15 蜘蛛の糸を辿って
掴んだ蜘蛛の糸が引っ張られる感触。
それを引っ張っているのが何か、ソフィーにはわからない。でも確信していた。
「セティ」
ソフィーは張り詰めた糸を握り締める。この先にセティがいる。そしてこの本の本体も、きっといる。
「おい、氷華の兎が」
リオンの声に視線をあげると、走り回って水面を凍らせていた氷華の兎が動きを止めていた。
セティに何かあったのかと、一瞬、悪い想像が頭をよぎる。
けれど氷華の兎はちょこちょこと動き出してソフィーの足元にやってきた。そして、糸の先、水の中にとぷんと飛び込んだ。
「セティが、呼んだ……?」
「何かあったのか?」
「わからない、けど……」
ソフィーは糸の先に手応えを感じていた。セティはまだ諦めてはいないはずだ。
「だったらわたしは、ここで本体を待ち構える」
ソフィーは、その細い糸を手繰り寄せる。
(お願い、セティをここまで連れてきて)
紡ぎ手の蜘蛛の紡ぐ細い糸は、ソフィーのその意思によって繋がっていた。
◆
セティは蜘蛛の糸を辿って水面に向かう。水面に映る光が、徐々に強く見えてくる。
急がない。本の本体が自分についてきていることを確認しながら、ゆっくりと浮上してゆく。
塊になって飛んでくる水は氷で防いだ。
遠くからの攻撃が当たらないことに焦れたのか、足に絡みつかれ、引っ張られた。
ぐん、と蜘蛛の糸が引っ張られて張り詰める。
その細い糸は今にもちぎれてしまいそうで、でも決してちぎれなかった。
(この先にソフィーがいる。ソフィーは俺を信じてるんだ)
ソフィーが何を思って紡ぎ手の蜘蛛をセティのところに寄越したのか、セティにはわからない。けれど、それがソフィーの意思だということはわかる。
ソフィーの意思が今、セティを水面に連れていこうとしている。周囲の水は相変わらず重いけれど、セティはもうひとりだと感じていなかった。
(だったら、俺はソフィーのところに本を連れて行く)
セティは足の周囲を凍らせる。足に絡みついていた水が、するりと逃げてゆく感触があった。
相変わらず、本体を捕まえさせる気はないらしい。
(大丈夫、焦らなくて良い。水面は近づいてる)
そのとき、氷華の兎が白い泡をまとって水の中を落ちてきた。いや、落ちてきたように見えて、ただ落ちているわけではなかった。
セティの目の前にやってきた氷華の兎は、不意に体の向きを変えて、セティの周囲をまるで跳ね回るように動き回った。水の中だというのに。
少し離れたところから水の塊が飛んでくる。それを分厚い氷が防ぐ。
動くものが増えて、本はどちらを狙うべきか決めあぐねているようだった。
(よし、いけ! 氷華の兎! この辺り全部凍らせてやれ!)
セティの意思で、氷華の兎が動き出す。セティの足元まで跳んで、その周囲を跳ね回るように動く。
そして、水が見る間に氷の塊になってゆく。
それを狙って、水の塊が撃ち出される。氷華の兎はそれを避ける。氷にヒビが入ったが、氷はすぐにまた成長する。
(あの場所の氷、あの位置にヒビが入ったってことは、本体はあの辺り)
セティは水中を睨む。もう場所を変えているかもしれない。けれど、セティと氷華の兎を狙っているのだ、そこまで遠く離れはしないだろう。
それに、遠く離れられないように、その向こうの水を凍らせてしまえば良い。
氷華の兎が水の中で跳ね回って周囲を凍らせてゆく。セティも糸を辿って登りながら、本体の逃げ道を氷で塞いでゆく。
本の攻撃でときどき氷に穴が開くが、それもすぐに塞いで、穴が開く前よりも氷の塊を大きくする。
セティは本の本体を確実に水面に導いていた。
そして、水面が近づいてくる。
氷で覆われた水面の、そこにだけ穴が空いているのが見えた。そこから糸が落ちてきているのも。
(もう少し!)
セティは手を伸ばす。
その手を狙って、水の塊が撃ち込まれる。自分の手を凍らせて、それを防ぐ。その間に氷華の兎が回り込んで、周囲の水を凍らせる。
セティはようやく、本の本体を氷に閉じ込めることができた。
◆
水面が揺れて、ソフィーが握る糸が張り詰める。セティはきっと、近くまできている。
唇を結んで、ソフィーは来るものを待ち構える。ソフィーの意識も、握る糸のように張り詰めていた。
ざぷっと、水しぶきと共に宙に押し出されたものは、氷の塊だった。すぐにセティも水面に顔を出した。
空中で、氷が割れて、中から水が溢れ出す。
セティが叫ぶ。
「水! それが本体だ!」
氷の中から出てきた水の塊は、一瞬だけ、透明な蛙の姿を作った。けれどもう次の瞬間には、ただの水の塊になって、水面に向かって落ちてゆく。
まだ水から顔を出しただけのセティが、自分の体ごと水面を氷で塞ぐ。水面が見えなくなる。その氷に、べちゃり、と水が落ちる。まるでただの水たまりのように広がるが、水の中に隠れるのを諦めたのか、すぐに蛙の姿に変わる。
蛙の姿をした水は、逃げ出そうと跳ねた。
そこに向かってソフィーの両腕が伸びる。
蛙はソフィーに向かって小さな水の塊を撃った。セティが咄嗟にソフィーの前に氷の塊を作って、その弾道を逸らす。
水の塊はソフィーの頬をかすめて、赤い血が飛び散った。
「ソフィー!」
リオンの声が大きく響く。
それでもソフィーは動きを止めなかった。水でできた蛙を両腕で抱き寄せる。
「我が呼び声に応えよ。我ソフィーは汝の所有者なり」
ぼうっと蛙はその内側から光を放った。
「閉じろ」
ソフィーの言葉とともに、蛙は輪郭を失い、四角い石の姿になった。その題名は、碧水の蛙。
そして、周囲にあった水も姿をなくす。
セティが軽く手を振れば、氷華の兎もその氷もなくなって、辺りは書架の中、どうってことない通路だった。
リオンが最初に水の中に入れて、引っ張り込まれた棒が、そのまま床に転がっていた。
セティは力を抜いて、ぐったりと冷たい──でも乾いた床に寝転んだ。
紡ぎ手の蜘蛛の糸は、まだ途切れることなくしっかりと、ソフィーとセティを繋いでいた。