16 特別なセティ
とにかく休憩が必要そうだ、とソフィーは判断した。リオンも同じだった。
念のため影狩の猟犬で罠がないことを確認して、羅針盤の金糸雀で本が遠いことも確認する。
身を隠すこともできない通路だったけれど、そのまま座って休憩することにした。石積みの通路は静かで、さっきまでの緊張は静かな空気にゆっくりとほどけていった。
ソフィーの頬の傷は、表面だけだったようだ。もう血も出ておらず、傷も塞がってほとんど見えなかった。
「傷が残らなそうで良かったな」
「そうね、たいしたことがなくて良かった」
リオンの言葉に、ソフィーはにこりと笑みを返した。
「なんだ、このくらいで休むなんてだらしない。俺は全然平気だぞ」
セティはそう言って自慢げな顔をしていたが、ソフィーがチョコレートを出したらすぐに隣に座った。
「仕方ないから、付き合ってやっても良い」
そんな言葉も、チョコレートのかけらを口に放り込んでにんまりと笑っているから、年相応の可愛げがあった。
ソフィーも自分でひとかけ、チョコレートを口に含む。甘い香りが口の中で溶けてゆく。それと一緒に、疲労も溶けてゆくような心地だった。
リオンもチョコレートを口にして、水を一口飲んだ。そうして一息ついて、口を開く。
「で、だ」
リオンが何を話そうとしているのか、ソフィーはなんとなくわかって、黙って続きをうながした。
「そこのガキが普通じゃないのは、わかった。
正直、本だっていうのはまだ信じられない。でも、本以外の何かだっていう気はしない。だから、そいつが本だっていうのは、信じるよ」
ガキと言われて、セティが唇を尖らせる。それでも、何か言う前にソフィーがもうひとかけらチョコレートを渡して「黙っていて」と言ったから、セティは大人しくしていた。
「あのね、リオン、セティが本だっていうのは」
「秘密にしとけって言うんだろ。当たり前だ、こんなとんでもないこと、言えるかよ」
「ありがと」
リオンは大げさに溜息をつく。
「それで、ソフィーはどうするつもりなんだ?」
「どうするって?」
首を傾けるソフィーに、リオンは眉をしかめてみせた。
「あのなあ、わかってないわけじゃないだろ。人間になる本、しかも他の本を食べて知識を増やす? 普通じゃない。
一攫千金どころじゃない、大発見だ。ヤバいやつだよ。これは探索者の勘だけどな、下手したら死ぬようなヤバさだ。
それでも、ソフィーはこのガキの所有者をやり続けるのかよ」
「下手したら死ぬのは探索者やってる限り、変わらないじゃない?」
「あのなあ、そういうことじゃなくてだ」
「わかってるよ、ありがと」
ソフィーは片手をあげて、身を乗り出してくるリオンを押しとどめた。それから、何を言うか考えるように黙って、その視線をセティに向ける。
セティは、自分の話をされているのが気に入らないのか、少し不機嫌そうにして、でもソフィーに「黙って」と言われているからか、大人しくしていた。
命令は聞かないなんて言っていたのに、とソフィーは少しおかしくなる。
「セティはやっぱり特別だと、わたしも思う。そんな本の所有者になれて、わたしは運が良かったと思ってるよ」
ソフィーはその言葉を、セティの方を見たまま言った。セティは瞬きをして、それから偉そうに胸を張った。
「そうだぞ、俺は特別だ。でも、俺はまだお前を所有者として認めたわけじゃないからな。今は一緒にいてやってるだけだ」
「そうだった。それでも、一緒にいてもらえるのは嬉しいよ」
セティは「当然だ」と言いながらも、認められて、表情は少し嬉しそうだった。
ソフィーはくすりと笑って、またリオンを見る。
「わたしが書架に潜ってるのは、知識が欲しいからなんだ」
「知ってるよ。修復したい本があるんだろ」
「そう。でも、考えたことがあるの。壊れてる本を修復するのって、本を新しく造るのと、そう変わらない知識なんじゃないかって。
つまり、わたしが欲しい知識がもしあるとしても、書架の奥深く──普通では手が届かないような場所にあるんじゃないかって。それって、手に入れることができるんだろうかって、そう考えたんだよね」
リオンは鮮やかな青い瞳を瞬かせた。ソフィーの表情はまるっきり真剣で、言葉もまるで本気に聞こえた。
「でも、セティがいれば、もしかしたらそこまで手が届くかもしれない。そんな気がするんだ。これは勘だけどね」
ソフィーはにっこりと笑った。その笑みは、ソフィーの中にある自信や希望、誇り、そんなものを全部かき集めたように、輝いていた。
それを否定するのは──引き止めるのも、きっと野暮というものだろう。
リオンは負けた気分で大きく息を吐いて、髪の毛をかき混ぜる。
「わかった、わかったよ。ただ……ソフィー、やっぱり俺と組まないか?」
「またその話? わたしは」
「それはわかってる。わかってるけどな、でも、俺も知っちまったから」
リオンはソフィーを見てにやりと笑う。
「俺だって探索者なんだよ。一攫千金狙って命がけで書架に潜ってるんだ。
ソフィーを心配してるのも本当だけど、それだけじゃない。こんな美味しい話、俺にも一枚噛ませろって言ってるんだ。探索者として、な」
ソフィーは何度か瞬きをする。リオンはリオンで、本気で真剣なのだ。探索者としての自信も、希望も、誇りだって、ソフィーと変わるところはない。
ソフィーは息を吐いた。小さく苦笑する。
「そうね。でも、ちょっと考えさせて」
「お、今までで一番良い返事」
リオンの嬉しそうな顔に、ソフィーは眉をしかめた。
「ふざけてるなら、断るけど?」
「ふざけてなんかないって。俺はいつだって本気だ」
「どうだか」
そんな言い合いをしながらも、二人はやっぱり探索者だった。お互いの意地だって、本気だって、ちゃんとわかっていた。
小さな笑い声の後、薄暗い通路はまた静かになった。あとはゆっくりと、疲れを癒すだけだった。
第三章 碧水の蛙 おわり