23 グリモワール
セティの長い睫毛が持ち上がって、まぶたが開かれた。その様子を、ソフィーは上から覗き込む。
「おはよう。調子はどう?」
ソフィーの声は大きくはなかったけれど、静かな部屋の中ではよく響いた。
セティはしばらくの間、ソフィーの顔を見上げてぼんやりしていた。けれど、自分がソフィーの脚に頭を預けて寝転んでいると思い出して、慌てて飛び起きた。
「も、もう大丈夫だ! 全然なんてことない!」
「あーあ、羨ましいね、膝枕」
リオンのからかうような声に、セティは怒った顔で頬を赤く染める。ソフィーはリオンを小さく睨んだ。
「リオンはそうやってすぐにからかわないで」
「はいはい」
リオンは肩をすくめて、応急処置テープだらけの腕をぼろぼろになった上着の袖に通した。
ソフィーは小さく溜息をついて、立ち上がる。
「さて、今日はもう終わりにしましょうか」
「そうだな。収穫もあったことだし」
リオンも立ち上がると、上着の裾を引っ張る。セティは何度か瞬きをしてから、慌てて立ち上がった。
「俺ならまだ全然平気だ! もっと進んでも」
ソフィーが腰をかがめてセティの顔を覗き込む。
「駄目。こんなところで休息するなんて、本当は結構無茶をしたんでしょ」
「それに、余力があるうちに戻る方が良い。帰り道にだって何があるかわからないからな。引き際を見極めるのは、探索者として大事なことだ」
リオンにも言われてもまだ、セティは納得いかないような顔をしていた。それでも、しばらく考え込んでから、渋々といった様子ではあったけれど、頷いた。
「わかった。二人がそう言うなら、俺もそれで良い」
素直なセティの言葉にソフィーが微笑んだときだった。
不意に、空っぽだった部屋が変わった。一瞬のことだった。
「え、何……?」
「巣? 本がいるのか!?」
ソフィーとリオンは目を見開いて周囲を見回す。部屋の様子が一変していた。
白と黒のタイルが交互に敷き詰められた床。優美な曲線を描く木彫りのテーブルと、揃いのチェアー。
グレーのストライプの壁。鳥かごのような形の小さな窓には黒いレースのカーテンが揺れていて、その向こうには夜空が見えた。
よく磨かれた艶のある木の棚。そこに並べられているのは、繊細なガラスの置き物たちだった。脚を大きく上げてバランスをとるプリマドンナ。チェロを弾く男性。花束を抱える少女。手を取り合って踊る男女。
そんな様々な姿が、乱雑に、けれど触れれば壊れそうな佇まいできらきらと、造られた表情で並んでいる。そんな置き物たちに、ソフィーは見られているような気分になって、一人ぞっとする。
セティはぽかんと周囲を見回していた。
その部屋は、生活感はないけれど、まるで誰か人間の部屋のような空間だった。本の巣と呼ぶには不自然で、それがソフィーとリオンには不気味だった。
そして、ふふふ、と少女の笑い声が部屋の中に響いた。
「誰!?」
ソフィーが警戒した声をあげる。
気づけばテーブルの脇に、いつの間にか少女が立っていた。セティと同じくらいの──わずかにセティよりも高い背丈。金色のふわりと膨らんだ髪を頭の両脇で二つに結び、白いレースと黒いリボンで飾っている。
黒いワンピースは、襟や袖口、膨らんだスカートの裾に白いレースがあしらわれている。白い顔は人形のように整っていて、ガラスのような青い瞳がセティを見つめている。
綺麗なその顔立ちは、どこかセティに似ていた。
「やっと見つけた、セティエム」
少女はそう言うと、淡く桜色に色づいた唇でにっこりと笑った。
「セティ、知ってるの?」
ソフィーは少女から視線を外さないまま聞いた。セティは眉を寄せて首を振る。
「知らない。俺は、こいつなんか知らない」
少女はセティの拒絶にもさして表情を変えず、微笑んだままだった。
「そう。あなたは一番年下で、造られてすぐに閉じられたから、何も知らないのよね」
芝居がかった仕草で、少女は自身の胸元に手を当てた。
「わたしはシジエム・グリモワール、アンブロワーズが造ったグリモワールシリーズの六番目」
次には胸に当てた手を、セティに向かって差し伸べる。その仕草はやっぱり、どこか芝居がかっていた。
「あなたはセティエム・グリモワール。七番目。最後のグリモワール。
つまり、わたしはあなたのお姉さんってことよ。よろしくね」
ふふふっと笑い声をこぼして、少女は首を傾けた。まるで人間のように喋り、笑う。けれどその表情はどこか造り物めいて見える。
セティを見たときは人型の本なんて信じられないと思っていたリオンも、その少女は確かに人とは違う、きっと本なのだと、感じていた。
「なんの用だ!? 何しに来たんだ!?」
セティは不安を警戒に変えて、噛みつきそうな顔でシジエムと名乗った少女を見ていた。対するシジエムは穏やかに目を細めてセティエムを見つめている。
「あなたを迎えに来たのよ、セティエム。一緒にお兄様やお姉様のところに行きましょう」
少女は右セティに向かってその白い指先を差し伸べたまま、そう言った。セティは拒否するように首を振って、一歩退がる。
「いやだ」
「どうして? グリモワールシリーズは特別な本なのよ。もちろん、あなたも。あなたのことはわたしたちが一番良くわかっているし、兄弟は揃っているべきだと思わない?」
シジエムは首を傾けた。セティエムは小さく「きょうだい」と呟いた。
「そう。可愛いわたしたちの弟。特別な七番目。真っ白なまま生まれた特別なグリモワール。その白い頁を汚さないまま、書庫の奥で暮らしましょう」
セティは目を見開いてシジエムを見る。ゆったりと微笑んでいるシジエムを、睨む。
「違う! アンブロワーズのじいさんは、俺に知識を集めろって言った! 頁を埋めろって言った! 俺は頁を汚してるんじゃない! 頁を埋めて、俺は成長するんだ!」
セティの言葉に、シジエムははじめて表情を変えた。悲しそうに眉を寄せて、セティを見つめ、それからソフィーとリオンを順番に見る。
「それで、人間なんかに使われているの?」
「ソフィーに使われてるわけじゃない! 俺が一緒にいてやってるんだ!」
「その結果、頁を汚しているの?」
「汚れてない! これは俺の知識だ! こうやって知識を集めて、俺はいつか大魔道書になるんだ!」
「本は、造られたときのままが一番綺麗なのよ」
会話にならないことを感じたのか、シジエムは悲しそうに溜息をついた。気づけば、セティに差し伸べたその手のひらの上に、一冊の本が乗っている。
「まあ、どのみち所有者の人間は邪魔だものね。そこの人間たちを殺して、あなたを連れてゆくことにするわ」
そして、シジエムの「開け」という声が響く。手のひらの上の本が、ぼんやりと光を纏う。
「爆炎の赤竜」
シジエムの手のひらの上で、本の輪郭が曖昧になる。
それとともに、巣の様子も変わってゆく。きっちりと四角い輪郭をしていた部屋は、でこぼことした岩肌になる。あちこちに苔むした様子まで見えた。
天井は見上げるほどになり、周囲はすっかり洞窟の中の開けた空間になっていた。そして、その巨大な空間に姿を現したのは、赤い鱗の竜だった。
第四章 疾風の大鷲 おわり




