3 知識を食べる
書架を出ることにセティは頷いた。ソフィーはセティを連れて、今日辿った通路を逆に戻る。
一度通った場所だ。罠のような危険を避けて、戻るだけ。そう思っていたのは、油断だった。
ソフィーが気づいたときには、もう遅かった。ソフィーとセティを囲むように、氷が伸びて、それは分厚い壁になった。
二人は、氷の中──本の巣に閉じ込められていた。
(うっかり巣に踏み込んでしまうなんて……避けていたつもりだったのに)
ソフィーは小さく溜息をつく。冷静に振る舞おうとしてはいたけど、セティとの出会いで、やはりどこかふわふわと浮き足立っていた。注意が足りていなかった。
悔やんでも仕方ない、とソフィーは思考を切り替える。
「開け、炎の蝶」
試しにと開いた炎の蝶は、分厚い氷の壁の前では、あまりにも儚く見える。
はらはらと壁の近くを飛び回るが、表面を溶かして窪みほどの小さな穴を開けることしかできない。その窪みだって、小さすぎてすぐに氷で塞がれてしまう。
床にも氷が這ってくる。この巣の本は、このままソフィーとセティを氷漬けにするつもりだろうか。
(そうなるわけにはいかない)
ソフィーは氷の様子を観察しながら、脱出のための方法を考える。
冷たい氷に囲まれて、ソフィーの体温は容赦なく奪われてゆく。
(急がないと)
吐き出す息の白さに、ソフィーは少し焦っていた。
セティが、つまらなさそうな顔で口を開く。
「さっさとそれで氷を溶かせば良いだろう」
ソフィーは目を見開いてセティを見下ろした。セティは「それ」と視線で炎の蝶を示す。
なんでそうしないんだ、と言わんばかりの表情だった。
「だって……炎の蝶じゃ火力が足りないもの」
ソフィーの声に、セティは訝しげに眉を寄せた。
「なんだ、そんな小物もまともに扱えないのか」
「扱うって……だって……」
ソフィーは今までだって所有者として、本に命令をしてきた。そうして本を使ってきた。
(扱うって……そういうことじゃないの?)
ソフィーにはセティの言葉の意味がわからなかった。何か別な方法があるのだろうかと考えてみたけれど、想像もつかない。
セティは自慢げに笑って、胸を張った。
「俺だったらそれでなんとかできるぞ」
「どうやって?」
セティは、炎の蝶を指差した。
「その本を俺によこせ。そうしたら、なんとかしてやる」
「なんとかって……どうやって?」
ソフィーの戸惑いを、セティは疑いだと受け取った。機嫌悪そうに唇を尖らせる。
「なんとかはなんとかだ。とにかく、それを俺によこせ」
ソフィーは少しだけためらった。この少年の姿をした本は何をしようとしているのか。
けれど、すぐに好奇心が勝った。何をするのか、見てみたいと思った。もしかしたら、大魔術師の最高傑作、その知識の一端を見ることができるのかもしれない。
期待と不安が入り混じったまま、ソフィーは手を持ち上げる。何も言わなくても、炎の蝶はその指先に止まった。
ソフィーが炎の蝶ごと指先を差し出すと、セティは揺らめく炎の翅に、無造作に触れた。
「お前の知識、食らってやる。俺の一頁になれ」
にやりと笑ったセティが、炎の蝶の翅を握る。炎の蝶は頼りなく羽ばたくが、その手から逃げることはできない。
「ちょっと! 何やってるの!?」
「黙って見てろ!」
セティが炎の蝶を握る手に力を込めると、その輪郭が崩れ、光の塊になった。セティは口を開いて持ち上げると、その手を口元に持っていった。
炎の蝶だった光がセティの口の中に落ちてゆく。こくり、と白い喉が動く。紅い舌が唇を舐める。
ぼうっとセティの体が光った。まるで、本が開くときのように。
セティはソフィーを見上げてにやりと笑った。
「これで、この知識は俺のものだ。炎の蝶」
セティが持ち上げた指先、そこに小さな炎が灯る。その炎は渦巻いて、揺らめく翅になり、蝶になった。
炎の蝶はためらうように羽ばたいて、セティの指先から飛び立った。
「俺の題名はセティエム・グリモワール」
そしてまた一つ、炎が灯る。また、蝶が飛び立つ。
「アンブロワーズのじいさんの最後の作品、最高傑作」
セティの指先から次々と炎の蝶が生まれ、羽ばたいてゆく。
「唯一、成長できる本だ」
気づけばソフィーとセティの周囲には、無数の炎の蝶が飛び回っていた。
揺らめく無数の炎がソフィーとセティの肌を赤く染める。冷たく色のなかった氷にも、赤い炎の色が映って揺れている。
無数の炎の蝶が、氷の壁に沿って飛び回る。二人を閉じ込めようと迫っていた氷の壁が、今は確かにその炎の群れに押されていた。
「成長、できる……? どういうこと?」
ソフィーはセティから目が離せないままだった。
炎の蝶をソフィーが扱っていたときは、炎でできた蝶が一匹。それだけだったし、そういうものだと思っていた。
(それが、こんなにたくさんの蝶を生み出せるの……?)
セティが扱うこのたくさんの蝶が炎の蝶が持っていた知識なのだとするなら──。
(もしかしたら、人間は本の知識を使いこなせていない……?)
本はその中に、本当はどれだけの力を持っているというのだろうか。「たったこれだけ」と思っている本にだって、もしかしたらもっととんでもない知識が詰まっているのかもしれない。
(それに……セティ、セティエム・グリモワール。彼自身だって謎が多すぎる)
少年の姿をした本。成長するとはどういうことなのか。アンブロワーズは一体、何を残したというのか。
様々な疑問がソフィーの胸の中を渦巻く。けれど何も言えないまま、ソフィーはただぼんやりと、無数の炎の蝶に囲まれ、操るセティを見ているだけだった。