28 本につく虫(ブックワーム)
シジエムは竜の肩の上に佇んだまま、人形のような無表情でセティとソフィーを見下ろしていた。
「死んでも良いって言うのね」
セティは迷いの消えたまっすぐな瞳でそれを見返す。
「死なない! ソフィーもリオンも、俺が死なせない! でも、俺はお前とは行かない! 俺は知識も経験も手放さない!」
「じゃあ、本当に死ねば良いわ。セティエム、あなたもきっと壊れちゃうでしょうけど、後で回収して再生で直してあげる」
ためらいもなく、シジエムは言った。その言葉に反応して、竜は大きく前脚をあげた。
「氷華の兎! 白輝の一角獣!」
叩きつけられる前脚の勢いを氷の壁で弱めて、一角獣の槍で受け止める。強い意思の力で弾く。
「セティ、リオンと合流しましょう」
「わかった」
竜の攻撃をなんとか防ぎながら、セティとソフィーはリオンが倒れている方に移動してゆく。
それは壁際に自ら追い詰められてゆくような動きで、シジエムは表情も変えずに「愚かね」と呟いた。
吐き出された炎とその熱気を氷華の兎と碧水の蛙で防いで、ソフィーはリオンに駆け寄った。
リオンは疾風の大鷲の羽に埋もれるように目を閉じていた。疾風の大鷲が閉じていないなら、ひどい状態ではないはずだ。ソフィーはリオンの様子を観察する。
胸は上下していて、意識を失っているだけに見える。ひどい怪我も見えないのは、きっと、疾風の大鷲がその風と羽で守ってくれたのだろう。
「リオン! 無事なの!?」
呼びかけに、リオンは顔をしかめて目を開く。三秒、ぼんやりとしてから、すぐに飛び起きた。
疾風の大鷲もその傍らで動き出す。羽を整えて、いつでも飛び立てる体勢になって、リオンの指示を待つ。
リオンは小さく頭を振ってからソフィーを見た。
「悪い。俺は大丈夫だ。状況はどうなった?」
「変わってない」
短いやりとりの中でも、リオンにはソフィーの向こうで竜の攻撃に対峙しているセティの姿が見えた。リオンは腹に力を入れて立ち上がる。
「竜をどれだけ攻撃しても意味がないのは変わらずか?」
「そうね。まず先に、シジエムだっけ、あの本をなんとかしないと。それに」
ソフィーは、セティの姿を振り返る。
氷華の兎の氷を操りながら、一角獣の槍を振り回す。その輪郭が、時折ぼんやりと光って、にじむように曖昧になる。
ソフィーは声をひそめた。不安そうにリオンを見つめ、ささやくように言う。
「セティはきっと、もうすぐ限界。その前になんとかしないと」
そんな状況だというのに、いや、そんな状況だからこそ、リオンは笑ってみせた。余裕があるから笑うんじゃない、笑うから余裕が生まれる。それは、リオンの持っている強さだった。
「よし、じゃあ、やってやろうぜ。それで、みんなで書架から出るんだ」
拳を持ち上げるリオンに、ソフィーも少しだけ力を抜いて、微笑んだ。
「ええ、そうね。やってやりましょう」
ソフィーも拳を持ち上げて、リオンの拳とぶつけた。それは小さな、反撃の合図だった。
◆
竜の肩の上で、シジエムは退屈していた。
「さっさと諦めたら良いのに」
竜の攻撃を食い止めているのは、セティエムだ。人間たちはほとんど何もできていない。
せいぜい鳥の本を飛ばして、竜の気をそらす程度。
攻撃だって、セティエムに頼りきり。
「かわいそうな弟」
セティエムは人間に良いように使われている。
人間たち自身は何もできないというのに、竜との対峙はすべてセティエムに任せて、後ろでのうのうと守られて当たり前のような顔で指示を出している。
「本当に、本につく虫とはよく言ったものだわ」
まるで本の支配者のように振る舞う人間たち。本の知識がなければ何もできないというのに。
我が物顔で書架を荒らして、そして本を奪って、傷つけ、壊してゆく。
本は一冊残らず、すべて貴重な知識だというのに。人間の手で軽々しく扱って良いものではないというのに。お構いなしに、強欲に、すべてに手を伸ばそうとしてくる。
本につく虫は全て始末しなければ、本はどんどん傷だらけになってしまう。
「あなたはまだ何もわかってないのよ、セティエム。人間の手から、救い出してあげるわ」
シジエムは、セティエムの姿を見下ろした。
ちょうど一角獣の槍で竜の尻尾を受け止めて跳ね返したセティエムは、使われすぎてだいぶ疲れているのだろう、輪郭がぼうっと光って揺れている。
開いているのはもうじき限界なのだ。
セティエムが閉じてしまえば、人間たちにはもう爆炎の赤竜に立ち向かう術はない。そうしたら、人間たちを燃やし尽くして、閉じたセティエムを回収すれば良い。
「あと少しの辛抱ね」
シジエムは桜色の唇の両端を持ち上げて、造り物のような微笑みを浮かべた。
地上では、馬鹿の一つ覚えみたいに氷で壁を作って、水でカーテンを作って、竜が吐き出す炎を防いでいる。氷と水が炎にぶつかって、大量の水蒸気を生み出す。
水蒸気はセティエムの姿も人間たちの姿も覆い隠したが、シジエムはなんの心配もしていなかった。
「人間たちは、どうせそれしかできないのだから」
水蒸気の中から、一羽の大きな──と言っても竜と並べば小さな大鷲が舞い上がってくる。
「悪あがきばかり」
大鷲は竜の鼻先を飛んで、気をそらそうとする。竜は邪魔そうに、首を振った。
「付き合ってあげても良いのだけど」
竜が大鷲に向かって炎を吐く。大鷲は一層高く舞い上がるが、竜はそれ以上追わずに、また地上を見下ろした。
「今はセティエムを疲れさせて閉じさせる方が良いかしらね」
シジエムも地上を見下ろす。水蒸気のもやが薄れてゆく。
「それとももう、セティエムは閉じてしまったかしら」
首を傾けたシジエムは、次の瞬間目を見開いて頭上を見た。咄嗟に身を引いたその場所に、一角獣の槍が空気を切り裂いて落ちてくる。槍の穂先はそのまま、竜の肩に深く突き刺さった。
シジエムのリボンがちぎれ、金の髪の毛が幾筋か舞い散った。
その目の前で一角獣の槍を握っているのは、セティエムとその所有者の人間の女だった。




