12 氷華の兎(フロストブルーム・ラビット)
狭い廊下はずっと続いていた。時折曲がり角はあるが、分かれ道はない。
だからただ道なりに、影狩の猟犬の足跡を辿って、三人は進んだ。
その先で遭遇したのが、水たまりだった。もちろん、ここは書架の中、ただの水たまりではない、それはなんらかの本の巣だった。
狭い廊下を塞ぐように、唐突に水が溜まっている。廊下に高低差があるようには見えないのに、その水たまりは深く水をたたえていた。覗き込んでも暗く揺れる水の動きが見えるばかりで、底が見えない。
リオンが道具袋につけていた細長い棒を手にして、手首をねじるようにした。棒がリオンの身長と同じくらいの長さになる。その棒を、リオンは水たまりの中に差し込んだ。
差し込んだ棒が、まるで何かに掴まれたように引っ張られる。その力に耐えきれず、リオンは棒を手放した。
リオンの身長と同じくらいの長さの棒は、そのまま水の中に取り込まれて消えていった。リオンの背の高さですら、水の中に立って頭が出ないほどの深さがある、ということだ。
「相当深い上に、引っ張り込まれる」
リオンの言葉に、ソフィーはどうしようかと足元を見る。ざわりと、波が寄せるように、水際が足元に寄ってきていた。
「退がって!」
自身も後ずさりながらのソフィーの声に、リオンは一歩退がる。ぼんやり立っていたセティはソフィーに腕を掴まれて引っ張られる。セティはたたらを踏むように後ろに退がった。
「セティも、水に触らないように気をつけてね」
三人の足元に向かって、じわじわと水際が迫ってくる。その動きはゆっくりではあったけれど、のんびりしていられるほどの状況には思えなかった。
「水に触ったら引っ張りこまれて、そのまま取り込まれる感じかしら」
「だろうな」
「本の本体も水の中?」
「多分」
少し考えてから、ソフィーは道具袋から一冊の本を取り出す。
「開け、氷華の兎」
本の光が、氷でできた透き通った兎の姿になる。ソフィーが氷華の兎を足元に放すと、兎は水際を飛び回って水際の水を凍らせた。
じわじわと近寄ってくる水の動きは止まったが、その向こうには相変わらず、揺らめく暗い水面が広がっている。
「これで本体を誘い出せないかと思ったんだけど」
ソフィーはしゃがみこんで、ひんやりとした兎の体を撫でる。氷華の兎が凍らせた水際の氷は、すでに揺れる水面の上で砕けはじめていた。
氷が砕けて溶けてゆくのを見てから、ソフィーは脇に立っているセティを見上げた。セティはつまらなさそうに水たまりを見ていた。
「セティ、炎の蝶でこの水をなんとかできない?」
頼られたのが嬉しいのか、セティは嬉しそうな顔になった。胸を張って自慢げにソフィーを見下ろした。
「俺の力が必要になったんだな? 良いぞ、俺がなんとかしてやる」
「本当にできるのか?」
リオンが訝しげな声を出す。セティはちらとリオンをにらんだけど、すぐにふふんと顎を上げた。
「俺ならできるに決まってるだろ」
「……どうするつもりなの?」
ソフィーはセティに視線を向けたまま立ち上がる。セティは、その足元の兎に向かって、指先を突きつけた。
「その兎を俺によこせ。そうしたら」
「待って、ちょっと待って」
ソフィーはセティの腕を掴んで、その耳元に口を寄せた。
「ひょっとして食べるつもり?」
それは小声だった。ソフィーはリオンの視線を気にして、ちらりと振り返る。リオンは目を細めてソフィーとセティを見ている。
応えるセティは、声を潜めることもしない。
「だって、俺はそうしないと本の力を引き出せないからな」
「でもそれじゃ、リオンにあなたのことがばれちゃうじゃない」
セティは気に入らない、というように眉を寄せた。その表情のままリオンを見る。そして、リオンに向かって指を突きつけた。
「おいお前、邪魔だからどっか行け!」
「はあ!? 大人しく待ってりゃ、なんだそりゃ」
リオンは盛大に顔をしかめた。ソフィーは溜息をつく。
「あのね、リオン、申し訳ないんだけど」
「ここまできて、今更仲間外れとか言わないよな、ソフィー」
不意に、リオンは真面目な顔になった。鮮やかな青い瞳で、ソフィーをじっと見下ろす。
「俺に何か隠したがってることはわかる。それが、そのガキに関係したことだってのも。
それだけじゃない。さっき罠で飛んできた矢を防いだとき、そのガキは本を開かなかった。なのに、炎の蝶を使ってみせた。
そのガキが普通じゃないってのは、もうわかってるよ」
ソフィーは、じっとリオンを見返す。実のところ、もう隠すのは無理だと思っていた。一緒に書架に潜った時点で、隠し通せるはずがなかったのだ。それでも黙っているのはただ、どう話すべきか迷っていたからだった。
小さく溜息をついてリオンの視線から逃れて、ソフィーはようやく口を開いた。
「秘密にしておいてくれる?」
「俺は口は固いよ」
リオンはソフィーに向かってウィンクする。ソフィーはリオンのその様子にちょっとだけ微笑む。それから覚悟したように、鳶色の瞳でリオンを見上げた。
「あのね、セティは……本なの」
「……は?」
リオンは、理解できないというように、目を見開いた。冗談にしても笑えない。それに、ソフィーは真剣な顔をしている。
「信じられないでしょうけど。わたしも最初は信じられなかった。でも、本当なの。
おいで」
ソフィーは足元の氷華の兎を抱き上げて、それをセティに向かって差し出した。
「セティ、どうぞ」
「秘密はもう良いのか?」
「リオンは信用できると思う」
セティはソフィーを見上げて何度か瞬きをした。それからリオンを見て、自慢げににやりと笑った。
「俺の題名はセティエム・グリモワール。覚えておけよ、いずれ大魔道書になる本だ」
「グリモワール……本、本当にか?」
リオンはまだ信じられないというように、ゆるりと首を振った。
セティはそんなリオンの様子にもう構わずに、ソフィーが抱えている氷華の兎に触れた。
「お前の知識、食らってやる。俺の一頁になれ」
氷華の兎はわずかにもがいたが、セティは気にする様子もなくその体を握った。
氷でできた体が光って、その輪郭が曖昧になり、ぼうっとした光の塊になる。その光を、セティは口元に持っていって、飲み込んだ。こくり、と白い喉が動く。
ぼうっとセティの体が光る。
「は。なんだ、今の」
リオンの乾いた声に、ソフィーが振り返る。
「これが、セティが持っている知識なの。他の本を取り込んで、自分の知識にできる」
「そうだ! そして俺なら、本の知識を最大限活用できる! 見てろ! 氷華の兎!」
持ち上がったセティの指先から大粒の氷の結晶が生まれ、ひんやりとした空気をまとって、空間を舞った。
その冷たい空気の中に氷色の兎が姿を現して、ぴょんと跳ねる。氷の結晶は魔術の灯りを映して、きらきらと輝いてセティの周囲を漂っていた。