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愚者ハイドラの復讐  作者: タタクラリ
一章 王都動乱
3/13

3. 治癒師と弓師

 アリーナの入場口から客席に飛び移る。

 客席は、愚者の目をしても、もう見ていられない状況だった。

 アリーナへ投石を試みる正義感のある者は最前列へ降り、その他多くの観客はアリーナから離れるように通路を登った。すれ違う意思を持つ彼らが、狭い階段状の通路をすれ違うことはできなかった。

 ぶつかり合う両者は、互いに道を譲ろうとしない。決して、どちらかが間違ったことをしているわけではない。ただ正義感と生存欲が相容れないものであった、そして同じ事象に対し異なる感情を抱く彼らの座席が分けられていなかったことが呼んだ不幸だった。


「退いてくれ!」「お前らが退くんだ!」

「子供がいる!」「ヘルクリーズ様!!」

「やめろ、うおぉぉ……!」


 通路の一つでは頭上を取った正義感が押し勝ち、塊のようになった五十以上の人体が雪崩れ、鉄柵を簡単にへし折り、叫び声を遺言に水堀へと没した。

 自らの末路を見た別の観客たちは、一旦平常を取り戻した……かのように思えたが、そこに聖者の指示が飛んだ。


「愚者が暴れ出した! 迎え撃て!」

「逃げろ! 殺されるぞ!!」


 増援の要請と、俺から逃げた二人によるものだ。

 二つの異なる指示は、喧騒の直中にある客席では正確に伝わらず、観客を整理しないといけない聖者や衛兵は大混乱に陥った。混乱は混乱を呼び、もはや公民問わず組織的な行動は為されなくなった。


「地獄……だな……」


 客席を実際に歩いてみると、アリーナで燃える愚者の熱波が届き、なんとなく闘争心と恐怖心の両方が掻き立てられる感じがした。

 ふと、こちらを目掛けて近づく気配が二つ。


「ハイドラ! その血は……」

「斬ったのね、その刀で!」


 増援の聖者、たった二人。情報が錯綜していて、まとまった戦力は送られてこないようだ。

 灼印が煌めく。それを見た二人は身震いした。

 俺の誓約がなんであれ、灼印が反応したことは、俺の力が増しているという証左なのだ。


「……今頃、観客席でヘルクリーズ様の闘技を観戦してるはずだったのに……!」


 女性が文句を言い切った時には、それを聞いているのは俺一人だけだった。喉を損なった体が足元に倒れた。

 女性は瞳孔をみるみる小さくすると、抵抗するのを諦めた。もはや持ち上げる気力も出ない剣を水堀に投棄し、愚者とヘルクリーズが戦うアリーナを眺めた。その様子に、一瞬、剣が鈍ったような気がした。


「ね、ハイドラ。君が斬り殺した人の中にね、私の好きな人がいたんだよ。伝えられなかったけどね。ハイドラも結局、聖者になれなかった……なんなんだろうね、ホント……」


 背中から胸まで繋がる穴を開けたこいつが、最期はどんな表情だったか分からない。ただ、楽しみにしていたヘルクリーズの決死の戦いを観ても、心は満たされなかっただろう。


「……知らねえよ」


 ……俺もそうだ。聖者をいくら斬っても満たされない。誓約の感情はきっと永遠なのだから、永遠に満たされることなんてないのかもしれない。知り合いを斬り捨てる所業には、とても割りに合わない。

 俺にできるのは、ただ目的以外を頭から遠ざけることだった。


「魔法使いは……あそこか」


 地獄を作り出した近因となるあの魔法を使った若い女性は、体中に打撲を創り、衛兵の肩に担がれぐったりとしている。

 破けたロングスカートの奥、太腿の裏側に、黒い紋様が見えた。

 ──愚者だ。あの魔法には利用価値がある。蘇生といえるほど愚者の傷を癒し、力を増幅し、ただの雑兵ですら数を揃えればヘルクリーズを追い詰められる魔法だ。

 混乱の最中を縫うように進み、衛兵を追う。

 アリーナの近くでなくとも、血の匂いが濃い。醜く争っていたわけではないのに、床には数種の靴の跡が残った血まみれの人間──多くが女性や子供、老人だった──が転がっていた。愚者でも聖者でもない、昨日まで愚者に怯えながらも平和に暮らしていた市民だ。

 愚者の身体能力は、人間がいくら訓練しても到達できない領域にあった。

 十数回地面を蹴るだけで、観客席を半周し、衛兵の元へ辿り着いてしまった。

 普通の人間のままヘルクリーズに勝とうとしていたことが馬鹿らしくなった。


「おい、お前。止まれ」

「……っ! ハッ、ハイドラ様っ! ただいま、愚者の女を闘技場から移送中で……」

「…………聖者、じゃない……」


 女性の体を避け、衛兵の首に刃を下ろす。聖者に比べて、一般人の肉体は卵の中身のように柔らかく、あやうく女性の体まで刃が届きそうになった。

 しかし、刀を濡らす血は聖者のそれより重い……気がした。

 

「…………わっ」


 衛兵の亡骸と愚者の女性は、女性を下にして重なって倒れた。

 女性には、成人男性といくつかの鉄板を押し除ける力が残っていなかった。

 肩に軽く触れるくらいの短い黒髪を生やす頭皮は所々めくれて血が滲み、ピクリともしない腕は本来の間接とは反対側に折れていた。

 衛兵の体をどかしてやる。異様に重い。同じ大きさの岩のようだ。

 衣服からおそらく体内までボロボロになった女性の全身があらわになった。

 歳は姉さんと同じぐらいか。背はかなり高く、脚は彫像の女性のように長く細いのが印象的だった。破かれた衣服は特に胸元が大きくはだけており、肋骨の形がよく見える控えめな胸だが指で押して出来たような大きさの新しいアザがいくつもあった。


「話せるか」

「う……ぅ、ゴホッ、ゴホ……君、は?」


 猛獣に咬み殺される寸前の剣闘士のような目で見上げられる。もしくは、人間に酷いいじめを受けた猛獣の目だ。血と混ざった赤黒い涙が首まで流れていた。


「ハイ…………愚者だ。お前の味方だよ」

「味方……」

「回復魔法を使ったのはお前だな。自分で動け……るはずないか」


 抱きかかえようとすると、女性は苦悶の声を上げた。負傷していない場所を探す方が難しい体は、腕をほんの少し動かすだけで絶叫を誘発した。

 混乱の中でも、負傷者を探し治療して回っている医者や魔術師がいる。助けを求めるような叫び声を聞いて誰かがやってくるかもしれない、そう警戒し、自分の左腕と女性の腿にある灼印を、近くに落ちていた包帯でぐるぐる巻にして隠した。


「ハイドラ君! その女性は?」

「お前は……」


 女性の声を聞きつけたか、一人の医者が駆け寄ってきた。

 彼は、俺がかつて所属していた秩序維持部隊『オリンポス』の遠征によく共に赴いていた、老練な軍医だった。腕のいい医者で、異なる知識を要する魔術と薬術による医療を併用できる。

 まさか俺が愚者になっているとは微塵も疑っていない彼は、俺が負傷者を介抱していると思い、医療箱を開いて拳大の宝珠を取り出した。


「君、自分の名前は言えるか」

「あの……あなたは……」

「怯えなくていい、彼とは友人の医者だ。君を治療しにきたんだ」

「……コレー」


 女性はコレーと名乗った。声を出すのも辛そうだ。

 幸い、この軍医は聖者ではない。聖者の治療を長年の生業としているはずなのだが、精霊は彼を訪れていないらしいので、コレーのために協力することができる。


「ハイドラ君、麻痺術を使うから、コレー君の腕を真っ直ぐに伸ばしてくれ」

「分かった。……我慢しろよ」

「よし、やれ!」


 水晶玉に似た空色の宝珠の内側が天空の星を写したように輝くのに合わせて、女性の左腕を掴んだ両の手に力を込める。無理やり関節を正しく戻して固定し、様子を見ながら薬か魔術を使い回復を待つのである。似た方法で完全に切り取られた腕が元に戻るのを見たことがあるから、十分な治療法だろう。


「いぃっ……ぁぁ……ああ──!!」


 骨だろうか、硬いものが擦れる嫌な音が聞こえ、コレーは歯を食いしばり首を大きく振って抵抗した。治療しているのに、剣で体を刺され即死できなかった奴のような引きつった顔だ。


「おい、麻痺術は効いてるのか!」

「人間にはこれで十分だ。聖者相手なら出力を高めるが……」

「じゃあそうしろ!」

「待て、コレー君は聖者なのか? この魔術は本来、人体には危険なんだぞ」

「……ああ、そうだ! この闘技大会で聖者になったんだ!」


 下手な誤魔化しだが、軍医は納得してくれた。聖誕の儀式の直後、聖者が最も生まれやすいタイミングだからだ。もしかしたら納得するに至っていないかもしれないが、辺りを見渡し「コレー君だけに時間を使えない」と言い、治療を優先した。

 宝珠の色が濃い青色になると魔術の出力が高まり、コレーは抵抗していたのが嘘のように落ち着いた。

 殺した衛兵の短槍を半分に折り、添え木にして腕を固定した。


「よし、右腕も同じ要領で……」

「おい、いたぞ! あそこだ!」

「……チッ、こんな時に」


 槍を持った聖者が俺を見つけ、衛兵を呼びつける。

 瞬く間に、軍医やコレーごと、十人ほどに取り囲まれた。


「軍医殿、そこから離れてください! ハイドラは愚者となってしまった! 事実、聖者を何人も斬り殺した、危険です!」

「…………」


 認識範囲内に聖者が現れた──

 包帯は灼印が放つ強い煌めきを隠すには頼りなくて、左手首の黒い光ははしたない欲に駆られた男根のように俺の意思に関わらず主張し、女性の治療に努める善人の正体を分かりやすく示した。

 軍医は白い布を貫通する深闇を見て、眉間に皺を寄せた。

 やってきた衛兵が、コレーを指差して言った。


「おい、あの女だ! あいつが愚者になって、妙な魔法でアリーナの愚者どもを復活させたのを見た!」

「すぐに殺せ! ヘルクリーズ様をこれ以上危険に晒すわけにはいかん!」


 問答無用で、槍の穂先が向けられる。

 俺は傍らの刀を手にし、切先を方々へ向けて威嚇した。

 軍医へも同様に刃を差し向けた。コレーは麻痺術の影響下にあり、出力を高めれば命を奪うこともできるはずだからだ。

 聖者と衛兵は、同僚をいくつも殺めた仇敵に慄きながらもジリジリと距離を詰めてくる。


「……治療を続ける」

「えっ?」

「争っている時間はない。自分の強欲を優先するなら、好きにしろ」


 軍医はその場を離れず、麻痺術をかけ続けた。


「なんで……」

「…………」

「軍医殿、何をしている! 愚者の治療など、叛逆も同義だぞ!」

「ふん、何を今更。腕の折れた奴も、爪が全部剥がれた奴も、歯を抜かれた奴も、お前ら聖者の命令で何人も治療してきたさ」

「拷問のことを言っているのか! あれは愚者の徒党を一網打尽にするための善なる行いだ! まさか愚者に情が移ったとでもいうのではあるまいな!」

「…………ハイドラ君、右腕は」

「も、戻った!」

「よし、治癒術だ。魔術でさっと終わらせるぞ」

「貴様らァ! もういい、軍医ごと殺──」


 頭上を何かが素早く通り過ぎ、ドスン、という音が鳴ると、聖者が胸から血を吹き出して倒れた。矢である。矢尻の突き刺さった角度から、闘技場の外壁の上から放たれたものだと推測できる。

 衛兵の間に動揺が走った。人を辞め、一から作り替えられたように頑強な聖者が即死したのだ。


「撃ち下されてるぞ!」「逃げるか!?」

「聖者様の死に報いろ!」


 俺が刀に手を添えると、衛兵たちは一歩退く。

 とはいえ周りを囲まれている状況であり、王家の膝下に駐屯する衛兵たちが、いつ決死の突撃をしてくるかわからない。弓師に見下ろされながら膠着を維持しようとするほど、彼らは兵法に不埒ではない。

 治療術の時間を稼がなければならないが……


「ハイドラ君、これを」

「これ、宝珠……?」


 軍医は、魔法を使うのに欠かせない宝珠を俺に手渡した。俺は魔法なんて使えないし、それをこの軍医も知っているはずなのに、深青の宝珠を俺に押し付けるように手放した。


「継続的な術を込めた。二日間はコレー君に持たせておくことだ。さあ、私の仕事は終わった、早く行きなさい」

「待て! 奴を止めろ! 叛逆者も殺してしまえ!」

「行け!」


 軍医が必死の形相で叫んだ。

 宝珠というのは、おいそれと手放せるものではない。トウモロコシの一粒くらいの大きさで、一般的な王都平民の十年分の収入が必要となる。宝珠の大きさに応じて価値は指数関数的に増加し、今この手にあるのは、四十年以上軍の最前線で職務に当たっていた男がようやく手にした代物である。

 その意味を考える余裕もないまま、俺は飛来した矢が開けた包囲の穴から、コレーを両手で抱えて駆け抜けた。奪った刀は地面に置いたままだ。

 弓の支援はあくまで俺のためのもので、軍医は迫り来る短柄の槍を受け入れるしかなかった。

 覆すに能わない最期の寸前、背後から軍医が語りかけた。


「ハイドラ君。君の姉を、ユスティナ君を殺したのは私だ。強い毒を調合し、彼女の杖に塗った」

「……は?」


 予想だにしない発言に、言葉を失った。

 発言の真偽はもはや誰も知り得ない。振り返っても、もう聞くことなどできやしない。

 衛兵の曲げられた右肘がピンと伸びて短槍の柄尻を前に押し出し、心臓をひと突きにした。仰反る軍医の上半身を後ろから肩に突き刺した槍が支え、力なく崩れ去ろうとする体を腹から突き上げた槍が支えた。


「ヘルクリーズ……を……止め…………ろ……」


 殺意を奮い起こさせる前に、彼は死んでしまった。一生を国に捧げ、それでも聖者になれなかった理由を示すような遺言を投げかけて。

 俺はコレーと軍医の宝珠を抱え、通路の階段を駆け上る。

 アリーナでは、ヘルクリーズがすでに愚者を半分ほど斬り伏せていた。愚者の体で延焼し増幅した浄化の炎は、蘇り続ける命を二度、三度燃やし尽くすと、ヘルクリーズの聖剣へ戻って際限なく強化していく。


「逃げるのか!! ハイドラァッ!!!!」

「ちゃんと戻ってきてやるよ。いつか殺してやる、それまで待ってろよ」


 奴を殺したくて仕方がないが、剣を握っていなければ不思議と冷静だった。

 この世に生まれ落ちてから今日まで、一緒にいる時間の方が長かった俺たちは、ついに袂を分かつこととなった。相容れない感情は誓約であり、失うことは二度とない。再び肩を並べることは、二度とない。

 そもそも俺とヘルクリーズは、教皇が経営する孤児院で兄弟のように育ってきたが、血が繋がっているわけではない。そして俺の唯一の肉親である姉を、あいつは殺した。軍医は『毒を塗った』と言っていたが、姉さんの杖に毒を濡れるのなんて、寝屋を同じくするあいつしかいない。

 軍医は加えて『ヘルクリーズを止めろ』とも言った。大義名分を得たのだ。

 愚者の拷問、味方の謀殺……ティタノ王国の裏を知る彼が聖者になれなかったのは、善なる感情を持てなかったからではなく、


 ──平和のために犠牲を厭わないあらゆる所業を、善として捉えられなかったからだ。


 燃え盛る浄化の炎のおかげで地獄の釜のようになった闘技場は、多数の死者を出した反面、多数の聖者もまた誕生した。俺が殺したより、ずっと多くの聖者だ。

 死にゆく民を見つめる沈痛な面持ちの新たな聖者たちは、一生を平和の実現のために捧げようとすることだろう。その裏に多くの犠牲があると知りながら、それすら善として受け止めるのだろう。


「窓から飛び降りろ!」


 弓師の指示を受け、闘技場の側面に等間隔に並んだガラスの付いていない高さ一メートルほどの窓から、身を投げ出した。

 腕の中のコレーに「堪えろ」と言い、できる限り衝撃を和らげようと馬車の荷台を経由し、草地を選んで地面に降り立った。

 空の赤らみも消えてだいぶ薄暗くなっており、人知れず離れるには丁度いい時間帯だった。


「大丈夫か?」


 着地の際に低い唸り声を出したコレーを心配して声をかけると、彼女はゆっくりと頷いた。宝珠の術が作用しているのか、険しかった表情もかなり安穏になっている。

 落ち着いて見てみれば、驚くほど整った顔だ。可憐というより端麗、男装で馬上にいるのがよく似合いそうだと感じた。立ち姿は見ていないが、目分で計ると男の俺より背が高いようにも思える。

 衣服は目に余るほど凄惨に引き裂かれており、その役割を全く果たせていないほどで、コレーは夜の寒い気配に身を震わせた。

 そして何より、男の目にはいささか刺激的だった。


「これ、着てろよ」

「いいの? これ、すごく良い生地だよ」

「もう要らないからな」


 身につけていた白い礼服を、コレーの肩にかけた。ローブのような礼服は、それだけで全身を風から守ることができる。俺には少し大きかった礼服も、彼女の体には丁度良かったようだ。別に悔しくない。

 俺は礼服の下に白い麻の服を一枚着ており、散々剣を振るって体は暖まっていた。それに邪魔な礼服がないほうが、身軽で戦いやすい。

 見た目、とりわけ顔立ちの端正さというのはその人の印象を大きく決定づけるようで、礼服を纏ったコレーは、当人が愚者であるにも関わらず聖者であるようにしか見えなかった。

 色々と奸策が思い浮かぶなか、蹄が石畳を踏みつける小気味良い音が近付いてきた。薄暗くて分かりづらいが、栗色と黒色の二頭の馬が、人の騎乗した栗色を黒色の空馬が追うようにしてやってきたのだ。二頭と一人は、俺たちの前で止まった。


「無事か、お二人さん!」

「弓……お前か、助けてくれたのは」

「おう、そうだ、ケイロンって呼んでくれ」

「ああ、俺は……」

「ハイドラ、だろ」

「知ってるのか」

「いや、当たり前? 王都じゃだいたい知ってるって」


 弓と矢筒を背負った男は、ケイロンと名乗った。

 四十代くらいのくたびれた顔つきだが、顎に髭を生やした口元からは若者ぶったような軽い語調が現れる。亜麻色の長髪は汗で額にへばりついており、肩が上下に少し揺れている様が窺えた。

 闇に紛れる真っ黒な装いは、短剣や弓をはじめとした様々な装備を繋ぐ帯やポーチも黒く染めてあり、フードを被れば彼を夜に溶け込ませることだろう。


「それで、その姫さまは?」

「コレー、だってさ。だよな?」

「うん。コレー・ティト」


 姫さま抱っこの腕の中で、コレーは腹の上に宝珠を置き、それを両手で包み込むように持ちながら、名を口にした。すでに彼女は元来の調子を取り戻してきているのか、数刻前より快活な明るい声になっていた。


「ハイドラが外に逃げた! 探せ!」


 俺を追って、闘技場の外縁まで捜索の手が及んでいるようだ。


「……おっと、お喋りは馬上でしようか」

「こいつは二人乗れるのか?」

「甲冑の騎士も騎乗できるから、少なくとも二百キロは積めるぜ」

「ならいい。コレー、乗れるか」

「え、乗ったことは、ないかな。村で飼育を手伝ったことはあるけど……きゃっ」


 コレーの腰を担いで無理やり馬の首を跨がせた。

 推定九百、あるいは千キロをも超えるような馬体は、女性が一人跨ったとてびくともせず、俺がその前に乗っても平気そうにしていた。

 手綱を取り、鐙に足をかけて姿勢を安定させる。遠征には馬は欠かせず、たまの休暇にはよく遠乗りに出かけるため、慣れたものだ。

 「掴まってろよ」と言うと、腹の前に腕が回ってきた。背中に密着したコレーは「落ちない?」と不安げな声を出し、早いテンポの拍動が伝わってきた。


「ちゃんと掴まってたら大丈夫だって」

「わ、わかった」

「よし、んならさっさとトンズラするぞ! とりあえず、遠くまで!」



 闘技場が遠ざかっていく。

 燃え盛る炎は王都内で燻っていた火種に延焼し、都市の至る所から点々と火が上がった。ヘルクリーズを含む聖協会の戦力が混乱の下にあるなか、隠匿していた愚者たちが一斉に蜂起したのだ。

 いくつかに分かれた武装勢力は示し合わせたように、王都を区画ごとに制圧していく。広い王都で、これだけ統率の取れた叛乱は容易ではない。叛乱勢力を率い、火を燃え上がらせた何者かがいる。

 馬に駈歩を指示し、しかし上下にほとんど揺れることなく、崩れ去る市庁舎を見つめるケイロンの横顔は、ただならぬ決心を眉間のシワから滲ませる一方で不安を湛え揺らいでいた。

 闘技場から、昇竜のように青い火柱が天高く上がった。ヘルクリーズは生きている。あいつはこれから蜂起した愚者の殲滅を始めるだろう。王都が陥落するか、愚者が全滅するか、どちらかだ。あいつはこのくらいで死ぬ玉じゃない。

 叛乱が長引けば、追手も情報も遅れる。そうした方が、俺に都合がいい。

 だが、長引け、と願えない中途半端な心中のまま、冷たい夜風と家屋から発せられる炎の熱気を顔に受けながら、崩壊しゆく故郷を後にした。

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