2 生意気な少年
まぶたを持ち上げた少年は、何回か瞬きをしてから周囲を見回した。部屋の中はソフィーの肩に止まっている炎の蝶しか明かりがない。少年はわずかに目をすがめてから、諦めたように小さく息を吐いて首を振った。
黒い髪がさらりと揺れる。
ソフィーはその様子を見ながら、どうするかを考えていた。人の姿をしているということは、この本は話せるのだろうか。こちらの言葉を理解はできるだろうか。
(なんにせよわたしは所有者なんだから、意思は通じるはず……だよね?)
それで、そっと声をかけることにした。
「あの、あなたは」
その声を遮って、少年はソフィーを睨みあげた。
「お前みたいなのが所有者だなんて、俺は認めないからな!」
声変わり前の、透き通った声だった。
ソフィーは最初ぽかんと口を開いて──少しして、何を言われたのかをようやく理解した。
開いている本に所有者になることを拒否されることはある。そういう本は、動きを止めたり疲れさせたりと所有者になるまでに苦労することになる。
でも、そういう本だって、所有者になった後に、こんなふうに拒否されることはなかった。
少なくとも、ソフィーは今まで、そんな話を聞いたことはない。
「待って。だって、わたしちゃんと所有者になったはずだけど?」
「それでもだ! 俺の所有者は、アンブロワーズのじいさんだけだ!」
「アンブロワーズって書架の……」
ソフィーは瞬きをする。
書架を作った魔術師アンブロワーズだけが所有者だという少年。ありえないことばかり。飲み込み難いことばかり。だけど、やはりこの少年は本ではあるらしい。
少年の姿の本は、自慢げに胸をそらして、顎を持ち上げた。
「俺をその辺の本と一緒にするなよ。俺は特別なんだからな」
「ええっと……」
ソフィーの中にはいろんな疑問が渦巻いてはいたけれど、一回首を振って全部脇に置くことにした。
今はとにかく書架を出て、落ち着いて話せば良い。そう思ったのだ。
「わかった。ともかく、外で話しましょう。ちょっと待っててね」
ソフィーはそれだけ言うと、いつも自分の本にしているみたいに、手を差し出して命令する。
「閉じろ」
「いやだ! 命令は聞かない!」
「は!?」
本は、所有者の意思と命令に従うものではなかったのか。命令を拒否されて、ソフィーは混乱した。
「どうして!? わたしちゃんと所有者よね!?」
「だから認めないって言っただろ! 命令も聞かない!」
ふふん、と少年は自慢げな顔で腕を組む。
ソフィーは額を押さえて溜息をつく。
「命令を聞かないなんて、どうやってやってるの」
「俺は特別なんだ。なにせ、アンブロワーズのじいさんの最後の作品にして、最高傑作だからな」
少年は人差し指をぴんと立てて、びしっとソフィーに突きつけた。
「お前なんかに、この俺が扱えるはずがないんだ」
「どういうことなの……」
ソフィーの混乱が伝わったのかどうか、肩に止まっていた炎の蝶が羽ばたいて、周囲を飛び回り始めた。
少年はその姿に気を取られて、炎の蝶を視線で追いかける。その口元に、人を馬鹿にしたような笑みが浮かんだ。
「ふん、こんな小物で良い気になってるなんて。やっぱりどうってことないな、お前」
その姿は、生意気な少年そのもの。生意気で、わがままで、偉そうで、言うことを聞かない子供。
でも、本なのだ。
本人の言葉によれば、魔術師アンブロワーズの最高傑作。
(いったい、その中にあるのはどれほどの知識なの……?)
ソフィーは少年の姿を見て考える。
きっと、自分はとても運が良い。そのくらい、この少年は貴重な本なはずだ。せっかくその所有者になれたのだ。手放したくない。
ソフィーは腰をかがめて、少年と視線の高さを揃えた。顔を覗き込めば、少年はきょとんとした顔でソフィーを見返した。
そういう表情は、まるっきり年相応の幼さを持っていた。
「あのね。ともかく、書架を出てどこか落ち着けるところに行きましょう」
ソフィーの言葉に少年はつまらなさそうに唇を尖らせた。
「命令は聞かないからな」
「これは命令じゃなくて、お願い。あるいは、提案。
あなたは最高傑作なんでしょう? わたしはそんなあなたに興味があるし、話を聞きたい。その間に、あなたもわたしのことを知ってちょうだい。
それでももし、あなたがわたしのことを認めないなら、わたしはあなたの所有者になるのを諦めるから。
なんにせよ、落ち着いて話す時間が必要だと思わない?」
少年は、ソフィーの顔を見たまま、何度か瞬きをした。それから首を傾けて、何かを考えるように視線を揺らす。
ソフィーは辛抱強く、少年の言葉を待っていた。
次に少年がソフィーを見たとき、ソフィーにとっては思いがけず、少年は不安そうな表情をしていた。
「書架の外に出るのか?」
ソフィーはその表情に気づかない振りをして、なんでもないように頷いた。
「そうね。その方が安全だし。落ち着いて話もできると思うし」
「俺は……外に出たことがないから……」
少年が、眉を寄せてうつむく。ソフィーは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫。別に怖いことはないから」
「別に俺は怖いわけじゃないんだからな! 俺は最強なんだ、怖いものなんてない! ただ! ただ……外のことはわからなくて、初めてだし、うまく判断できなくて……でも、怖くないから、行く」
最後の方はふてくされたような声になっていた。
ソフィーは何気なく、その頭に手を置いて、さらさらと流れるまっすぐな髪を撫でた。少年がすぐにその手を払いのける。
「子供扱いするな!」
「えっと、わかった。ごめんね」
「外に行くんだろ! さっさと行くぞ!」
さっきまでの不安そうな表情はどこにいったのか、少年はもうすっかり偉そうに胸を張って顎を持ち上げている。
ソフィーは苦笑して、かがめていた腰を伸ばした。それからふと、思い出したように声をかける。
「あのね、わたしはソフィーっていうの」
「……ソフィー?」
「そう、わたしの名前。あなたは? なんて呼んだら良い?」
所有者になると、本が持っている知識とその題名も知ることができる。ソフィーはこの本の所有者になって、当然にその題名も知れたけれど、それをこの少年の呼び名にして良いのか、ソフィーにはわからなかった。
少年は少し、何かを思い出すように視線をさまよわせた。それからふと、呟く。
「……セティ。そう、言われた」
「そう、セティね。とりあえず、よろしく」
よろしく、と言われたセティは、どう反応したら良いかわからないかのように、そわそわと落ち着きなく周囲を見回して、それからぐいと顎を持ち上げた。
「ふん、よろしくしてやる」
話せば案外素直な子かもしれない。そう思ってソフィーは、ふふっと笑った。