全部無駄なわけがない!)
ソフィーはぐいと顎を上げて、シジエムをまっすぐに見る。
「セティの白紙の頁は、埋めるためにあるはず。経験して成長するためにある! そして、セティはそれを望んでいる! 成長している! それが間違っているはずない!」
シジエムは造り物めいた顔になんの表情も乗せず、じっとソフィーを見下ろしていた。ソフィーの強い意思を持った瞳とは対照的に、そこにはなんの感情もない。
「そもそも、傲慢な人間が本を所有するのが間違いなのよ」
表情がなかったシジエムの顔が、にこりと微笑む。優しげにも見える微笑みだけれど、それはやはりどこか造り物のようで、そこに心はなかった。
「だってそうでしょう? アンブロワーズは自らの知識を隠すために本を作ったの。書架だってそう、人間たちからその知識を守るために作られた。
アンブロワーズの知識は、本は、人間たちの手に渡るべきものじゃないの」
「そんなはずない!」
ソフィーが力強く首を振る。シジエムは浮かべていた微笑みを消して、また人形のような無表情になった。
冷めた瞳だけが、じっと、ソフィーを見下ろしている。ソフィーは力強く、シジエムを睨み上げた。
「自分の知識を本に残したっていうことは、誰かにそれを伝えたかったんだって、わたしは思う!
本当に誰にも伝えたくない、残したくないっていうなら、本だって書架だって、作らなければ良い! 残ってるってことは、残したかったってことでしょ! 伝えたかったってことでしょ!」
シジエムは、その人形のような顔をわずかに歪めた。それは、シジエムの怒りだった。
「本当に、人間って傲慢」
小さく呟いて、竜を見上げる。
竜は今、リオンの大鷲を相手にしていた。頭の上を飛び回る大鷲を追いかけて、長い首と大きな頭を動かしている。
「そっちはもう良いわ。それよりこの人間を殺してしまって」
シジエムの声に、竜は頭を降ろした。大きな眼が、鋭い歯が並んだ口が、そこから漏れる炎の息が、全てソフィーに向かう。
ソフィーはセティをしっかりと抱えて、腰を浮かせる。
(炎なら碧水の蛙で少しは防げる。それ以外なら走って逃げるしかない)
ソフィーは竜との距離を目で測る。体は痛むが、まだ動ける。
ふふ、とシジエムが笑う。
「あれだけ偉そうに言っておいて、あなた自身には何の力もない。セティエムや本がいないと、何もできないのでしょう?
本当に傲慢だわ」
ソフィーはシジエムの言葉に反応することもできなかった。竜が炎を吐き出したから。
「碧水の蛙!」
水のカーテンを作って炎の威力を弱めながら、走って遠ざかる。
大鷲が、リオンが竜の近くを飛び回って気を引こうとしているが、竜はシジエムに言われた通りに、ソフィーを狙っている。
(大丈夫、まだ動ける。リオンもまだ大丈夫だ。だから何か、反撃の方法だってあるはず……)
長い尻尾が、ソフィーの体を打つ。その隙間に水の塊を生み出して、ソフィーはその衝撃を和らげた。それでも、体は宙を飛んだ。
「う、ぐぅ……」
地面に打ちつけられて、うめく。それでもソフィーは、セティを手放さない。
セティをしっかりと胸に抱えて、また立ち上がった。




