5話 我、脱出す
まるで時が止まったのかと錯覚してしまうほどの、痛々しい沈黙が深淵を支配した。
黒い少女はダブルピースをすると、
『冗談じゃぞ』
エリオットは無言で赤ん坊の頭ほどの石を拾い上げた。
『待て待て待て! 冗談と言っとるじゃろうが! 痛いのは止めてくりゃれ……』
「るっせ! 紛らわしいこと言うんじゃねえ!」
『余が隠された性癖を暴いてしまって申し訳ないのう』
「隠してねえし、そんな性癖は無い!」
必死になって言い返すエリオット。
少女はその必死さに一しきり笑った後、えらそーに言う。
『安心するがよい。これは世を忍ぶ仮の姿。前の持ち主の従者の姿を借りているにすぎん』
――ああ、前の持ち主がそういう趣味だったんだな。
黒い少女はどこから取り出したのか、同じく黒い扇で口元を隠した。
『そして、余の姿はおぬしにしか見えぬし、おぬしにしか余の声は聞こえぬ。なぜなら余はおぬしの一部であり、おぬしは余であるからじゃ』
「……」
エリオットは反射的に周囲を見渡す。
よかった。誰もいない。
黒い少女はクスクスと小さく笑った。
『余は“魂喰らい”。斬った相手の肉体だけでなく、精神すらも斬る魔剣じゃ。余の新しきぬしよ、よろしく頼むぞ』
彼女が差し伸ばした手に実体はない。
エリオットの手は何事も無かったかのようにすり抜けた。
「さよか。じゃあ、俺がダンジョンから脱出できるよう、せいぜい手伝ってくれよ。タマちゃん」
『タタタタタマちゃんんんん!?』
「なんだよ不服か?」
『当たり前じゃ! 余を誰じゃと思っておる!』
「知らねーよ」
ぷんすかと怒るタマを無視して、エリオットは歩き始めた。
足が上がらず、痛む身体を引きずるようにして。
◆
深淵は最も深き迷宮の第6階層にある大穴である。
幸いなことに大穴の縁には螺旋状に道があり、それに沿って上がるだけで脱することはできそうだ。
ただ、“上がる”というのが一筋縄ではいかない。
なぜならここはモンスターが跋扈する、最も深き迷宮なのだから。
表面に浮かんだ全ての目がエリオットに向けられ、“不定形のもの”が触手を伸ばした。
それらは開口した牙であり、手のひらであり、尻尾であり、目であり。
無数の触手がエリオットに迫る。
「ええい! お前は生理的に受け付けない!」
左腕を一閃。
触手は全て千切れ飛び、汚泥めいた塊となって地面に落ちた。
『AAAAAAA!』
“不定形のもの”が絶叫する。
エリオットはさらに後方へ跳躍。
“不定形のもの”の触手の範囲外から逃れると、踵を返して一目散に走り出した。
『倒さなくてよいのかや?』
すぐ隣に浮かんだタマが訊く。
「いい。ショゴスの相手をするのは骨が折れる」
エリオットの額には脂汗が浮かぶ。
無茶な動きの戦闘によって、彼の塞がりかけた傷がまた開こうとしているのだ。
また、血を流しすぎたというのもある。
奇怪な鳴き声が聞こえなくなったのは、体力をほとんど消耗したエリオットが道端にへたり込んだ頃だった。
『大丈夫かや?』
タマが覗き込む。
「わりと大丈夫じゃない」
エリオットの言葉尻が僅かに震えている。
『そうかそうか。余にその身体を渡してみよ。さすればおぬしをダンジョンの外へと連れ出すことなど容易じゃぞ』
「誰が乗るか、そんな誘いに」
エリオットは震える手を付いて立ち上がった。
彼の顔色は真っ白だ。
『おぬし、その顔色。怪我だけではあるまい。余との拒絶反応が出ておるぞ』
「じゃあお前のせいだな。なんとかしろ」
『むちゃを言わんでくりゃれ。余はこんなにも可愛いんじゃぞ。歩み寄るのはぬしの方じゃ』
タマは肩をすくめてため息をつく。
拒絶反応というよりも、単純に体力気力の減衰が原因だとエリオットは思った。
装備を全て失ったせいで、携帯食も火付けの道具もない。
水も飯も何もない状態で深淵を登っているのだ。
衰弱死しないでいるのは魂喰らいのおかげなのだろう。
『不思議なものよ。おぬしら人という生き物は、モンスターと身体を融合させて力を得るなどと、倫理感の欠片もないことをよくするの』
世間話のつもりだろうか。
だとするといささかヘビーである。
『ぶっちゃけ気持ち悪い』
「うるせぇ」
エリオットは人外の左腕に視線を落とす。
「俺たちは生きるために、お前らみたいな人よりも圧倒的に強い奴らと戦っているんだ。人間辞めないで、どうやって人間より強い奴を倒せって言うんだ」
『むぅ。なるほど。一理あるな』
「ふんっ」
『まぁそれも、余に身体を明け渡せば解決じゃな』
「遠慮する」
エリオットは左腕を、さながらおろし器めいて地面にこすりつける。
『あばばばばばば!』
タマの姿はあえなく霧散。
おかげで周囲が静かになった。
「……行くか」
グールめいた様相のエリオットは、覚束ない足取りで進み始めた。
最も深き迷宮から脱出するのが先か、それともこの左腕に身体を乗っ取られるのが先か。