6. 魔導師アルテミス
「起きろ、ハイドラ! 出発するぞ!」
正午を過ぎたチュテンの宿。早朝から昼過ぎまでどっぷりと眠りに落ちていた私をケイロンが呼びに来て、今はハイドラの部屋にいる。ケイロンがどれだけ耳元で叫んでも、体を揺すっても、ハイドラは一向に目を覚まそうとせず、迷惑そうに寝返りを打った。
「姉……さ……」
布団を抱き枕のようにして静かな寝息を立てる彼は、身長も相まってだいぶ幼く見えた。見るからに心根の優しい彼が、どうして愚者になってしまったのか……左腕に灼き付いた極悪人の烙印は、宿主のように静かに眠っている。
「誰が姉さんだ。どっちかってぇとコレーの方じゃねぇの」
「ハイドラ、お姉さんいるんだ。どんな人なんだろ」
「……さぁな」
姉さん、と呼ぶハイドラは安心したように顔を緩ませた。きっと良いお姉さんなのだろう。機会があれば、彼に命を救われたと、彼の家族にお礼をしたい。
けれどその朗らかな表情は、軽く触れただけで雪のように溶けてしまいそうな感じがした。
「とりあえずこいつ起こさねぇと」
「ほら、起きて、ハイドラ」
恐る恐る、眠るハイドラの肩を揺らす。剣を軽々と扱うその体は硬く、筋肉で重くて、まるで倒木を揺らしているようだった。
ケイロンの乱暴なやり方で起きなかったのだから、私の力で揺らしたところで期待なんて出来なかったけれど、
「ん……起きるって……」
「あっ、おはよ、ハイドラ」
ハイドラは出会った時には一切見られなかった優しげな表情で、ベッドから私を見上げた。家族に向けるような、油断しきってくりくりとした目だった。
けれど一瞬のうちに、柔らかな雪は心の奥に染み入って消え、踏み固められた地面に戻ってしまった。
「おは……」
「おそよう、ハイドラくぅん」
「…………おそよう」
嫌味なケイロンに、ハイドラは機嫌悪そうに頭を掻いて応えた。
だが、一度目が覚めた後の行動は迅速だった。
彼の異様に速い準備は待つ必要も無く、五分余りで馬宿に預けていた二頭に乗ってチュテンの街を出発した。平和とは程遠い時代に、彼ほどの剣士が訓練するのは剣技ばかりではないのだろう、すでに彼の目はシャッキリと開いていて、馬上の高い位置から街道沿いを注視していた。
馬を急がせるケイロンは、目的地について話した。
「港湾都市コルトス。十何年か前までは、近くの鉱山の採掘物を扱ってたんだが……」
「事故が起きて、鉱山が完全に停止したんだよな。で? おっさんの言うがままにコルトスに行くわけだが、理由は?」
「おっさ……ああ、ハイドラくんは寝てたから知らねぇよな、コレー?」
「私たちが寝てる間に、チュテンの街を聖者の一団が通り過ぎたんだよ」
ハイドラが起床する前、宿のかわいい給仕に起こされ、窓からざわつく街道に目を向けると、車列の最後尾と、それに手を振る人々が見えた。興奮気味の給仕によると、王都からコルトスに向かう聖者たちだったのだという。
「聖者……コルトスでなにかするつもりなのか」
「それを確かめにいくんだ。王都の反乱を鎮圧した教会の次の一手、追わないわけにはいかねぇだろ」
そう話す二人の指示で馬は走り出し、あまり事情を理解できていない私をもコルトスという街に連れて行く。
揺れる馬上はいまだ慣れない。やはりハイドラの体にしがみつかなければならず、すれ違う行人の目はなんだか生暖かい。けれど荒地に砂利を埋め込んだだけの何もない街道で馬から降りるわけにはいかず、私は馬か冷淡な視線に慣れるほかなかった。
しばらくすると、土地に明るくない私にもわかるくらい、景色が一変した。草原は山になり、削られた黄土色の山肌に、人工的な無数の横穴が空いている。平坦な地面には所どころに大きな穴が散見され、その穴の側面にも横穴が並んでいた。
どこか寂寥感を覚えるのは、広々とした緑の原風景が消えたからではなく、人工的なその場所に人の気配がなかったから。しかし、そこで何が行われていたかは想像できた。
「もしかして、ここが、鉱山?」
「そうだな。昔は何人もの坑夫が、ここでキラキラした石を掘ってた。今は、この通りだ」
鉱山を取り囲むように、廃墟が立ち並んでいた。かつての鉱山作業員が利用していたのだろうその建物群は、今はつる植物の桃源郷となっている。年月と盗人によって、誰にも修繕されない家屋は破滅の一途をたどり、その光景は、かつて鉱業で栄えていた街とその荒廃を表していた。
「もう、ここで働いてる人はいないのかな」
「いないだろう。噂に聞きゃあ、化け物がでるってよ」
「化け物って、虚骸?」
「ただの噂だ。盗賊が同業を近づけないために流布した可能性もある。この鉱山では、宝珠の原石が採れるからな」
ハイドラは、私の荷物を指差して言った。宝珠とは、魔法を使用する際に必要な石のことであり、私の命を救った医師の宝珠が荷物に入っている。ほんの一欠片でも大きな価値があり、両親が私の誕生日に花の種ほどの宝珠を贈ってくれた時、二人の顔が引き攣っていたのをよく覚えている。
「宝珠、気になるな。俺はそっちを探ってみる。おっさんは?」
「聖者の動きを追う。奴らがコルトスで何をしようとしているかすら分かってねぇからな。ただ、王国軍内では以前から新しい宝珠の不足が問題になっていた。多分、どっかで合流することになるだろ」
「……よく知ってるんだな、そんなこと」
まるで当事者だったかのように、ケイロンは王国軍の問題を指摘した。ハイドラの口ぶりから、それは事実なのだろう。
二人がどういった立場の人間なのか、いまだに分かっていない。ケイロンは飄々としていて聞いてもはぐらかされそうだし、軍にいながら愚者になったハイドラは聞いていいのかも分からないし、少し怖い。
「私はどうすればいい?」
「コレーは、そうだな。コルトスの街を観光したらどうだ。灯台からの眺めなんておすすめだぞ」
*
ハイドラに言われ、街の散策を始めた。
チュテンと同じく石畳の道沿いには一定の間隔で街灯が立ち並び、頑丈な石造りの建物は海沿いになると多層構造が増え窮屈そうに空を目指していた。
王都の歓楽街と比べても人通りの多さは遜色なく、故郷の農村がすっぽりと収まりそうな巨大な港と幾多の船とを行き来する積荷の数を見るに、紛れもなく王国の一大都市である。港で儲けているのか身なりの良い人はむしろこちらが多い。真っ白い灯台が丘の上で街を見下ろしており、鉱業が途絶え港湾産業に依存した彼らの生活を支えている。
礼服は宝珠と共に荷物に納め、今はケイロンに買ってもらった衣装を着ているから、聖者に間違われるようなことはない。騎乗用の白いキュロットとそれに合わせた黒いジャケットは、私をまるで男性のように仕立て上げた。宿の姿見に映った自分を見るや、無意識に表情が格好つけたように引き締まったのが、今思い返すと恥ずかしい。けれど、ハイドラからは「よく似合ってる」と評価をもらい、すれ違う女性の視線からも自賛するに足る雰囲気を感じる。
「灯台……へぇ、自由に登っていいんだ」
ハイドラに勧められた灯台の足元へやってきた。この展望台からみる大海原は、一見の価値があるという。
ゆうに五十メートルを越しているだろうその円柱形の入り口に、私は意気揚々と進み入った。
内壁に沿って二重の螺旋階段が急な角度で伸び、窓を抜ける斜光が届かない最上部はささやかに冒険心を掻き立てた。係員の誘導に従って、人が二人並べるくらいの幅の登り階段をやや早足で……
「…………ひ……高っ」
高さ一メートルほどの頼りない手すりを手が痛くなるほど強く掴みながら、一歩一歩確かめるように慎重に登る。農村で生まれ育った私にとっては、「高さ」というのは雲や飛ぶ鳥を見上げる時にしか気にしないことだったが、灯台を半分くらい登ったところで、ミミズを啄みに急降下する小鳥を尊敬しなければならなくなった。
「はぁ……はぁ……やっと、ついた……」
頂上である。正確にはこれより上に灯台を灯台たらしめるための光源とそれを管理する場所があるようだが、客人に過ぎない私と高所への恐怖心にはここが限界だった。
「さあ、どんな絶景が……」
待ち望んだ展望台、苦労に見合う絶景に期待しないわけにはいかない。もはや見慣れた石の階段から展望台の白いタイルへ足を踏み入れた私の目に、衝撃的な光景が飛び込んできた。
「ごめん、なさ」
「危ないっ!!」
それを見ると同時に、耳に入ってきた微かな声をかき消すように叫んだ。
頭が状況を整理するよりも早く、私を体を前へと投げ出し、目の前にいる少女の体を抱きしめた。
「えっ──」
細い体を締め付けるように捕まえた腕と上半身は、展望台の縁より向こう側にあった。私が抱きしめたのは、まさに今五十メートルを落下しようとしていた少女だったのだ。背負った重い荷物と足の摩擦、そして足りない力を根性で補い、無謀にも空へ飛び立とうとしていた少女の体を展望台へ引きずり上げた。
仰向けになって呆然と空を見上げる少女の肩を揺すり、再び叫んだ。
「何をしてるの!? なんで……! なんでこんなこと!」
「ごめんなさい」
「謝られても……事情は知らないけど、こんなこと絶対に」
「ごめん、私が、弱いから、ごめん、ごめんなさい、私は、守れない……ごめん……ごめん……」
からくり人形が口の可動部だけを動かすように、少女はただ天に向かい同じ言葉を発し続けた。そこに何かが浮かんでいるように、一点に空を見つめていた。明らかな異常。彼女の体が灯台から落ちそうになっていたのは、決して展望台の設計段階における不備だけが原因ではなさそうだ。
私は彼女を縁より出来るだけ離れた中央の柱まで引きずり、柱を背もたれにして座らせた。
「ごめんなさい……仲間、私の……」
「大丈夫。落ち着いて。大丈夫だから」
「あれ……私?」
しばらく背をさすっていると、彼女は今になってようやく私の存在に気付いた。隣で声をかけながら体を触る私に、彼女は特に驚く様子は見せず、ただ困惑しているようだった。
丸い大きな目がじっとこちらを伺う。二十歳にも満たないだろう見た目の、ハイドラより背の低い可愛らしい少女である。亜麻色の髪は活動的に短く切り揃えられ、しかしフリルのついたお洒落な水色のワンピースを着ている。
「落ち着いた?」
「はい……いえ、私、ごめんなさい……っ!」
少女は突如として大粒の涙を両目から溢し、肩を震わせながら私の体にしがみついてきた。初めは手で服を掴むくらいだったけれど、彼女の背に手を回して宥めるようにぽんぽんと叩くと、甘えた猫のように頭を胸元に擦り付けてきた。
私が救わなければ、今頃彼女は血の海に浮かぶ肉塊となっていた。死を目前にして、怖くなったのだろう。私も、宝珠を贈られ治癒魔法の練習をするなか、死について考えたことは一度ではない。私も闘技場で体感したが、現実の死を前に、教会が啓蒙する天国の逸話はあまりに頼りない。
「大丈夫だよ。もう怖くないから」
「うぅ……ズズ、ヒグッ……」
展望台に他の客がいないことを確認した後、泣きじゃくる彼女をゆっくり抱きしめ、頭を撫でた。少し指を立てても引っ掛からずサラサラと流れる、亜麻色の髪……どこか見覚えがある気がしたが、そんなことより彼女の方が大事だ。
五分、十分と経って涙も枯れ果て、目の周りを赤くした彼女は、涙で濡れた新品のジャケットを申し訳なさそうに眺めながらいそいそと体を離した。
「……ありがとう、ございます。ごめんなさい、初対面の人に、こんな……」
「ううん。死んでたら、泣くこともできなかったんだよ。ほんとうに、生きててよかった」
「…………そう、ですね」
「どうしたの?」
「い、いえ」
歯切れが悪い。たしかに、死んでしまおうという彼女の意向を無視して現世に引きずり戻したのではあるけれど。
他人の生き死にに関わることが、その人にとって良いことかはわからない。でも、一度命を救われた身で彼女を見殺しにするわけにはいかなかった。
彼女が言うように初対面だけど、そうしなければならなかった境遇に踏み込みたくなった。
「どうして飛び降りようとしたか、教えてくれない?」
彼女はしばらく考えた後、
「……はい。命の恩人であるあなたには、お話します」
「え? 待って」
ワンピースの前ボタンを外し始めた。思いもよらない行動に、訳を聞く前から驚いてしまう。半分くらいのボタンを外した彼女は、徐に上半身をはだけさせ、私に背を向けた。
高価そうなシルクの肌着より、彼女の肩は色白で美しかった。けれど彼女が見せたかったのは色っぽい肩ではなくて、そこにある別の物であることは、一目で理解できた。
「それ、もしかして……」
「はい。聖者の光印です。自己紹介がまだでしたね。私はアルテミス・ウォロー。ティタノ王国軍で、魔導師を勤めています」
「せ、聖者、なんだ」
左肩の背中側に、光こそ灯っていないが白い印があった。聖者である証だ。信憑性に限れば、荷物に入った白い礼服に大きく勝る。
愚者になる以前の私なら、その自己紹介を好意的に受け取っていた。けれど私は、太腿の裏に黒い印を隠している、愚者。──聖者の敵。
「誓約は、『仲間を守ること』です。……なのですが、私の力では、仲間を守れない……。この数日で、親友も、その弟も、失って……。父さんもいなくなってしまって。もう、仲間がみんな、消えてしまう気がして……。そうしたら、私は……」
敵、のはずが、私はどうも彼女に同情してしまっている。親友や親がいなくなった、もしかすると、あの闘技場やその後に勃発した王都の反乱が原因かもしれない。
彼女の言葉をそのまま受け取れば、彼女は仲間を守れないことや失ったことに絶望し、命を投げうとうとした──と、捉えられるだろう。
でも、きっとそうじゃない。「私は……」と言って口をつぐんだその言葉の続き。チュテンの街で見たはずだ。彼女のように自ら命を絶とうとした聖者を。
「虚骸になる、んだよね?」
「……! 知ってるんですね」
「うん。誓約を果たせなくなると、アルテミスちゃんなら、仲間がいなくなると、化け物になる。だから、虚骸になって周りに危険を及ぼす前に死のうとした」
「い、いえ! そんな高尚な意図は……。ただ、仲間を失うことが怖かっただけで」
優しい娘だ。虚骸になって、見境なく辺りを攻撃する化け物に身を落とすより、自分一人が死ぬことを選んだのだ。
「あの、虚骸のことをご存知ということは、あなたも聖者なんですよね。お名前は……」
「えっ!? あっ、と。名前はコレー。治術師なんだけど、今は予備役? で、故郷の田舎にいるんだ。誓約は、『人を癒すこと』だよ」
ハイドラとケイロンに「聖者コレー」として創ってもらった設定をそのまま話す。田舎の予備役、という非番の役職が、王都の管轄から一番遠く、軍部で活動していたハイドラもほとんど知らないという。
「治術師なんですね。コレーさんは、今は何か別のお仕事を?」
「うん。農業をしてる。ここが私の家だったら、野菜たっぷりのラタトゥイユをご馳走したんだけどな」
「それは、美味しそうですね。農業は、お忙しいですか?」
「もうすぐ春が終わるから、しばらくは暇かな? 仕事がないわけじゃないけどね」
アルテミスは少し残念そうに「そうですか」と言い、空を見上げた。その視線の先にいるのは、彼女が守れなかったという仲間たちだろうか。
私は、無責任に大丈夫、大丈夫と唱え続ける怪しい占い師ではないはずだ。
不安げな彼女の肩を抱き寄せた。
「ね。私は、アルテミスちゃんの仲間だよ。だから、心配しないで」
「……ありがとうございます。コレーさん」
「それに、アルテミスちゃんに仲間を守る力がないなら、もうとっくに虚骸になってるはずだよ」
「そう、ですよね! 私、頑張ってみます」
彼女は初めて笑顔を向けてくれた。屈託のないプリムラのような笑顔だ。つい頭を撫でてしまうが、拒否はされなかった。
妹がいれば、こんな風なのだろうか。私には兄弟がいないからよくわからないが、おそらく彼女が私の妹なら、散々甘やかす姉のせいでこんな純真な少女には育たなかったかもしれない。
「応援してるね」
「はい!」
「そうだ。この街に王都の聖者が来てるみたいだけど、何かあったの?」
「ああ、それはですね……」
彼女を励ましていると、どうやら信頼を勝ち取っていたようで、彼女はコルトスにやってきた王国軍の目的を教えてくれた。