26 シジエムの知識は
セティはその小さな体で、自分よりも大きい一角獣の槍を構える。
シジエムは、竜の肩に座ったまま、冷たい目でセティを見下ろしていた。
竜が、顔を持ち上げて喉を伸ばす。その口元からは、すでにちろちろと炎がこぼれ出ていた。
「碧水の蛙!」
「氷華の兎!」
炎を防ぐための、水のカーテンが、氷の壁が、セティとソフィーの前に現れる。
リオンは、大鷲を操って今にも炎を吐き出そうとしている竜の鼻先を飛んだ。邪魔そうに、竜が大きく首を降る。そして、その顔が大鷲を追いかけて口を開く。
吐き出された炎を、大鷲は羽ばたいて、風の力も借りて上空にかわした。
セティは氷の壁の上に飛び乗ると、ぐ、と膝を曲げて体を沈ませた。そして、竜の喉元に向かって、跳んだ。
水のカーテンを破って。真っ直ぐに。標的に向かって。その跳躍もまた、白輝の一角獣の知識だった。
白銀の槍が竜の喉元に食い込む。全ての勢いと、体重をかけて、セティは槍を押し込んだ。
傷口からインクのような黒い液体があふれ出る。それは、本の知識だ。竜は口を上に向けて、咆哮した。
セティは槍を抜く。傷口から、黒い液体がぼとぼととこぼれ落ちる。止まらない。
セティは地面に飛び降りる。難なく着地できたのも白輝の一角獣の知識のおかげだ。そして一跳びでソフィーの隣まで戻ってきた。
竜は大きく頭を振って暴れる。暴れるたびに、傷口から黒い液体はあふれ出て、辺りに飛び散った。
傷は深い。致命傷に見えた。紡ぎ手の蜘蛛の糸でも修復はできない、知識の深くまで損なわれた傷。今もその知識は失われ続けている。
セティも、ソフィーもリオンも、その光景に希望を見出した。これなら竜を打ち倒せる。勝てる!
三人の表情がそれぞれに、明るく輝く。
シジエムは慌てる様子もなく、なだめるように竜の鱗を撫でた。その手が、指先が、ぼうっと光を放つ。その光が赤い鱗を撫でていき、喉元を登って傷口に辿り着く。
シジエムの光に覆われると、傷口からあふれる黒い液体が止まった。そのまま傷口がふさがってゆく。光の中で、竜の皮膚が鱗が再生してゆく。そして気づけば、何事もなかったかのように、傷は消えていた。
「わたしの知識は再生。どんな本のどんな傷でも再生できるの」
シジエムの声は静かだった。気づけば、竜の咆哮も止まっていた。
自分の力で竜の傷がふさがったのを確認して、シジエムは微笑んでセティを見下ろした。
「何をやっても無駄。あなたたちにこの本は倒せない」
見出した希望は、まるで幻のように消えてしまった。
竜の頭上を飛びながら、リオンは小さく舌打ちした。
「また最初っからやり直しかよ」
毒づく声は天井高く、誰にも届かなかった。
ソフィーの隣で、セティは片膝をついた。竜との対峙を助けてくれるはずの一角獣の槍が、急に、大きく重く感じられた。
体の輪郭がぼんやりと揺らぐ。頭を振って、踏みとどまる。
まだ、閉じるわけにはいかない。セティは必死に顔をあげて、シジエムを睨んでいた。その瞳は、まだ希望を失ってはいなかった。
隣でソフィーは、次の竜の動きに備える。セティは疲れている。竜の動きに反応できていない。
炎であれば碧水の蛙で多少はしのげるが、前脚や尻尾での打撃を防ぐ手立ては今のソフィーにはない。
(いざとなったら、自分が抱えてでもセティを守る。セティに託す)
リオンが、竜の視界を横切るように大鷲を飛ばす。竜の大きな眼が、それを追って動く。吐かれる炎と、風に乗ってそれを避ける大鷲。繰り返された光景。
けれど、竜の尻尾が、まるで虫でも払うように動いた。セティは咄嗟に動けなかった。ソフィーはセティを抱えて、その腕の中にかばった。
「氷華の兎!」
反応は遅れたが、セティは氷の壁を作り出した。伸び上がる途中の壁は、たやすく崩され、尻尾はそのままソフィーの体を打ち払った。
「ぐ、ぅ」
苦しげな呻き声をあげて、セティを抱えたままソフィーの体が地面を転がる。それでもソフィーの腕は、セティの体を頭を守っていた。
「ソフィー!」
転がったソフィーの体から抜け出して起き上がると、セティはソフィーを覗き込んだ。ソフィーは地面に転がったままセティを見上げて微笑んだ。
「大丈夫、少し痛かったけど、このくらい平気」
「でも!」
ソフィーが起き上がろうとして顔をしかめる。セティは目を見開いて、その苦しげな表情を見つめた。
さらに追撃をしようと、竜が前脚を持ち上げる。その目の前に、大鷲は降りていった。前脚のすぐ前、ぎりぎりのところを飛ぶ。ソフィーから少しでも意識をそらせるために。
「ああ、本当に邪魔ね。先にそっちをなんとかしちゃって」
シジエムが感情のない声で竜に命じる。竜が炎を吐き出して、リオンはそれをぎりぎりで避ける。何度も繰り返すうちに、大鷲の動きにも疲れが見えていた。
リオンは少しずつ下に下に追い詰められていた。そこへ前脚が襲いかかる。わずかに避け損なって、大鷲の羽が宙を舞った。
間髪入れずに長い尻尾が大鷲とリオンを叩く。リオンは大鷲ごと、壁に叩きつけられた。寸前のところで、疾風で衝撃を多少は弱めることはできたが、それでもそのまま地面に崩れ落ちた。
ふふ、とシジエムが笑う。
「セティエム、もうわかったでしょう。あなたたちでは勝てない」
体を起こそうとするソフィーを抱えて、セティエムは唇を震わせた。そんなことないと言い返したいのに、言葉が、何も出てこなかった。
さっきまで感じていた勝利の希望は、今はもう粉々に打ち砕かれてしまっていた。
「ねえ、セティエム。わたしは人間たちには興味はないの。だから、あなたがわたしと一緒に来るなら、そこの人間たちは殺さずに見逃してあげる」
その提案がまるで慈悲深いものであるかのように、シジエムは微笑んだ。造り物めいた顔で。
セティはその表情を見上げながら、ソフィーの手を握った。温かい。この体温が、失われてしまうのは嫌だと思った。




