22 セティの休息
斥候の蝙蝠は全力で飛んだ。けれど大鷲の方がずっと早い。蝙蝠は右に左にとジグザグに飛んで逃げる。大鷲はそれに一気に追いつく。
そして大鷲は脚を前に突き出し、鉤爪を広げ、獲物を捕まえる体勢をとる。その鉤爪が蝙蝠を捕まえるかと見えたそのとき、斥候の蝙蝠は蜘蛛の糸を潜り抜けた。
蝙蝠の体では潜り抜けられた蜘蛛の巣は、けれど大鷲の体では避けることができない。広げた鉤爪は蜘蛛の巣に引っかかり、大きく広げた羽に蜘蛛の糸が絡んで、大鷲がもがき、高く鳴き声をあげた。
もがくたび、蜘蛛の細い糸は大鷲を逃すものかと羽を絡め取ってゆく。
「紡ぎ手の蜘蛛!」
座り込んだままのセティが、とどめとばかりに手をあげてさらに蜘蛛を呼び出す。蜘蛛の巣に張り付いた大鷲の体に、さらにカーテンのように蜘蛛の糸が絡む。
それでも暴れる大鷲の勢いは、今にも糸を突き破らんばかりだった。糸の隙間から突き出される嘴と鉤爪に、セティは身を守るように手を振った。
「氷華の兎!」
大鷲の目の前で、ぴょんと氷色の兎が飛び跳ね、氷の壁が迫り上がる。
所有者になろうと手を伸ばして踏み出していたソフィーが、氷の壁に阻まれて一歩下がる。
実際、せり上がった氷の壁は、伸ばされた鉤爪が当たって削られたので、ソフィーがそのまま正面から飛び込んでいたら危なかっただろう。
氷が削れる音に、ソフィー自身も自分が危ないことをしようとしてたことを理解した。それでもソフィーは、所有者になれなかったことに、伸ばした手が届かなかったことに、唇を噛んだ。
その間にリオンが追いついた。リオンは蜘蛛の巣に磔になってもがく大鷲の、羽に手を触れた。
「我が呼び声に応えよ! 我リオンは汝の所有者なり!」
息を切らせながら、リオンが叫ぶ。大鷲の体がぼうっと光る。暴れてもがいていた大鷲が、大人しくなる。
リオンは所有者として受け入れられた。
ほっと力を抜いて、リオンは大鷲に触れたまま、命令した。
「閉じろ」
大鷲のぼうっと光る輪郭が曖昧になる。そして、あれほど大きかった大鷲の姿は、リオンの手のひらの上で、四角い本の姿になっていた。その題名は、疾風の大鷲。
同時に、草原の景色も消えた。あれほど高かった空も消えて、今は普通の高さの石の天井が見えていた。
部屋の中央に大きな灯りがある。それ以外は、がらんと何もない部屋だった。
風もなくなり、急に訪れた、しん、とした静けさは、耳がどうにかなってしまったかと思うほどだった。
「終わっ……た」
座り込んでいたセティの体がぐらりと傾く。近くにいたソフィーが慌ててその体を支えると、すぐ隣に座って、自分の脚の上にセティの頭を乗せた。
「どうってことない……平気だ」
反論するセティの声は弱々しく、起き上がろうとするも体は動かない。
「平気じゃないでしょ!」
ソフィーはセティの肩を押さえて、膝枕を強行する。
「良いなあ、俺も膝枕で休みたい」
ふざけるリオンをソフィーはちらりと睨んだ。
「リオンはもう子供じゃないんだから駄目。本は譲ってあげたんだし、自分でなんとかしてちょうだい」
「ちぇ」
「俺を子供扱い……する、な……」
セティは口を尖らせたが、それ以上は何も言えずに、すとんと休息してしまった。ソフィーが微笑んで、その黒髪をそっと撫でる。
リオンも近くに座ると、上着を脱いで腕にできた傷の手当をはじめた。
しばらくは、ソフィーもリオンも、どちらも何も言わなかった。セティもただ静かに休息していた。
「ソフィー、背中の傷見てもらえるか」
リオンが中に着ていたタンクトップを脱いで、ソフィーに背中を向けた。ソフィーはセティから視線をあげて、リオンの背中を見る。
赤くなっている箇所はあるが、皮膚が裂けるようなひどい傷はない。
「背中は大丈夫そう。上着のおかげね」
「サンキュ」
リオンはまたタンクトップを着ると、上着を肩に羽織った。この上着は探索者向けの装備で、胴体部分──胸と腹と背中に保護具が仕込まれている。
リオンは今回、腕には傷を負った。上着の背中も引き裂かれてボロボロだ。けれどリオン自身の背中は、保護具に守られて無事だった。
とはいえ、あの大きさの生き物に激しくぶつかられて、痛いものは痛かったのだが。
「それに上着は買い直しだなあ。ここまでボロボロになっちゃ」
リオンは大きく溜息をつく。
「仕方ないね。むしろ、上着だけで済んで良かったと思わなくちゃ」
ソフィーの言葉にリオンは肩をすくめた。
「まあな。とはいえ、また出費か。一攫千金は遠いよ」
冗談めかしたリオンの言葉に、ソフィーはくすりと笑った。二人で顔を見合わせて、ようやく緊張がほぐれてきたことをお互いに実感する。
「無事に部屋付きも手に入ったし、今日はここまでにするか」
「そうね。セティも限界みたいだし……セティが起きたら、戻りましょう」
ソフィーはまた、セティの寝顔を見下ろす。長いまつ毛が、頬に影を作っていた。
「閉じれば良いんじゃないのか?」
リオンの疑問に、ソフィーは首を振った。
「閉じようとすると拒否されるの」
「拒否? 所有者の命令を?」
「まあ、まだ所有者だって認めてもらえてないんだけどね。それだけじゃなくて、何か嫌みたい、閉じられるのが。何か嫌な思い出でもあるのかも」
「思い出? 本が? それで閉じられるのが嫌で命令を拒否、だって?」
リオンは眉を寄せてセティの寝顔を見た。綺麗な顔は確かに造り物めいている。本だというのは信じがたかったけど、それでも特別な何かなのだというのは、もうじゅうぶん納得できた。
ソフィーは苦笑してリオンを見る。
「そういうところも特別な本なんでしょうね」
セティは、複数の知識を同時に扱うのは大変だと言っていた。紡ぎ手の蜘蛛を細かく操るのも、だ。
けれど、それだって最後にはきっちりとやり遂げてみせた。
そのときの真剣な表情をソフィーは思い出す。
「そういえば、成長する本だって言ってた」
「成長する?」
「そう。知識を食べて自分のものにすることを言ってるんだと思ってたけど、もしかしたら……セティ自身も成長しているのかも」
うまく扱えなかった知識を扱えるようになったり、より複雑に操作できるようになったり。それだけじゃない、罠をちゃんと警戒するようになったり、人と話して連携できるようになったり。
確かにそれは「成長」と呼べるものだ。
普通の本はできることが決まっている。刻まれた知識が決まっているからだ。だから、決まったことしかできない。所有者の意思にしたがって、それを繰り返すだけ。
けれど、セティはそういう部分も異質だった。
「こうやって見てると、ただのガキなんだけどな」
リオンの言葉に微笑んで、ソフィーはまたセティを見下ろした。
そもそも本が人間の姿をしてること自体が、探索者の常識外のことだ。その上、まるで本当に人間の子供のように、知らないことを知って、考えて、成長している。
このまま成長したら一体、セティはどうなるのだろう。ソフィーはセティの白い頬にかかっている黒髪をそっと指先で払った。
セティは目を閉じて、じっと休息していて動かない。
本人が言う通りに「大魔道書」になったそのときの姿を、ソフィーは想像できないでいた。




