第3話 大人への第一歩*
十年後です。
「おかしいところはない?」
「よくお似合いですよ、お嬢様。ご安心なさってください」
侍女アマリアの言葉にヴィオラは昨夜準備し、今朝も中を何度も確認した小さな鞄を手に取る。最後にもう一度と中を改め淡いクリーム色の封書が入っていることを確認した。
「緊張するわ」
「大丈夫ですよ。それにしてもお嬢様がもう十五歳になられたなんて。月日が流れるのは早いですわね」
若年寄のようなアマリアの言葉にヴィオラは苦笑する。アマリアはヴィオラの乳母の娘であり、ヴィオラとは四歳しか違わない。主人と使用人の関係ではあるもののヴィオラは彼女を姉のように信頼している。
「面倒臭いと言われたどうしよう。お父様の話では王城主催の夜会にしか参加しないそうだし。もし嫌な顔をされたら……」
「そんなことなさるはずがありません。お嬢様のデビュタントなのですよ?」
貴族の家では子どもは七歳で御披露目され、十五歳になるとデビュタントの夜会を各家で開いて大人の社交界に仲間入りする。
五つ上の兄マクシムのデビュタントも筆頭公爵家ローズウッドの名に恥じない夜会だったがヴィオラのデビュタントはそれ以上の規模になる予定だった。
「やっぱりお兄様かお父様から渡してもらおうかしら」
「お嬢様、こういうものはご自分でお渡しすることで特別な意味が生まれるのです」
「それに」とアマリアの顔が陰り、ヴィオラの顔も痛みを堪えたものになる。
三カ月ほど前、マクシムが何者かに襲われた。
「あのティトゥスの息子」と言われ十八歳のときにソードマスターの称号も得た彼が襲われるなどローズウッド公爵家の誰もが思っておらず瀕死の重傷を負って帰ってきたマクシムの姿にティトゥスも真っ青になっていた。幸い怪我はヴィオラの魔法で治ったが、この事件の捜査でティトゥスもマクシムも忙しくしている。
「お父様もお兄様も私には何も教えてくださらないの。私にはデビュタントに集中しろと言うだけ」
「デビュタントは一生に一度のことですし、この日をお嬢様が首を長くしてお待ちだったのをお二人はよくご存知ですもの」
あの二人にかれば犯人など直ぐに見つかる。屋敷の者は誰もがそう思っていたが、三カ月たっても二人は忙しいまま。むしろ何かに焦っているようにさえヴィオラには見えた。
「仮にお二人がお嬢様の協力を許可しても夜会の準備はほぼお嬢様がなさらなければいけないことに変わりはありません。若様のときはそれはもう大変だったのですから」
夜会の準備はその家の女主人がするのだが、公爵夫人だったヴィヴィアンはヴィオラの出産で命を落としている。そのためマクシムのデビュタントでは『手伝い』と称して公爵夫人や公子夫人の座を狙う大勢の女性が乗り込んできた。
「王妃様まで手伝うと仰って屋敷に乗り込んでくる始末でしたからね」
「あの方は……ほら、ね……血筋だけで王妃になった方だから……」
王妃ロゼニアがローズウッド公爵にご執心。妻を溺愛するローズウッド公爵の代わりに公爵に似た国王の妃となった。これはこの国の平民ですら知っていること、何しろロゼニア自身が隠さないからだ。
「王妃派は亡くなったエレナ様を愛妾と蔑むけれど、脳内お花畑で実務能力のない王妃様に代わって王妃の仕事を出来得る限り代行なさっていたのはエレナ様なのよね」
ヴィオラの言葉にアマリアが少し遠い目をする。
「あのとき王妃様は『夜会の準備をしたことはありますわ』と言って公爵家に押しかけてきましたものね。あれは王妃の仕事を全くしていないと国王派に餌をばらまいたようなものですよね」
ハートフォード王国は王位争いを中心に国王派と王妃派に分かれている。
国王派はこの国が長子相続であることを武器に庶出子だが第一王子のルキウスを王太子に推し、王妃派は血統を武器に第二王子だが嫡出子のノビリスを王太子に推している。
国王派の筆頭は国王の従兄であり王の信頼も厚いローズウッド公爵。王妃派の筆頭は王妃の生家でありノビリスの祖父であるシャドウモーン侯爵。人数でいうなら圧倒的に王妃派のほうが多いが、ローズウッド公爵家と公爵本人の影響力が大き過ぎて国王派がやや優勢になっている。
「お父様の存在そのものが不公平だと思うの」
「娘にそれを言われては立つ瀬がないですね」
「セレンディア宮」
ローズウッド公爵邸の庭の一角にある転移ゲートに着いたヴィオラはゲートの中央で行き先を言う。「有事の際にローズウッドがセレンディア宮を守るため」と言ってこのゲートは城だけでなくセレンディア宮にも繋がっている。
ローズウッド公爵邸のゲートとセレンディア宮のゲートが共鳴し合う独特な音がして、音が止まると同時にヴィオラの体は光に包まれる。その眩しさに反射的に目を瞑るが、目を開ければ広がるのは先ほどとは違う庭だった。
「遅かったな、ヴィー」
淡いピンク色で縁どられた白バラたちに囲まれた四阿。そのベンチに座ったままルキウスがヴィオラに微笑みを向ける。ルキウスだけが呼ぶ「ヴィー」という愛称は聞き慣れていても特別感が拭えずヴィオラには擽ったい。
「お待たせして申しわけありませんでした」
ベンチの横には読みかけの本が置いてあって、読書しながらルキウスがここで自分を待ってくれていたことにヴィオラの心が温かくなる。
「シニスがお茶を準備して待っている」
立ち上がったルシウスは片手に本を持ち、もう片方の腕をヴィオラに差し出す。そのスマートなエスコートの申し出にヴィオラは少し胸が痛くなった。
マクシムと同じ五歳上のルキウスは十八歳で行う成人の儀もすませて大人の仲間入りをし、今回ようやくヴィオラが足を踏み入れられる夜会にも出席している。父や兄からはルキウスは最低限しか社交をしていないと聞いていても、夜会に出るときには誰か女性を伴うのが基本的なルールだ。
こうやってルキウスは自分ではない誰かをエスコートしているのかと思うとヴィオラは不快だし、そのうちの誰かに惹かれたりしたのではないかと思うと心が痛い。
二月後のデビュタントが終われば自分がとヴィオラは思うが……
「やけに難しい顔をしているな」
「え?」
思考に入り込んできた声に驚きつつルキウスを見ると心配そうな顔を向けていた。その表情にマクシムの顔が重なる。
ヴィオラがルキウスと初めて会ったあと、マクシムもルキウスと会うことになった。マクシムと初めてあったときのルキウスの第一声は「俺と似ていないな」だった。
驚くマクシムにルキウスが初対面でヴィオラに兄と間違えられたというと「どんな目をしていれば俺たちを間違えるんだ?」と後日ヴィオラはマクシムに視力を真剣に心配された。しかしヴィオラ自身そんなことを言ったなど覚えていないし、本当にそんなことがあったのかと今でも疑っている。
マクシムとルキウスは百メートル離れていても違いが分かる。マクシムはヴィオラと同じ母親譲りの栗色のふわふわとした髪をしていて、ルキウスは真っ直ぐ地面に向かう黒髪をしている。「父上の子だと言われたほうが理解できる」といったマクシムはティトゥスに拳骨をくらっていた。
こんな幕開けだったがルキウスとマクシムはとても仲が良く、同じ男同士ということでマクシムは暇潰しでセレンディア宮に行けば三日、四日家に帰ってこない。
「お兄様が心配で……」
「ああ……あの二人だ、心配ないさ。ヴィーはデビュタントに集中しないと」
この人もそれを言うのかと思い、ヴィオラはのけ者にされた感じがして少し悲しかった。