100 失くしたくない
「碧水の蛙!」
ソフィーは碧水の蛙の水を薄く鋭く──一枚の刃にした。それをサンキエムが伸ばす鞭閃の舌長蜥蜴の舌に振り下ろす。
サンキエムは傷を恐れて舌を引っ込めるようなことはしなかった。水の刃はそのまま、舌を切り裂いた。張り詰めていた舌が力の行き場を失い、宙に放り出される。その切り口からは、インクのような黒い液体が流れ落ちる。
舌を辿ってソフィーに迫っていた刺撃の蠍は、跳んだ。諦めずにソフィーに向かってきている。
ソフィーはそれも水の刃で切り裂いた。蠍の胴体が真っ二つになる。
舌長蜥蜴も、蠍も、傷ついた体が雪の上に落ちる。白い雪の上に、黒い染みができた。そしてぼんやりと光ると、砕けた本の姿になった。
「開け、刺撃の蠍」
サンキエムはすぐさま新しい本を開く。蠍は今度はサンキエムの手の中で短剣の姿になった。サンキエムは短剣を握りしめて、ソフィーに向かってゆく。
「無駄だよ。どれだけ本を壊しても、僕はいくらでも新しい本を開けるんだから!」
懐に入ってこようとするサンキエムを、ソフィーは鞭閃の舌長蜥蜴の舌を鞭のように振り回して牽制する。サンキエムは一歩退がって鋭く打ち付けようとする舌をかわす。
しなやかに鞭のように舞う舌を掻い潜って、サンキエムはソフィーに迫る。
「ねえ、人間は壊れるとどうなるの? 本と違って閉じないんでしょ? シジエムの再生でも修復できないんだよね?」
ソフィーは体をねじって突き出される短剣をかわす。そのねじった勢いで、舌長蜥蜴の舌をサンキエムに打ち付ける。
びしぃっと鋭い音がして、サンキエムの腕に舌が打ち付けられる。それでもサンキエムは動きを止めなかった。
「僕、お前のことが大嫌いだ! お前が壊れるところが見たいよ! ねえ、壊しちゃって良いよね? お前はセティエムの所有者で邪魔なんだから、壊しちゃえば良いんだよね?」
「させない!」
サンキエムが短剣を握っている右手、その手首にソフィーが放った舌長蜥蜴の舌が巻きつく。短剣の切先は、ソフィーの腹の手前で止まった。
ソフィーはサンキエムの顔を見下ろす。
「わたしはセティの……セティエム・グリモワールの所有者だから! あなたには負けない!」
真っ直ぐなソフィーの視線に、サンキエムは嘲笑を返す。
「傲慢! 人間がグリモワールシリーズの所有者になれるなんて、本当に思ってるんだ!」
サンキエムは空いている左手で、舌長蜥蜴の舌をつかむ。舌が緩んだところで、短剣をソフィーの腹に向かって突き出す。
ソフィーはその右手を掴んで、短剣が自分の体に届かないように力を入れる。手首をひねって、短剣の向きを変えようとする。
サンキエムは押し込むのを諦めて、少しだけ引くと、短剣を跳ね上げた。ソフィーは咄嗟に顎を持ち上げて切先をかわす。ウェーブがかった茶色の髪が、幾筋か宙に舞い、吹雪まじりの風に吹き飛ばされた。
ソフィーが一歩退がる。サンキエムが一歩踏み込む。短剣はソフィーの首を狙って横に動く。冷たい風を切り裂く。ソフィーはさらに退がってそれを避ける。
「だってわたしはセティの所有者だもの! 探索者だもの! どんな本だって、写しだって、大事にしたいんだもの! 全部全部、諦めたくない! 諦めない!」
ソフィーが舌長蜥蜴の舌を鞭のように振るう。舌先はしなって、サンキエムの短剣を握る右手を捕まえる。ソフィーがその舌を引っ張れば、サンキエムは手首をひねられて、短剣を取り落とした。
雪に刺さった短剣を、サンキエムは蹴飛ばす。飛んできた短剣を、碧水の蛙の水の塊で受け止めて、そのまま地面に落とした。
「わたしは諦めない! あなたにも負けない!」
今、ソフィーにあるのは強い意思だった。サンキエムに負けたくないというそれだけではない。いろんな感情が、気持ちが、ソフィーの中にあった。
セティの所有者として強くあること、セティを助けて守ること。探索者として危険に立ち向かうこと。同じ仲間であるリオンと助け合うこと。
それから本を大事に扱いたいこと。
それらは全て、今のソフィーを形作る大切なものだった。そのどれも、失くしたくない、諦めたくない。
サンキエムはそんなソフィーの大切なものを全て否定した。だからソフィーは、負けたくなかった。負けるわけにはいかなかった。
「人間なんか、大っ嫌いだ……」
サンキエムの声はうめくようだった。
「そうね。わたしもあなたのことは嫌い。それでも……あなたという本が傷つくのは、嫌だと思ってる」
「欺瞞だ」
「なんとでも言えば良い! わたしは諦めないから!」
そのとき、|凍刃の二足翼竜《ウィヴェルヌ・フォルジェ・パル・レ・グラシエ》の咆哮が響いた。吹雪まじりの風が弱まり、雪景色が消えてゆく。
サンキエムの体から力が抜ける。すっかり雪が消えた石の床に、膝をついた。