1 隠されていた本(ブック)
真っ暗だった。ソフィーは腰の道具袋から手探りで目当ての本を探し当て、取り出した。
本──古い魔術の知識と技術が閉じ込められた、手のひらに収まるほどの四角い石。ソフィーはそれを手のひらに乗せて、はっきりとした声で命令する。
「開け、炎の蝶」
ソフィーの手のひらに乗っている本は、その声に反応してぼうっと光を放つ。表面に刻まれた細かな文様やそれに紛れた文字や記号、そんな線の上を光が走る。
光が強くなってくると、本の四角い輪郭が曖昧になった。その質量も、空気に溶けてゆくかのようにソフィーの手のひらから失われてゆく。
曖昧になった輪郭は、光の中でぐるりと渦を巻き、ぽつりと火が灯る。その火はみるみるうちに大きくなり、蝶の翅をかたどったかと思うと、ふわと儚く羽ばたいた。
ソフィーの手のひらから炎の翅を持つ蝶が飛び立つ。名前の通りの炎の蝶は、ソフィーの周囲をはらはらと飛び回る。
所有者の命令と意思がなければ、何も傷つけることのない、魔術の炎でできた蝶。それが炎の蝶だ。
その炎が、ソフィーの姿を照らし出す。
しっかりとした上着は、体を守る探索者御用達の品だ。その上着の上からも、女性らしい胸のふくらみが見てとれた。下は動きやすいパンツスタイル。
濃い茶色の髪は活動的に肩よりも短く切られ、ウェーブがかって炎の色を艶やかに反射している。意思の強そうな眉の下には、理知的に輝く鳶色の瞳。その瞳には、炎の蝶の炎の色が映っている。
ソフィーはゆらゆらと不安定な炎の蝶の明かりの中で、周囲を見回した。
広くはない部屋だ。端から端まで、ソフィーの足で大股で三歩ほど。
そして、何もない部屋だった。冷たい石積みの壁に囲まれた、行き止まりの空間。床も石が並べられている。
書架の魔術はこんな場所にも行き届いていて、古く使われていない場所の割に埃もなく乾いて清潔そうだった。
(いかにも何かありそうな隠し部屋なんだけどな)
炎の蝶が飛び回るから、ソフィーの影も四方の壁をぐるりと移動した。それを目で追いながら、ソフィーはふと、片手を持ち上げた。
「おいで」
ソフィーの声に反応して、炎の蝶がその指先に止まった。すうっと大人しく炎の翅を閉じる。
炎の蝶が止まった指先を、ソフィーはそっと動かしてぐるりと回る。特定の方向にある時だけ、炎の蝶の炎の揺れ方が変わる。
(もしかしたら)
ソフィーは炎の蝶を壁に近づけ、自分の手でも壁を触ってみた。ざらりとした冷たい石の感触。
しばらくそうやって炎の蝶の揺れを見ながら壁を触って、やがて壁の一部に小さな隙間を見つけた。
ソフィーは道具袋の外に引っ掛けていた細長い金属の棒を手にして、その隙間に差し込んだ。炎の蝶はソフィーの指先から飛び立って、今度は肩で翅を休める。
棒を差し込んで動かしているうちに、隣の石が動いて手前に飛び出してきた。ソフィーは細長い棒をまた道具袋に引っ掛けて、その石を引っ張り出した。できた隙間を覗き込む。
宝石箱のような木の箱が置かれていた。その表面は艶やかに磨かれた飴色をしている。
ソフィーは慎重に木の箱を取り出して床に置いた。
中には何が入っているのか、しゃがみこんで留め金を外して蓋を開ける。何かを包んでいるらしい天鵞絨の布を開く。
そこには、開かれていない本が収められていた。表面には細い線で独特の文様が刻まれている。
(閉じられた本だなんて、運が良い)
ソフィーは木の箱から本を取り出して、小さく息を吸い込んだ。
「我が呼び声に応えよ。我ソフィーは汝の所有者なり」
期待と緊張に、ソフィーの声はわずかに震えていた。それでも、その声に応えて本の表面の文様に光が走る。
(反応した。所有者にはなれた。なら)
「開け」
命令の言葉に、手のひらの上の本がぼうっと光る。その光の中、本の輪郭と質量が曖昧に空気に溶けてゆく。
そして、その光は帯になってソフィーの隣に集まり始めた。
(大型の本?)
ソフィーは黙ったまま、期待の眼差しを集まってゆく光に向けていた。
その視線の先で、光は徐々に形を現してきた。大きさはソフィーの肩に届くか届かないかくらい。二本足で立って、すらりと伸びた腕があって──それは、人間の形に見えた。
華奢な体格の、子供くらいだろうか。
「まさか、人間の姿なんて」
ソフィーは思わず声を出してしまった。
開かれた本は確かに様々な生き物の姿になる。けれど、人間の姿になる本があるとは、ソフィーは聞いたことがなかった。
ソフィーの驚愕をよそに、光の中に少年の姿が見えてくる。
繊細に造られた人形のような白い顔。そこにかかる黒い艶やかな髪。頬に影を落とす長いまつげ。ほっそりとした首筋。
白いシャツに包まれた成長途中の体つき。サスペンダーに吊られた黒い半ズボン。その裾からちらとのぞく膝小僧はつるりとしている。伸びやかな足にソックスガーターで留められた黒いソックス、黒い靴。
体格と背丈から、十歳くらいに見えた。姿だけ見れば、育ちの良い子供に見える。誰も、この少年が本だとは思わないだろう。
ソフィーも、自分が開いたのでなければ、到底信じられなかっただろうと思う。
(これは本当に本なの……?)
それでも確かに、それはソフィーが所有者になって、開いた本なのだった。
完全に光が収まって、少年の姿をした本はゆっくりとまぶたを持ち上げた。
その双眸は、見る者を捉えて吸い込むような、漆黒だった。
◆
その昔、偉大な魔術師アンブロワーズは自分が持つ知識を残そうと考えた、と伝えられている。
けれど同時にこうも伝えられている。自分の知識が悪用されることを恐れたアンブロワーズは、それぞれの知識が自分自身を守れるような魔術を用意した、と。
それが本だ。
本は様々な姿で、自分の巣を作り、近づく者たちから逃げ、時には襲いかかる。
しかしアンブロワーズはそれだけでは満足しなかったらしい。
本たちを納めた書架にも魔術を用意した。侵入者を惑わせるためにその構造は変わり続ける。侵入者を追い返すためにたくさんの罠を用意する。
偉大な魔術師が残した知識の宝庫である書架は、すっかり危険なダンジョンになった。
けれど、どれだけ危険でも偉大な魔術師が残した知識はとても魅力的だった。魔術師が残した知識──本は高値で取引されるようになった。それもあって、書架に入って本を手に入れようとする人たちは、後をたたない。
いつしか、そうして書架に潜る人たちは、探索者と呼ばれるようになっていた。
これは、探索者のソフィーと、ソフィーが出会った本の少年との物語だ。